第五章 ⑤

 陣内宅の東側から玄関の前に回った美代は、希望台の我が家へと向かうべく、往来のまったくない市道を渡ろうとして、逡巡した。このまま逃げ帰れば瑛人と幸太を巻き添えにしてしまう。

 陣内宅の裏のほうで大きな音がした。

 悩んでいる時間はない。

 美代は市道を渡らずに歩道を東へと走った。

 腐臭が遠ざかる。

 バス停を過ぎても、美代は速度を下げなかった。

 都道のほうからは、車の往来する音が聞こえた。人目がある、ということだ。そこまで誘い込めたなら、どうにかなりそうだった。そう信じて、ひたすらに走った。

 腐臭が感じられなくなった頃に、市道と都道との交差点が見えてきた。街灯の数が多く、コンビニエンスストアの照明も加わって、こちらと比べて別世界のように明るい。

 交差点まであと三十メートルほどだった。

 ほんのつかの間、あの気配を感じるが、それはすぐに消えてしまう。

 巨大な何かが美代の目の前に落ちた。

 つんのめりつつ、美代は立ち止まった。

 その姿はまるで昆虫のようでもあった。

「人目につくほうへ逃げるなんて、美代ちゃんもやるわね」

 その異形――恵理が言った。

 次の一手が頭に浮かばず、また目を逸らすわけにもいかず、美代はただその化け物を見つめるだけだった。

「静枝おばさんの言ったとおりよ」恵理が笑顔を浮かべた。「まだ昇華は終わっていないの。でもこれで、完全」

 恵理の顔がゆがんだ。顔の皮膚がうごめいている。

 彼女の背後から高く掲げられている巨大なはさみが、本人の毛髪の大部分を器用につまんで、ゆっくりと引き上げた。

 何かがちぎれるかのような、そんな音がした。

 ゆがんだ恵理の顔――否、首から上の皮膚がずり上がった。両目、鼻、口、といった部位がただの穴に成り果てた皮と、毛髪を有する頭部、それら全体が、まるで帽子のように固定されたところで、巨大なはさみは毛髪を解放した。生皮製の帽子の下に位置するのは、筋肉と眼球――まるで人体模型のような顔だった。そんな顔が、美代の目の前に突き出された。

「どう? きれい?」

 腐臭が美代の鼻腔を満たした。

「い……い……い……嫌ああああああ!」

 この声が誰かに届け、とばかりに美代は叫んだ。

 とたんに、前方の景色が暗くなった。

 都道の向こうに見える街並み、その手前のコンビニエンスストア、周囲の家々、車道などが、黒っぽい何かに覆われていた。美代が立っている歩道も――美代の足元までが、同じ何かに覆われている。見える風景のすべてが、黒一色だった。自分の体がそれに覆われていないことが、せめてもの救いだ。

 都道では車の往来が途絶えていた。最初から誰もいなかったのか、人の姿は見えず、コンビニエンスストアの前もひっそりとしている。

 頭上に大きな月があった。しかしそれは、美代の知る月ではない。今は満月ではないはずだが、ほぼ真円であり、しかも表面には無数の稲妻のような筋が見えた。弱く輝くその月が、どす黒い街並みをうっすらと照らしていた。

「神の子にふさわしい街並みになったわ。……それにしても、嫌、とか叫ぶなんてあんまりじゃない?」

 笑顔なのか仏頂面なのか今の恵理では表情の判別が困難だが、唇のない口にしては発音に支障はなかった。その話しぶりは、いつもの恵理と変わらない。

 もう一度、美代は自分の足元を見下ろした。

 歩道のコンクリートは、表面の色が黒くなっているが、別の何かに覆われているわけではなかった。そのものが変色しているのである。

 美代は恵理に顔を向けた。異様な月と黒い街並み――この変化をどう認識すればよいのかわからないが、恵理が醜悪な姿だということだけは、理解できた。

「そんな姿になって、智宏さんや志穂ちゃんが悲しみますよ」

 言ったところでどうしようもないが、それを口にせずにはいられなかった。

「この美しさがわからないとはお気の毒。……それに、あの二人が悲しむ、って?」

 明らかに、さげすむ口調だ。

「志穂本人はまだ知らないけど、あの子だって神の血を受け継いでいるのよ。それを知れば、あの子も神の子という存在におのずと興味が湧くはず。憧れるに違いない」

 その言葉を受けて美代は今になって気づいた。志穂は中森一郎のひ孫なのだ。

 しかし――。

「一郎さんの娘である静枝さんは、神の子になりたくなかったんですよ。志穂ちゃんだって、きっと……。だから、志穂ちゃんにそんな考えを押しつけてはいけない。それに、智宏さんだって、邪道な考えは嫌いなはず」

「何もわからないくせに」恵理は言った。「うちの人……智宏は、死人も同然なの」

「死人?」

「あの人はあたしの言いなりなのよ。ときどき勝手なことをやったり勝手なことを言ったりするから、困りものだけど。……とにかく、市に訴え続けたのも、その名義人も、あたしの言いなりになったあの人。仕事に行くのも、食事を取るのも、トイレに行くのも、志穂と遊ぶのも、全部、あたしの指図なの。ほら、朱實さんがそうされていたように」

「自分の夫を……そんなふうに?」

「用済みになったら、捧げものにすればいいだけよ」

 まさしくカマキリだ。昇華する以前から、恵理には神の子としての気質が備わっていたに違いない。

「あの人は操られていることに気づいていないんだろうけど、この頃は自我を取り戻すことが多くなったみたいね。勝手な振る舞いが多くなったから、おとなしくさせたの」

 恵理と志穂の具合が回復した一方で智宏の体調が悪くなったのを、美代は思い出した。

「いったいなんなんですか、あなたは……」

「あたしはこの世界を変える存在よ。神の子よ。なったばかりだけど」

 そして恵理は失笑した。目、鼻、口、それぞれの穴しか残っていない生皮も笑っているかのようだが、これを頭部に残しておくのは、神の子としてのしきたりなのか恵理の趣味なのか、美代のあずかり知らないことだ。

 いずれにせよ、そんな姿を忌避し、美代は後ずさろうとした。しかし、手足が動かないではないか――。

「また……」

「だって、逃がすわけにはいかないもの」

 そう告げて、恵理は左の腕の一本を美代に伸ばした。

「嫌っ!」

 もがくことさえかなわず、美代はその長い腕に抱えられた。

 恵理の体臭が倍増した。

「あの家に戻って、神様を呼ばなくちゃ」

「やめ……」

 うつ伏せの状態で抱えられている美代は、揺さぶられて言葉を吞んだ。

 恵理は走っていた。美代を抱える腕以外の五本を巧みに動かし、闇の歩道を疾走する。

 進行方向に頭を向けている美代は、前方の状況を把握しようと、その体勢のまま首と目を動かした。

 陣内宅に近づいているのがわかった。街灯の明かりがなく、どこもかしこもすべてが黒く塗りつぶされているが、あの月のおかげで視界は確保できた。

 左に視線を移せば、希望台の家々も黒一色だった。それぞれの家の中はどうなっているのか――瑛人と幸太は無事なのか――美代の理性は限界に近かった。

「あははは……はははははは!」

 唇のない口で、恵理は高らかに笑った。

「みんなは……うちの家族は、どうしているんです?」

 抱えられたまま、美代は尋ねた。

「みんな眠っているわ。そして、あたしのしもべになるの。うちの人みたいにね」

 ならば死んだわけではない。そう解釈したかったが、胸は押し潰されそうだった。

 陣内宅が見えてきた。先ほどは単なる暗いたたずまいだったが、今は漆黒の造形物と化している。

 周囲の雑草もすべてが黒かった。そんな草地――陣内宅に近い位置に、いくつかの小さな青い光があった。地面に何かがあるらしい。

 その上を通過しようとした――刹那。

「があああ!」

 叫びを上げた恵理が、移動を止めてのけ反った。

 黒い雑草の上に放り出された美代は、その手で、どの草も通常どおりに柔らかい、と感じ取った。

 玄関が勢いよく開いた。中から飛び出したのは、腹ばいで走る静枝だ。

 恵理が下半身を地面に着けてもがいていた。腕に力が入らないようだ。

 その恵理に静枝が飛びかかった。よく見れば、静枝は額から血を流している。

 二体の異形が、組み合ったまま草地を転がった。

「ああああああっ!」

 またしても叫びを上げた恵理は、両目を潰されていた。

 静枝の右手の人差し指と中指が真っ赤に染まっている。

「痛いいい! 痛いよおおお!」

 恵理は転がり続けた。

 そんな恵理から離れた静枝が、血染めの顔を美代に向けた。

「今よ」

 意味がわからず、美代は「は?」と声を漏らした。

「どれでもいいから……一つでいいから、そこに落ちている石を使うの。強制撤去のときにごみ袋からこぼれた石よ」

 ごみ袋が劣化していたのだろう。玄関先のコンクリートに染みがついていたほどだ。

「は、はい」

 わけがわからないまま、青い光を放つそれらに、美代は近づいた。

「急いで。恵理の目はすぐに回復する。彼女は見える範囲の者に術をかけるの。そうなれば、また動きを封じられてしまう」

 美代は静枝の話を聞きながら、そこに落ちているいくつもの半透明の小さな球体――青く輝く石球のうちの一つを拾い、右手に持った。もっともそれは、輝いてはいるが、美代にはビー玉にしか思えない。いくつもの石球のそばに散らばっているのは、石球と一緒にこぼれた、と思われる紙くずだった。

「これをどうすれば?」

 尋ねつつ目を向ければ、静枝は美代の右手から漏れる青い光から顔を背けていた。静枝もこの石が苦手だ、という証しだ。

「恵理の頭に押しつけて」

「え……」

 息が止まりかけた。しかし、拒めばすべてが終わってしまうだろう。

 瑛人と幸太、二人の顔が浮かんだ。

 家族の幸せを守れるのは自分しかいない――それは美代の意地でもあった。

 美代は恵理に向かって走った。

 転がり続けていた恵理は、今は草地で仰向けになってもがいている。

 例の芋虫状の尾が、腹側に屈折して、立ち上がっていた。揺れる巨大なはさみが、美代を躊躇させた。

「早く!」と声を飛ばした静枝が、芋虫状の下半身で体を立て、両手ではさみの付け根をつかんだ。

「今のうちに……」

 血染めの静枝が歯を食い縛っていた。石球の効力にも苦しんでいるはずだ。これ以上は時間をかけられない。

 美代は恵理の上半身に馬乗りになった。

 そのとき――。

 恵理の眼球が見開かれた。再生したのだ。

 それと同時に、美代は右手のこぶしを恵理の額に押しつけた。そして手のひらを開き、石球を直に恵理の額の筋肉に当てる。

 考えてみれば、恵理は石球の一群の上を通過しようとした寸前で移動を止めたのであり、それら石球のどれ一つにもふれていなかったはずだ。にもかかわらず、苦しみもだえたのでえある。美代は期待せずにいられなかった。

「美代おおお!」

 声を上げた恵理が、六本の腕で立ち上がった。美代は草地を転がり、尾をつかんだままの静枝は、恵理の背後で宙につり上げられた。

 恵理の額の中央に一つの青い輝きがあった。よく見れば、石球が恵理の額に食い込んでいるのだった。

「おまえら二人とも、殺してやる!」

 苦しげに吠えた恵理は、はさみを何度も開閉させつつ、草地にへたり込む美代のほうに、尾を伸ばそうとした。

 振り回される静枝が、芋虫状の下半身で恵理の後頭部を叩き始めた。何度も執拗に叩くそれに向かって、巨大なはさみが走った――ように窺えたが、苦しさで狙いが外れたのか、そのはさみの至った先は、恵理自身のうなじだった。

 はさみが素早く閉じ、恵理の頭部が草地に落ちた。帽子のようにへばりつくかつての顔とともに。

 続いて、恵理の体がその隣に倒れ込む。

 恵理の体から離れた静枝が、腹ばいの状態で恵理の無様な骸を睨んだ。

「はしゃぎすぎるあまりに石が落ちていたことに気づけないなんて。それ以前に、神の到来を待ってその力を借りればこんなことにはならなかった……だから、愚かなのよ。でも、これでよかったんだわ」

 そして静枝は周囲を見渡し、美代に顔を向けた。

「急いで自分の家に戻りなさい。間もなくすべてが元どおりになる。その前に自宅の玄関にたどり着いていないと、あなたは誰かに見られてしまうかもしれない。今なら、すべてが止まっている。あなたがかかわったなんて、誰にも知られないで済む」

 何か言葉を返したかったが、気の利いた台詞が見つからない。

 美代は黙して頷き、立ち上がった。

 そして、走った。

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