02 本当に雇ってやる

 果てのなき広大なる世界、フォアライア。

 世界に存在する三つの大陸には、果てがないとされていた。

 北東のラスカルト大陸は、その東方に無限に広がる砂漠を抱える。北西のリル・ウェン大陸の北方には、霧立ち込める大森林が存在し、南のファランシアの南方には、頂の見えぬ大山脈がそびえる。

 それらの向こうを訪れて、帰ってきた者はいない。

 人々は、この世界に果てのないものと考えた。

 各大陸間は、没交渉だった。

 ごくわずかな者たち――大陸を越えて商売をする商人トラオンや、見知らぬ大陸に夢を見る冒険家など――だけが、広大な海を越える。

 多くの人々は、ひとつの大陸に留まった。

 もっとも、そのなかの大多数は、ひとつの大陸のなかでも、そうそう移動をすることはない。生まれ育った町か、せいぜい歩いて数日とかからぬ近隣の行き来のみで生涯を終えるのが普通だ。

 大都市間を移動する隊商トラティア芸人一座トランタリエ、それらを護衛する戦士キエス、または放浪そのものを楽しむ旅人か、故郷を追われる犯罪人にでもならない限り、大きな移動をすることはない。

 ユファスは商人でも芸人でも戦士でも旅人でも咎人でもなくかった。

 だが彼は、ファランシア大陸の北方陸線上にある王城都市エディスンから、西端の王城都市アーレイドへと居を移すことになった。

 それは、いくつかの出来事が重なったためだった。

 ひとつには、肩の怪我。

 エディスンの街で軍兵セレキアをやっていた彼は、街道警備の任務の際に酷い負傷をし、生死の境をさまよった。幸いにして一命を取り留め、軽い後遺症はあるものの日常生活に問題がない程度まで回復したが、規定により兵士を続けることはできなくなったのだ。

 次には、アーレイド城の料理長トルスが、滅多なことでは休まぬ勤めを休んで、エディスンにきていたこと。

 何でも昔、彼と彼の父を置いていった母親がエディスンで死んだことが判って、弔いにきたのであるとか。

 職を探していたユファスとトルスが行き合ったのは偶然以外の何ものでもなかったが、当の彼らだって最初は、こんなことになるとは思っていなかった。

 トルスの職場たるアーレイド城の下厨房――使用人用の厨房が慢性的人手不足であることは事実だったが、トルスとしてはエディスンで勧誘して料理人が釣れるとは思っていなかったし、ユファスだって高名な料理人でもないのにそんな遠くへ誘われるとは思っていなかった。

 ユファスは、トルスの欲する最低限の能力は既に持っていたものの――軍兵は街の外に出れば、食事の支度を持ち回りでやらなければならない――、そちらが本気なら乗る、と若者が答えたことに、トルスは少なからず驚いたようだった。

(言っておいて何だが)

 トルスは渋面を作って彼に言った。

「隣の街区までちょっとこい、ってな話じゃないんだぞ。判ってんのか」

「トルスさん《セル・トルス》)」

 そのときのユファスは、敬称をつけて初対面の人物を呼んだ。

「軍兵にはいろいろなことが求められますけど、いちばん大事なのは」

 彼は指を一本立てた。

「上官の言葉を一度で正しく理解することです」

 真面目な顔で言えば、西の街の料理長は笑った。

「いいだろう、若いの。アーレイドまでは自費、その後にやっぱり使えなかったと放り出されても苦情を言わず、身の振り方まで自分で決める、知らない街でそこまでできる覚悟があるなら、本当に雇ってやるよ」

 ユファスとしては、酔っ払いの冗談のようなその話――トルスは素面だったが――に乗る必要などないと言えばなかった。

 任務上の負傷による退役にはきちんと補償が出る。焦って仕事を探す必要も、ないと言えばなかった。

 休んでいるより動いていたいという気持ちはあった。補償金が永遠に出る訳でもないのだから働き口を得ておかなければならないと考える真面目な若者だということもあった。

 しかしそれなら、同じエディスンのなかで仕事を探せばいいのである。

 なのに彼が遠いアーレイド行きを選択したのは、ちょっとした見栄だったろう。

 と言っても、遠くの王城に抜擢されたのだなどと中身のない嘘を言いたがったのではない。

 エディスンで暮らせば、どうしても軍兵時代の仲間と行き合う。

 気の毒に――という視線で見られることが、そのときの彼にはとても痛かったのだ。

 トルスの勧誘はユファスにとって、全く違うところで全く違う仕事、全く違う暮らしのできる、最高の好機だった。

(でも、誤算だったよな)

 ひとつだけ、そのときにとっさに立てた計画に沿わなかったことがある。まだ成人を迎えない実の弟のことだ。

 ユファスとしては、弟を一緒に連れて行くつもりだった。と言うより、当然一緒にくると思っていた。

 両親を亡くした彼らは縁の薄い親戚に引き取られていたが、遠い叔父と叔母は、彼ら兄弟を厄介者として扱うことを少しも躊躇わず、だからこそ早くに自立しようとユファスは軍入りをしたのだ。

 親戚は優しくはなかったが、寝床――汚くても――と食事――少なくても――を提供してくれた彼らには感謝している。返礼として、稼いだ給金や補償金の一部を渡すことに抵抗はなかった。

 ただ、弟をひとりで彼らのもとに置いておきたくはなかった。

 しかし当の弟ティルドは、エディスンに残ると言った。成人も間近であるし、離れる気はないと。

 わざわざ兄が遠くへ行く意味が判らない、という途方に暮れた顔を思い出すと、悪かったかなとも思う。

 それでも間もなく成人をすれば、元気のよい弟はどんな職にだって就けるだろう。もし困難であるようなら、ユファスがアーレイドで暮らしを安定させ、改めて弟を呼んでもいい。そんなふうに思っていた。


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