第五章 ①

 闇に浮かぶ青白い顔が、遠くを見つめた。

「今から八十四年前に、ある教団が忌まわしい儀式を執りおこなった。そして、彼方から到来した魔物が、一人の女性を身ごもらせた。その女性が、わたしの祖母の中森まさこ」

 雅子と書く――と静枝は注釈を加えた。ある教団とは、今で言う「カルト教団」の類いだろう。

「到来……つまり、その魔物というのが、さっき言っていた、あれ、なんですか?」

 美代は尋ねた。

「そうよ。わたしはその魔物を見たことがないけど、とても大きくて、名状しがたい姿をしているらしいわ」

 常識的に考えれば、一笑に付すだけの内容だ。そもそもその魔物はどこから来るというのか。アメリカか中国か――もしくは月や火星などほかの天体からなのだろうか。しかし、常軌を逸したことが連続しているのだ。美代は頷いて、静枝の言葉を受け入れた。

「そして身ごもった雅子は、双子を産んだ。どちらも男の子だったけど、一方は生まれたそばから死んでしまった。死んだその子は、獣のような姿をしていたらしいわ。そして、生き残った子が、わたしの父、中森一郎だった」

「一郎さんは、人の姿をしていたんですか?」

 訊いた時点で、双子の片割れが獣の姿をしていた、という話を容認していた。

「そう。だからこそ、人間社会で生きてこられた」

 もっともな答えだ。美代はまたしても黙して頷く。

「出産後の雅子がどうなったのか、それはわからない。でも一郎は、神の血を受け継ぐ者として教団に育てられることになった」

「神の血を受け継ぐ者……父親がその魔物……神だから?」

「そう。でも教団が本当に欲していたのは、神の子」

「神の血を受け継いでいるのに、神の子ではない?」

「神の血を受け継いで生まれただけでは神の子ではない。神の子として昇華しなければならない」

「昇華……」

「人ではなくなる、ということ。神に近づくのよ」

「つまり、魔物になる?」

「そういうこと」

 ここまで聞いて、美代はすでに胸のむかつきを覚えていた。この異臭のせいもあるだろう。嘔吐しないように、ぐっとこらえた。

「でも、一郎は神の子にはなれない定めだった。一郎は物心がついたときから、それを承知していた」

 複雑な事情がありそうだ。気分は悪いが、聞くしかない。

「一郎が十九歳のときに教団は解散した」静枝は言った。「その後の一郎が、教団の解散はおそらく内輪もめが原因だ、と言っていたわ。とにかく教団が解散したあとも、一郎は元教団員に養われた。いくつもの元教団員の家を転々としたけど、どの家でも、神の血を受け継ぐ者としてあがめられ、とりあえず、高校にかよわせてもらい、卒業することができた」

 神と称される魔物など願い下げだが、それをあがめる信者たちも同じだ。むしろ、魔物という漠然とした存在よりも、現実的な「人間」のほうに、美代は脅威を抱いてしまう。

「一郎はその頃にはすでに」静枝は続けた。「神と、自分の身分、神の子……それらについて熟知していた。本当は自分が神の子として君臨したかったようだけど、それは諦めるしかなかった。なぜならば、神が自分の子として認めるのは、女だけだから。男が神の子となったのでは、男である神と、男の神の子とが、人間の女を奪い合ってしまうからよ。神や神の子は、人間と交わることを好む。神の血を受け継ぐ者は神の子として昇華することが可能だけど、そういった理由があって、神は、たとえ自分の血を受け継いだ者でも男が神の子になるのを許さない。だから神は、一郎の双子の兄弟……生まれたときから神の姿をしていたその子を殺してしまった。そして一郎は……もちろん女に限るけど、自分の子、もしくは自分の孫を神の子にし、自分はその神の子に血を与えた者として教団を再建しよう、などと画策していた」

 静枝の言う神は驕れる存在なのだろう。ならば、女である神の子は、朱實が感じた「自分はどんな男よりも優れている」という高慢な精神を有していてもおかしくはない。

「一郎は二十二歳のときに結婚した。妻の名はよう。葉子の両親は元教団員で、葉子も教団の教えを受けていた」

 葉子――これも酒出哲夫の手紙にあった名前だ。

「一郎と葉子との結婚から二年目にわたしの兄であるしょうたが生まれ、それから八年が経ってわたしが生まれた。そしてわたしが一歳のときに、この家が建てられた。建てられた当時のこの家には、地下室があったわ。広い前庭もあったし、左右と後ろの草地もうちの庭だったから、家は敷地の真ん中辺りにあった。しかも当時は塀に囲まれていた。家を外界から遠ざけたのは、よその人に地下室での儀式を悟られないようにするためだったのよ。でも一郎の理解者だった母の葉子は、この家の完成直後に脳梗塞で死んだ」

 静枝は言葉を切ると、室内の闇にゆっくりと目を走らせ、美代に視線を定めた。その所作がなぜか人のものには思えなく、美代は肩を震わせた。

「一郎は、章太とわたしを一人で育てた。多くの元教団員から定期的に布施が寄せられ、一郎が無職でも家計は潤っていた。一郎は育児のほかにも、神の血を受け継ぐ者を神の子へと昇華させる術を得ようと鍛錬し、また、二人の子供に教団の教えを伝えるのに懸命だった。そして一郎は、当然のごとく、わたしを神の子にしようと考えていた。でもわたしは、教団の教え……人を生け贄にするとか今の社会を破滅させるとか、そういうのが嫌いだったし、神の子になるのも嫌だった」

「生け贄……破滅……」

 果物ナイフを振り上げた朱實が口にした言葉――あの言葉を、美代は想起した。そして、静枝が教団とは敵対関係にあるのか否か、それを慮る。確かに、朱實に襲われたときに救ってくれたのは静枝だった。

「高卒で社会人となった章太は、二十四歳で結婚してこの家を出た。そして彼は、間もなく妻との間に子をもうけた。……そして、わたしが高校生のとき……十七歳のときに、ついに一郎は、神の血を受け継ぐ者を神の子に昇華させる術、を習得した。この家にあった地下室で、一郎は儀式を決行した。かかわりたくなくて浴室に隠れていたわたしは、おそらくはその儀式の影響によって、気分が悪くなり、トイレに駆け込んで嘔吐した」

 静枝はそこでため息をついた。表情は変わらないが、つらい思い出に違いない。

「神の子には足がないという」静枝は言った。「わたしは嘔吐しながら左足首に痛みを覚えた。それでも、儀式を止めなければ、と思い、左足を引きずりなから地下室へと行った。そして、一郎を殺した。首に食らいついて」

 意見を挟むことなどできず、美代はただ静枝の顔を見続けた。

「そこには一つの大きな麻袋が置いてあった。中には全裸の若い女性が両膝を抱え込むようにして入っていた。彼女はすでに事切れていた。生け贄にされた、とわかったわ」

「そんな……」と美代は声を吞んだ。

「儀式を中断させたおかげで、生け贄の効力はなくなった。それなのに……儀式を中断させたのに、間に合わなかった。わたしの体は、人のものではなくなっていた。とはいえ、完全でもない……つまり、できそこない。神の子でもないただのできそこないなのに、こうして、飲まず食わずでずっと生きている。そして、できそこないなりの力を使って、生け贄の死体と麻袋だけはどうにか無限の闇に投げ捨てた。一郎の死体については処分が間に合わず、警察によって発見されてしまった」

 静枝はまたしてもため息をついた。無限の闇に投げ捨てるなど、理解しがたい箇所もあるが、それでも美代は耳を傾け続けた。

「儀式が完遂したなら神がやってくるのだけど、儀式が中断されたために、神は……ときおりこちら側に出ようとしているだけで……まだ現れてはいない。でも……先の生け贄の効力はなくなったものの、この家で……儀式の効力が残っているこの家で残りの工程を済ませれば、儀式は完了したことになる。生け贄は新しいのを用意すればいいのよ。残りの工程は二通りのいずれか……昇華の前に神に来てもらうか、昇華のあとに神に来てもらうか」

 ならば、今の時点ではまだ最悪の事態には陥っていない、ということだ。もっとも、それがいつまで続くのかは、美代には知る由もない。

「いずれにしても、残りの部分は、神の子になる予定の者が遂行しなければならない。つまり、その残りの部分を完了させたのがわたしなら……神の子になれるのは一度に一人だけだから、わたしが完全な神の子として昇華してしまうのよ。そして神の子になれば、今は神を嫌悪するこんなわたしでも、神をあがめるようになり、神を呼び寄せてしまう。そういった事態にならないよう、そしてわたし以外の候補者が儀式を執りおこなわないよう、わたしは闇をまとってこの家に隠れ潜み、常に見張っていた」

 十七歳のときからならば、三十五年間をそうやって過ごしてきたことになる。すなわち、静枝こそがこの家の支配者なのだ。自分ごときが静枝に同情するなどしてはならない、そんな資格は自分にはない、と美代は感じた。

「そのあとでここに越してきた親子……母と娘は、教団とは無関係だった。もちろんその親子は、わたしが家の中にいることに気づかなかった。でも、親子は地下室にワインセラーを作り、彼女たちのそこにいる時間が増えた。そのせいで母親は儀式の残滓の影響を受け、精神を病んで娘を殺してしまった。この家の地下室がどれほど危険なのか、わたしはやっと気づいたわ。だからわたしは、その親子の死体をそのままにし、警察に発見させて、この家……というより、この地下室が忌まわしい場所である、という印象を知らしめた。そして……今から三十三年前に、忠志さんの一家が越してきた」

 話はようやく陣内家の時代となった。静枝の語りはここまで数分かかったが、この家を通り過ぎた実際の時間は膨大なのだ。

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