第四章 ⑤

 一応なのか当然なのか、朱實は靴を脱いで床に上がった。わけのわからない者が住んでいる家なのだから、何が床に落ちているか、知れたものではない。二人とも靴下を履いているが、美代はスリッパも着用したいところだった。

 朱實の言葉どおり、屋内の暗さは屋外とは比較にならなかった。ガラス戸から差し込むわずかな明かりによって、そこが九帖ほどの台所であることがわかる程度だ。勝手口から向かって左にはガラス引き戸があり、正面の奥には半開きのドアがあった。

 においをこらえながら暗闇に目を凝らしていると、朱實が自分のショルダーバッグから何かを取り出した。スマートフォンだった。

 闇の中に小さな光が生まれた。その光は床に向けられていた。朱實のスマートフォンのライトだ。光量は少なめだが、室内は十分に見通せる。

「この光を窓に向ければ……誰かが見ていればですが、外から認識されてしまいます。そうでなくても、わずかな光は漏れ出てしまうでしょうね。早めに済ませましょう」

 そう言う朱實は床からの反射を受けており、無表情の顔がどうにか窺えた。

 床を照らしつつ、朱實が勝手口とは反対のほうに歩き出した。闇に取り残されまいと、美代はそそくさとそのあとに続く。

 半開きのドアを押し開けて、朱實は台所から足を踏み出した。

 朱實に続いて台所から出た美代は、そこが左右に延びる廊下であることを知った。この廊下にも異臭は漂っている。

 台所から出たばかりの位置で右方向に目を向けると、廊下はすぐにドアに突き当たっていた。その突き当たりの少し手前――向かって左の壁にもドアがある。そちらから反対に目を向ければ、廊下の左方向の先もすぐに突き当たり――かと思いきや、向かって右へと折れていた。

 朱實は左へと歩き出した。

 スマートフォンの明かりが朱實の数歩先を照らす。

 美代は台所のドアを開けたままにし、朱實の背中に続いた。指示されたわけでもないのにドアを開けておいたのは、脱出ルートを確保するためだ。

 廊下を歩き出してすぐに右に折れ、そしてすぐに左へと折れた。その先は、長い直線だった。左には何枚かの襖が並び、右は雨戸が締めきってある掃き出しサッシだ。

 スマートフォンの明かりは朱實との距離を保ったままであり、廊下の奥のほうは見えなかった。

 家の外観と鑑みるに、この直線は東西に延びているはずだ。向かって右の雨戸は、玄関の並びで常に閉じてあるあの雨戸だろう。つまり、二人は東に向かって歩いていることになる。

 台所に接していた部分よりは長い直線だが、その突き当たりが見えてきた。そこが玄関のようだ。玄関ホールは割と広めの空間らしい。

 朱實はその玄関ホールの手前で立ち止まった。

 玄関ホールの手前で廊下が左に分岐していた。朱實はそちらのほうに正面を向けた。

「ここです」

 朱實は闇の奥に顔を向けたまま言った。

 息を潜め、悪臭をこらえつつ、美代は朱實の横に立つ。

 左に分岐した先は、すぐに突き当たりとなっていた。二帖ぶんほどの狭くて細長い空間だ。

 朱實はスマートフォンのライトを突き当たりの壁に当てた。

「ここに地下室の入り口……階段があったんです」

「ここが……」

 震えを抑えて、美代は突き当たりの壁を凝視した。

「これを見せたかったんです」朱實は言った。「その壁はもともとはドアでした。ドアを開けると階段があったんです。地下室を埋め戻したので、ドアも階段も不要になったわけです」

「どうして朱實さんがそんなことを知って――」

 問いただそうとした美代は、不意に背中を突き飛ばされ、その狭い空間でうつ伏せに倒れた。

「何をするの?」

 上半身を起こして目を向ければ、朱實の笑顔が、下からの強い光を受けて照らされていた。まるで怪談を語る怪談師だ。

「血が必要なんです」

 笑顔のまま、朱實は言った。その足元に、彼女のスマートフォンが背面を上にして落ちている。ライトはそこから放たれていた。

 言葉の意味がわからず、美代は眉を寄せた。

 朱實が自分のショルダーバッグに右手を入れた。そして引き出された右手には、一本の果物ナイフがあった。

「朱實さん……」

 自分は窮地に追い詰められている、と悟り、美代は尻餅を突いた状態であとずさった。

 朱實がショルダーバッグを床に放り出した。両手で果物ナイフを逆手に持つ。

「美人のほうがいいんですって」

 笑顔の朱實が美代に迫った。

「朱實さん、やめて」

 美代の背中が壁に当たった。これ以上は下がれない。

「美人の血がいいんですって。わたしじゃだめなんですって」 言いながら、朱實は近づいてきた。「たくさん血が流れた家なのに、新しい血がなくて困っているんですよ。だったらわたしの血でもいいような気がするのに、美人の血がいいんですって」

 果物ナイフの切っ先が、スマートフォンのライト受けて光る。

「美人の血が必要だから、わたしはうそをつきました」

「うそ?」

「友達の付き添いで病院へ行っていたなんて、うそね……って、わたしに訊いたじゃないですか」

「朱實さん……」

 美代は朱實を睨んだ。うそであることはわかりきっていたが、やはり、そうと言明されれば、憤りは避けられない。

「美人の美代さんだから、瑛人さんは惹かれたんでしょうね」

 朱實の笑顔がわずかにゆがんだ。

「えい……と……って、うちの主人?」

「ほかにいないでしょう。美代さんに惹かれた瑛人さん、なんだから」

「それが、どうしたのよ?」

 立ち上がれないまま、美代はすくみ上がった。

「あなたは血を捧げるの。そして死ぬ。世界も滅ぶわ。そうすれば、瑛人さんはわたしのもの」

「どうかしている。普通じゃないわ」

 どうして朱實がこんなことをするのか、どうして彼女がこの家の間取りを知っているのか、どうして勝手口の鍵を開けられたのか、本当に瑛人に横恋慕しているのか――何もかもがうろんだが、そんな諸々を考えている場合ではない。

「瑛人さんは……わたしのもの!」

 果物ナイフが振り下ろされた。

「ひっ」と声を立てた美代は、両手で朱實の左右の手首をつかんだ。

 ナイフの切っ先が美代の目の前で震えた。

 朱實はひるまなかった。対する美代は、早々に力がつき欠ける。

 星野母娘の事件、ナイフ、惨殺、血――そんな言葉が脳裏をよぎった。

 ――もう、だめ。

 諦念を覚えた、そのときだった。

 朱實の体が宙に浮き、後方へと弾かれた。

 果物ナイフがスマートフォンの横に落ちる。

 掃き出しサッシ側の柱に背中を打ちつけて、朱實は動かなくなった。後頭部も打った可能性がある。両目は閉ざされているが、生きているかどうかなど、美代にはわからない。

 何かが動いた。

 左のほう――玄関のほうへと、何かの影が移動したのを、美代は目の端にとらえていた。

「その人を連れて、早くここから出ていきなさい」

 女の声だった。聞き覚えのない声だ。

「あなたは……誰なんです?」

 床にへたり込んだまま、そして相手の姿を見ることができないまま、美代は尋ねた。

「早くしなさい。その人は、目覚めれば正気に戻っているはず」

 女は言った。それが正しければ、朱實は生きている、ということになる。

「でも……」

「早く」

 有無を言わせない言葉を受け、美代はどうにか立ち上がった。

「落ちているもの、忘れないで」

 言われて美代は、ショルダーバッグを拾い、それに果物ナイフを入れた。ライトがついたままのスマートフォンは、懐中電灯として使えるだろう。拾ったショルダーバッグを袈裟懸けにし、スマートフォンを左手に持って、ぐったりとしている朱實の正面にしゃがみ込んだ。

 ふと、美代は玄関に目を向けた。

 濃い闇が固まっていた。そこにいるはずの何者かの姿は窺えない。

「そこに、いるんですよね?」

 尋ねつつも、スマートフォンのライトで照らしたい、という衝動に駆られた。

「わたしの姿は、見ないほうがいいわ」

 心を読まれた気がして、美代は視線を朱實に戻した。そして、声の主が何者なのかということよりも自分と朱實がこの家にいること自体が問題なのだ、と強く認識する。

 とにかく、朱實をどうにかしなくてはならない。

「こっちへ来てください。この人を背負いたいので、手伝ってもらえませんか?」

 玄関には目を向けずに、美代は請うた。

「わたしの姿は見ないほうがいい、と言ったはず。それに、意識を失っている人を背負って歩くなんて、無理よ」

 かたくなに拒まれて、美代は途方に暮れた。

「じゃあ、どうすれば……」

「頬を軽く叩いて起こしなさい」

 もっともな意見である、と思った。それ以外に方法はないだろう。

「わかりました」

 答えた美代は、右手で朱實の左頬を軽く叩いた――軽く叩いたつもりだったが、音は予想よりも大きかった。

 叩かれた弾みで顔を横に向けた朱實が、「う……うん……」と声を漏らした。

「朱實さん、起きて」

 声をかけると、朱實はゆっくりとまぶたを開けた。闇に隠れる何者かによれば、目覚めれば正気に戻っているらしいが、美代は自分自身が先に正気を取り戻さなければならないと察した。

 朱實の視線が宙をさまよった。そしてその視線が、美代に定まる。

「美代さん……ここは?」

「覚えていないの?」

「はい……」

「どこも痛くない? 頭とかは?」

 美代のその問いに朱實は、「頭は大丈夫ですけど、背中がちょっと」と答えた。左の頬はそれほど痛くはないらしい。いずれにせよ、後頭部は打っていない、と思えた。

「つらいかもしれないけど、さあ、立って」

 美代は自分の右腕を朱實の左脇に通すと、朱實を引き起こしつつ自分も立ち上がった。

 二人とも立ち上がった――まではよかったが、朱實は美代に体を預けながらふらついていた。背中の痛みもあるだろうが、意識が混濁しているに違いない。

「朱實さんのバッグ、わたしが身に着けているからね。それからこのスマホ、しばらく貸してね」

「はい……それより、ここはどこなんです?」

 美代に肩を借りてどうにか立っていられる、といった状態の朱實が廊下の闇に目を走らせた。

「陣内さんの家よ」

「え……」

 朱實は目を丸くした。事態を飲み込めていないようだが、説明をしている余裕はない。

「そういえば……」と眉を寄せた朱實は、どうやらこの異臭に気づいたようだ。

「とにかく、ここを出るわよ」

「はい」と頷く朱實に肩を貸したまま、美代は台所のほうへと歩き出した。急ぎたいのをこらえ、朱實のおぼつかない足取りに合わせて、ゆっくりと歩く。

 歩きながら、美代は振り向いた。

 漆黒の闇に無表情の白い顔が浮かんでいる――そのうように見えたのだが、次の瞬間には、それは消え失せていた。

 正面に顔を向け、歩きながら、美代は息を吞んだ。

 ――ここの二階の窓に見えた、あの人だ。

 朱實と初めて会ったとき――その直前に美代が目撃した、あの女だ。

 もう振り向けなかった。

 勝手口に向かうことだけに、美代は専念した。

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