第五章 ④

「本当に」恵理は言った。「ぶざまったらありゃしない」

「ぶざまでもなんでもかまわない。わたしは神の子になんてなりたくないの。わたしのどこが美しいって? あなたはこれよりもひどい姿になろうとしているのよ」

「神の子を愚弄するなよ、おばさん」

 静かな言葉だったが、怒りが含蓄されていた。

 恵理は右足で静枝を突きやった。

 静枝の体が仰向けになる。

 形の整った二つの乳房――それのみは美しい、と思える部位があらわになった。

 しかし、静枝は動かない。

 たまらず、美代は恵理の左腕にすがりついた。

「恵理さんやめて! こんなのひどすぎる!」

 女ゆえの思いだった。

「ひどい?」恵理が美代を見た。「誰に向かって言ってんの」

 恵理が一指もふれていないのにもかかわらず、美代は瞬時にして弾き飛ばされた。床を転がった美代はすぐに立ち上がろうとするが、上半身を起こしたとたんに見えない何かに体を押され、へたり込んだまま後方へと床を滑った。そしてドアの横の壁に背中が当たり、その場に押しつけられてしまう。

「さあ、始めましょう」

 言いながら、恵理は天井を見上げた。

 どんなに力を振り絞っても、美代は立ち上がることができなかった。もっとも、手足が動かせないだけで目や首は動かせるようだ。息もしていた。声も出せるはず、と信じ、思いきって口を開く。

「恵理さん、やめてください!」

 美代は叫ぶことができたが、恵理は天井を見上げたまま何かをつぶやいていた。

 その足元では、仰向けの静枝が黙して恵理を見つめている。

「い、あい、んぐ、んがー」恵理の声が大きくなった。「混沌の中心におわす神々よ、魔王に従える我が父よ、この身の昇華を認めたまえ」

 そして恵理は口を閉ざし、顔を下ろした。

 すべての動きが止まったかのようだった。

 静寂の中で、動けないまま、美代は恵理を見つめた。

 口を閉ざした静枝も、微動だにしない。

 ずっと漂い続けていた異臭が、わずかに強くなった。

「ああ……」と恵理が声を漏らした。

 異臭がさらに強くなる。

 目を凝らせば、恵理の衣服のあちこちから細い煙が立っているのだった。

 生ごみの残り香に焦げ臭さが加わった。

 次の瞬間、恵理の衣服が一気に燃え上がった。

 激しい炎が室内を赤く照らし、目を逸らすどころか、美代は見入ってしまう。

 炎はすぐに鎮火した。

 ほんのつかの間、顔に熱さを感じたが、その熱さも今はもう消えている。

 見る限りでは、静枝も炎の影響を受けていないようだ。

 そして――。

 恵理は全裸で立っていた。下着もすべてがなくなっている。あれだけの炎に包まれながら、彼女の肌にやけどを受けた様子は見られなかった。むしろ、闇に浮かぶ白い肌がまぶしいくらいだ。しかも、体型も美代が想像していた以上に美しかった。一方で、恵理の足元の床が黒ずんでいるのは、なんとなく窺えた。

 不意に、恵理がその場に崩れ落ち、うつ伏せになった。仰向けの静枝と並ぶ状態である。

 同時に、美代の手足が軽くなった。

 それは静枝も同様だったらしい。彼女はうつ伏せになると、左右の長い手を使って美代に走り寄った。

 昆虫の走りを彷彿とさせるその動きに美代は思わずのけ反るが、それでもまだ立てなかった。

「今のうちに逃げて」

 美代の目の前にある青白い顔が、そう告げた。

 何も返せずに、美代はただ、見開いた目を静枝に向けた。

「ぐずぐずしないで。恵理が昇華するまでに、少しだけ時間がかかるわ。今のうちにここから出るの」

 言い募る静枝に美代は「はい」と頷き、どうにか立ち上がった。

 そして美代は、見てしまう。

 うつ伏せの恵理が全身を顫動させつつ、先の静枝のごとく両手を床に突いて上半身をわずかに起こした。その彼女の両足が、見る見る短くなる。それに対して、両腕がどんどん長くなっていった。退化した両足はついには完全に消えてしまい、尻が左右に割れて広がり、そこから芋虫の胴のようなものが伸び出した。腕は長くなるだけではなく、左右の肩からさらに二本ずつの腕が生え、長く伸びた。

「見ている場合じゃないわ」

 そう諭す静枝も、恵理の変体に目を奪われていたらしい。

 我に返った美代が部屋を出ようとしたとき、恵理が跳ね起きた。

 それは、少なくと美代が見る限りでは、決して神々しくはなかった。異様なだけである。

 恵理は左右に三本ずつの長い腕で立っていた。それらの腕は昆虫の足のごとく、関節が人の四肢よりも多かった。足はなく、代わりに芋虫の胴体のような下半身――もしくは尾が、背後から頭上へと掲げられ、その先端にはいつの間にか蟹のはさみのような巨大な部位が備わっていた。

 計六本の腕を使って素早く移動した恵理が、美代の前で立ち止まった。そして左の手の一つで美代の胸ぐらをつかむ。そんな恵理は、美代が見上げるほどに顔の位置が高くなっていた。

 腐臭が際立った。恵理の体臭に違いない。生ゴミのにおいとは微妙に異なるそれは、薬品のにおいを混ぜ合わせたかのような、さらにひどい悪臭だった。

「美代ちゃんは捧げものだから必要だけど」恵理は静枝を睨んだ。「あんたは邪魔ね」

 恵理の尾が本体の右側から静枝に向かって突き出された。巨大なはさみが静枝の顔面を狙う。

 だが静枝は、素早く両腕で床を走り、恵理の背後へと回り込んだ。

「おとなしくしろ!」

 恵理は恫喝し、激しく身をよじった。

「あなたはまだ昇華していない!」

 そう言い放った静枝が、恵理の背中に取りついた。そして左腕を恵理の首に回し、右手ではさみの付け根を握る。

 昇華していようといまいと今の恵理が化け物であることに違いはない。それは憂慮すべき事実だが、美代の胸ぐらをつかむ力が緩んだのは僥倖だった。

 解放されて壁に寄りかかった美代が見たのは、恵理の動きを封じている静枝が目だけを美代に向けたまま顎を部屋の出入り口に向ける、という仕草だった。「行け」と訴えているらしい。

 頷き、美代は部屋を出た。

 階段は今の部屋よりも暗く、足元がおぼつかない。それでも手すりに身を預け、勘で段差を探った。

 つまずくことなく一階にたどり着いた美代は、玄関の引き戸のガラスから入るわずかな明かりを頼りに、玄関ホールを走り、雨戸が閉じてある廊下へと至った。欄間窓からの明かりはあまりに弱く、視界のほとんどが漆黒の闇だ。

 その直線の始まりで躊躇していると、二階で「ぎゃあああ!」と悲鳴が上がった。恵理の声ではないのは確かだ。

 ――静枝さん。

 悲鳴の主は静枝で間違いないだろう。ならば、恵理はすぐに美代を追ってくるはずだ。

 意を決した美代は、左手でサッシ窓を探りつつ、早足で漆黒の闇を進んだ。

 二階で床が踏み鳴らされた。

 美代はわずかに歩調を上げながら、玄関から出ればよかったのではないか、と自省するが、あとの祭りである。靴を履かないで外を走ることに抵抗があったのも、事実だ。

 しばらく進むと、サッシ窓が途切れ、正面の壁に左手が当たった。

 すぐに右に曲がり、右の壁を右手で探りつつ進む。

 右の壁はすぐに左へと折れ、壁の屈曲に合わせて美代もそちらへと向きを変えた。

 開いたままのドア――台所の出入り口は手探りで見つけた。

 台所の中も手探りで進んだ。

 勝手口へと至り、夢中で靴を履いた。

 ドアを開けた瞬間、家の中のどこかで、質量のあるものが壁に激突するかのような、そんな音がした。

 美代は勝手口から飛び出した。

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