第五章 ②

「忠志さんは下見に来たときから、地下室を異様な場所としてとらえていた。もちろん、事故物件であるのを承知のうえだった。一郎が殺害された事件は不動産屋から教えてもらえなかったようだけど、ワインセラーで母が娘を殺害した事件は、知らされていた。それなのに、妻の知美さんと長男の順一さんはそれを気にするどころか、物置に使えそう、と地下室を気に入ってしまい、わたしはそれを危惧した。一方で、わたしは忠志さんに期待した。もう誰も犠牲になってほしくない、と思ったから、彼に頼るしかなかった」

 今になって美代は、静枝が陣内忠志を下の名で呼んでいることに違和感を覚えた。少なくとも当時の陣内家は三人だったのだから、三人を区別するためにそう呼んでいることは考えられる。だが、それとは違う何かを、美代は感じてしまうのだった。

「あるとき、わたしは姿を見せないまま、闇の中から忠志さんに声をかけた。忠志さんは最初は驚いていた……というより、怖がっていたけど、わたしが自分の素性やこの家の事情を詳しく……何度も何度も聞かせると、少しずつ理解してくれた。そしてわたしが姿を見せたときも、忠志さんは見たままを受け入れてくれた。それから何日かして、忠志さんは地下室を埋め戻すことにした。忠志さんは、知美さんと順一さんにはその理由を打ち明けなかった。話せるわけないもの。わたしが同居していることも、話さなかった。もちろんそれらの黙秘は、わたしの願いでもあった」

 そして静枝は、地下室が埋め戻されてすぐに知美と順一がこの家を出たことを告げた。

 ここまででも多くの謎が明かされたわけだが、まだ、わからないことがある。

「どうして陣内さんは、ごみをためるようになったんですか?」

「それは――」

 言いさして、静枝は顔をこわばらせた。美代に初めて見せる表情の変化だ。

「時間切れね。話はこれまでよ」

「どういうことですか?」

 続きが聞けないことより、なんらかの差し迫った事態があるのを悟り、美代は動揺したのだった。

「彼女が来たわ」

「彼女……って、誰なんですか?」

「あたしよ」

 背後で声がした。

 美代はおそるおそる振り向きつつ、聞き覚えのある声である、と感じた。少なくとも、田所文江の声ではない。

 部屋の出入り口――すぐ目の前に、女が立っていた。

 美代は思わず目を見開く。

「恵理……さん……」

 普段着姿の相田恵理だった。闇の中だが、彼女の姿は把握できた。

「美代ちゃんって、本当におめでたい人」

 恵理は言うと、つかつかと部屋に踏み込み、美代を突き倒した。

 床に倒れたものの受け身を取ることはできた。しかし、意表を突かれた美代は、立つことも忘れて呆然と恵理を見上げる。

 そんな美代の前を通り過ぎて、恵理は静枝に近づいた。

「あたしが相田恵理よ。初めまして」

 恵理が歩きながらそう言った直後に、静枝が闇とともに素早く部屋の奥に後退した――というより、見えない何かに突き飛ばされた感じだった。

「あらまあ」恵理が歩を止めた。「あたしを迎え撃つんじゃないの?」

「力をつけたのね」

 闇に包まれた青白い顔の静枝が、恵理を睨んだ。

 一方の恵理はその場に立ったまま、静枝に向かって口を開く。

「確かに地下室があったほうがよかったけど、この家にはまだ儀式の影響が残っているわ。これで十分。それに、しばらく前から、自宅にいても少しずつ力を宿らせることができた。神様がこっち側に出ようとして、においをまき散らすでしょう。あのタイミングで少しずつため込んだの。石の影響か昇華に近づいたおかげかわからないけど、ときどき気分が悪くなったりもした。それでもね、この家の近くに住むことができて、超ラッキーだったわ。希望台に引っ越してから、あたしは力をつけることができたんだから。……どっちにしても、あたしはこの家に入れば一気に力が高まる。だから、あたしのような者……神の血を受け継ぐ者がこの家に入れないように、あの男に結界を作らせたわけね?」

 わけがわからず、美代は恵理に説明してもらおうと思った。

「あの……恵理さん、どういうことなんですか?」

 声をかけると、恵理は美代に顔を向けた。

「美代ちゃん、あなたは何も知る必要はないの。もうすぐここで死ぬんだもの」

「死ぬ?」

 息が詰まりそうになった。恵理がそんな言葉を向けてくるなど、美代には信じられなかった。

「神様のためにごちそうを用意しておくの。あなたは……あなたの血は、そのごちそう。神様はね、女好きなの。しかも美人でなければいけない」

 操られていた朱實も、似たようなことを言っていた。

「あたしも結構大変なのよ」恵理は続けた。「ごちそうも用意しなければいけないし、神様がまぐわう相手も、別に用意しなければならない。わかるかな……こうやって儀式を執りおこなうたびに、ある女は血を抜かれ、そしてある女は犯されて、神の血を受け継ぐ者が生まれる。神の子も増えていく、というわけよ。もしかして美代ちゃんは、食べられるほうよりも犯されるほうが好き? でも残念ながら、今はごちそうを用意することが先決なのよね」

 まだ話は飲み込めていないが、恵理が自分の味方でないことは、さすがに美代でも理解できた。

 ならば静枝は自分の味方なのだろうか――単純な考えだが、ここに来た気概を思い出した美代は、どうしても今の自分を鼓舞しなければならず、無理にでもそう思うことにした。

「恵理さん」美代は立ち上がった。「結界って、なんですか? 答えてください」

 時間稼ぎというよりも、問い詰める自分を見せて、静枝に好印象を与える狙いがあった。

「この家を取り囲んでいたごみ袋よ」

 恵理は嘲笑を浮かべた。

「ごみ袋が、結界?」

 やはり、話が飲み込めない。

「結界の元になる特別な石が、ごみ袋に入れてあったの」

 部屋の奥の闇で静枝が答えた。

「そういうこと」恵理は静枝に顔を向けた。「神の血を受け継ぐ者にとっては、一つだけでもすごく嫌な感じのする石の玉ね。万が一のために……って、内部分裂を図ったばかな教団員の一人がどこからか集めてたくさんの数を隠し持っていたのを、あんたは知っていて、あの男に取りに行かせた。というか、買わせた」

「よく調べたわね」と単調な声が闇の中でこぼれた。

「まあね」そして恵理は、美代を見た。「それらで家を囲むのなら、土に埋めて並べるのが一番なんだけど、この家は……というか、どこの家もそうだろうけど、玄関の外や廊下の外とか、一部にコンクリートが敷いてある。ほかの箇所は土に埋められるけど、そこだけはどうしてもコンクリートの上に置くことになるわ。ぐるっと家の周りを石で囲んだとしても、部分的に極端な段差ができてしまう。つまり、結界の効力が発揮できないわけ。ならばすべての石を地面に置いて並べればいいわけだけど、それだと誰かに取られないとも限らない。だからあの男は、石をごみ袋に入れ、それをいくつも用意して、この家の周りに隙間なく並べた。でもそれだけじゃ不自然だから、それこそただのごみしか入っていないごみ袋を、石の入ったごみ袋の上に重ねた。これでごみ屋敷の完成ね。臭いし、汚いし、気持ち悪いし、だれも近づきはしないわよ。もちろん結界の効力があるから、このあたしだって近づけなかった」

 何も知る必要はない――と言っておきながら、恵理はことのほか饒舌だった。むしろこれがいつもの恵理なのだ。彼女がここにいるという状況は奇異だが、本人であることは間違いない。

 恵理が静枝に視線を移した。

「そうよね、静枝おばさん」

 おばさん――それは年上の女に対する揶揄ではない、と美代は察した。

「もしかして、恵理さんのお父さんは、中森章太さんですか?」

「あらま、わかったのね。いろいろと調べたんだもんね。頑張ったね」

 恵理は美代に顔を向けて肩をすくめた。

「兄さん……中森章太は、もうこの世にいないわね?」

 闇の中で静枝が尋ねた。

「さすがは静枝おばさん、わかっていたんだ。できそこないでも少しは力がある、という証しだね。……あたしのお父さんは、あたしを神の子にしたくて夢中になりすぎたの。それで、頭がおかしくなって自殺しちゃった。お父さんが自殺しちゃったから、お母さんもおかしくなっちゃって、あの人は今じゃ病院の中よ。まあね、お母さんは教団とは無関係で普通の人だったから、しょうがないけどさ」

 淡々と話した恵理が、ふと肩をすくめ、得意げな笑みを浮かべた。

「でも、お父さんがいろいろと教えてくれたおかげで、あたしの道はあたしが小学生のうちに開かれた。お父さんはおじいちゃんと同じく術を心得ていたのよ。なんでも知っていたし、遠くのこともすべてお見通しだった。静枝おばさんがおじいさんを殺したことも、静枝おばさんが生け贄を闇になげこんだことも、静枝おばさんが神の子になり損ねたことも……お父さんは全部、知っていた」

 まともではない――と美代は思った。恵理の両親だけではなく、恵理自身もおかしくなっているのだろう。美代もどうにかなりそうだった。

 とはいえ、恵理のその言葉が事実なら、腑に落ちない点が解消できるかもしれない。

 叫びたいのをこらえて、美代は恵理を睨んだ。

「市にごみ屋敷の苦情を訴え続けていたのって、恵理さんなんでしょう?」

「すごーい。それもわかっちゃったんだあ」

 恵理はわざとらしく目を見開いた。

「初めて訴えるような、そんなふりをしてわたしをだましていたわけですね。とにかく早くごみを……結界の石を撤去してほしくて、こっそりと市に訴え続けていた」

「へー、美代ちゃんってただのばかかと思っていたんだけど、そうでもないみたい」

 そう返して、恵理はウインクをした。

 これまで恵理に見下され続けていた、という事実を美代はようやく受け入れた。

「ふざけないでください!」

 美代は声を荒らげるが、それは恵理を喜ばせるだけの行為だった。

「まあ美代ちゃんったら、かわいい」

 恵理の笑みが美代をさらに憤らせた。

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