第五章 ③
「確かに、市にはこっそりと訴え続けていたわよ」恵理は言った。「田所さんの奥さんに知られないようにね。だってあの人、自分では動かないくせに、あたしが市に訴えた、と知ったらぎゃあぎゃあと騒ぐに決まっているもん。試しに、自治会から訴えてください、ってあの人に直接言ってみたら、激怒されたわ」
希望台でうわさとなった一悶着のことに違いない。
茫然自失に陥りつつも、美代は恵理の言葉に耳を傾ける。
「そうしたら……行政代執行の一週間くらい前に、あの男が石の入ったごみ袋を増やしちゃったの。神様がこっち側に出ようとしていたから、焦っちゃたのかな?」
「石を増やすよう、わたしからお願いした」静枝が言った。「石は神には効かない。でも、神がこちらに出ようとすれば、そのつど、あなたの力は増していく。わたしが恐れたのは、それよ」
「これだもんね」恵理はあきれ顔を呈した。「神様がこっち側に出ようとするだけでも、そのたびににおいがきつくなる。それなのに、石を追加するだけではなくカムフラージュ用のごみまで追加してしまったから、悪臭は倍増するわけよ。まあそれは、愚民にとっての話だけどね。だって、少しでも神様に近づいたあたしにとっては、生ゴミのにおいは悪臭のままだけど、神様のにおいはかぐわしい香りなのよ。静枝おばさんも神様のにおいをいい香りと感じるんでしょう?」
しかし静枝は、その問いに口を開かない。
美代は二人の会話が飲み込めなかった。震えを抑えて尋ねてみる。
「石を追加するというのは、どういうことなんですか?」
その問いを受けて、恵理が美代を見た。
「すでに積み重なっているごみ袋の山を囲むように、石の入ったごみ袋をもう一回り並べ置いたのよ。つまり二重の結界」そして恵理は、静枝に顔を向けた。「おかげで、あたしは体調を崩したけど、静枝おばさんだってただじゃ済まなかったはず。神様のにおいをかぐわしいと感じるくらいだからね」
「頭痛や目まいはするし、体中の力が抜けて大変だったけど、耐えたわ。あなたという存在に脅威を感じるからこそ、自分が苦しくなるとわかっていても、忠志さんに頼んで結界を二重にしてもらうしかなかったのよ」
闇の中の青白い顔が、そう答えた。
「あれには腹が立ったわねえ。でも、あと少しの辛抱だと思って、そう、あたしも静枝おばさんと同じく、耐えたわ。でもとりあえず、周りの目もあるし、無駄なのを承知で志穂とともに病院へ行ったの。面倒だけど、そのときが来るまでは、愚民の営みに合わせておかないとね」
そして恵理は、噴き出した。
「静枝おばさんはそれ以前も……結界ができてからずっと、外に出られなかった。よく耐えられたわね。まあ、外に出たとしても、その体では人目につくし、やっぱり闇に隠れるしかないか」
痛烈な言いようだが、静枝は表情を変えなかった。どのような姿なのか、美代は見たいとも思わない。
ふと、美代の中でいくつもの糸が繫がった。
「あの気配は……」美代は恵理を睨んだ。「あの気配の源は恵理さんだったんですね?」
「気配?」
笑みの中に訝しむ表情が垣間見えた。
「わたしはときどき、誰かに見られているような気がしました。常にこの家の方向から感じられたんですが、この家ではなく、恵理さんの家だった……静枝さんもわたしを見ていたらしいですが、恵理さんもわたしを見ていた」
美代の自宅と佐々木アパートから見れば、陣内宅も相田宅もほぼ同じ方向である。美代も朱實も、気配が陣内宅から放たれている、と勘違いしていたのだ。
「そして」美代は続けた。「静枝さんは窓から見ていたそうですが、恵理さんは心の目で見ていた」
「心の目!」
またしても恵理は噴き出した。
美代は羞恥に耐え、唇を嚙み締めた。
「まあ、そんなところかもね。美代ちゃんと、美代ちゃんのお友達の大園朱實さん……心の目とやらで、この二人の行動を見せてもらったわ。そういうのが、気配となっていたのかな? 大園さんには美代ちゃんをここに誘い込むために働いてもう必要があったから、彼女の頭の中は、特にいろいろと探らせてもらったけど」
やはり恵理は朱實を操っていたのだ。ゆえに、朱實の名前も知っている。
「なら、さっきも恵理さんはわたしの行動を探っていたんですね?」
「気配を感じていたわけかあ」そして、恵理は頷いた。「ええ、そうよ。美代ちゃんが大園さんを送ったあとに、愚かにもまたこの家に入った……それを確認したうえで、やってきたの」
「わたしを神のごちそうにするため?」
「そう言ったはずよ」
この嘲笑に美代は怒りを越えて吐き気さえ覚えた。
「でも」恵理は嘲笑を浮かべたままだ。「大園さんにやらせようとしたときは、残念なことに静枝おばさんに邪魔されてしまった。まあ、神のごちそうは神を迎える前に捧げればいいから、慌てなくても、まだ大丈夫」
「恵理、あなたは自分の父親に感化されてしまった。本当に愚かな女」
静枝が言った。
「黙れできそこないが!」
部屋の奥に顔を向けて、恵理は痛罵を浴びせた。
「あなたは」静枝は表情を変えなかった。「神の子は完全な存在、と思っている」
「当たり前でしょう。それなのに、あんたはおじいさんを殺して以来、いくらでもチャンスがあったのに、昇華を拒んできた。愚かなのはあんたのほうよ」
「神の到来の時機ではなく、きょうのような日を選んでやってくるあなたのほうが愚かだわ。そう思うけど」
「だって、結界がなくなったんだもの、早いほうがいいじゃない。神様は、あたしが神の子になってから呼べば、それでいいんだし」
「そう考えていると思ったわ。やっぱり、愚かだわね」
静枝が薄ら笑いを浮かべた。その様相は、美代の背筋を凍らせるほどだった。
対する恵理は、なんとか余裕をかまそうとしているらしく、引きつった笑みを見せた。
「神様が来ようとするたびに神送りの祈りをしたようだけど、そんなんで抜かりがなかった、とでも? どっちが愚かなのか、すぐにわかるよ。静枝おばさん、ご苦労様でした」
神の到来のたびになされる祈りならば、朱實や那都希が聞いたあえぎ声がそうなのだろう。唱えていたのは静枝、ということになる。
「でも」恵理は続けた。「もうそんなことはしなくてもよくなるわ。あんたに変わって、神の子の座をもらうんだからね」
恵理は言葉を切り、美代を見た。
「この世界、変わっちゃうよ。あたしが神の子になって……神様がやってきて、神の子が増えれば、警察も自衛隊も……世界中が束になったって、なんてことないんだから」
恵理は再び静枝に視線を戻した。
闇が弾け飛んだ。
恵理の足元に何かが転がった。厚みのある影――そうとしか見えないそれの先端には、乱れた黒髪と青白い顔があった。
「静枝おばさん、その真っ黒なお洋服、脱ぎ脱ぎしましょうね」
そんな下卑た言葉が、美代の耳朶に響いた。
恵理の足元の闇が霧散した。
美代の目に映ったのは、うつ伏せの全裸の女だった。しかしその下半身には両足がなく、腰から下は芋虫のような形状だ。節のあるその下半身は上半身と同じく肌色だが、大人の足ほどの長さがあり、緩やかにのたくっている。それだけではない。左右の腕も異様に長いのだ。どちらの腕も二メートル前後はあるだろう。それが中森静枝の姿だった。
静枝が両手を床について顔を上げた。上半身を起こそうとしているようだが、なかなか上がらない。
「確かに美しいけど、今ひとつねえ」
異形を見下ろす恵理は、明らかに嘲りを浮かべていた。
それよりも、何が美しいのか、美代には理解できなかった。恵理の「美しい」という言葉は、彼女にとっては真実なのだろう。それが美代の精神をさらに疲弊させた。
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