第四章 ④
ニットカーディガンにブラウスとワイドパンツ、という組み合わせは、美代のお気に入りのよそ行きだ。幸太が寝つき、瑛人が入浴している間に、物置代わりに使っている一階の部屋――その奥の棚の上に、たたんだ状態でそれらを置いた。
そして、午前一時ちょうど。
ベッドで目を開けたままこのときを待っていた美代は、隣のベッドの瑛人が熟睡中であるのを確認し、一階へと降りた。そして、物置代わりの部屋で、用意しておいたよそ行きに着替える。
リビングに入ると、照明を点けずに掛け時計を見た。午前一時七分だった。
テーブルの上からスマートフォンを取った。意図して電源は落としていないが、電話着信音と通知音は小さめに設定してある。可能な限り、音は立てたくない。
スマートフォンのスリープを解除した美代は、まだ着信がないことを確認した。
前日の未明以来、朱實からの連絡はなかった。美代からも連絡はしていない。それでも美代は、再び朱實から電話がある、と見込んだのだ。
立ったままスマートフォンを持っていると、しばらくして、小さな電話着信音が鳴った。
通話モードにしたスマートフォンを左耳に当てると、「美代さん?」と朱實の声がした。
「ええ」
美代は静かに答えた。
「今から、外に出られます?」
前回と同じ問いだった。
「出られるわよ。すぐにでも」
「よかったです。門の外で待っています」
とはいえ、窓から外を確認するのはやめた。そこにいる、と確信しているのだから、余計な手間は省きたかったのだ。
「わかった」
美代は通話を切ると、スマートフォンをワイドパンツの右ポケットに入れた。左のポケットに玄関の鍵が入っているのを確認し、玄関へと向かう。
靴を履くのも玄関ドアを開けるのも、音が大きくならないように注意した。そして玄関を出た美代は、オートロックでドアを閉じ、門に向かって目を凝らした。
街灯の明かりを受けて、朱實の姿が闇に浮かんでいた。前の夜と同じく、パンツスーツにショルダーバッグ、という出で立ちである。
門を出た美代は、無表情の朱實と対峙し、毅然とした態度で問う。
「話があるんでしょう?」
「はい」
頷いた朱實は、無表情だった。
「どこでお話しするの? ここで?」
朱實は「いいえ」と返して北のほうを指さした。
「アパート?」
「違います」
指さした手を、朱實は下ろした。
「まさか、あのごみ屋敷――」今はごみだめではないのだ。美代は改める。「陣内さんのお宅で?」
「そうです」
無表情の顔が美代に向けられた。
焦燥を抑えて、美代は問い返す。
「そこへ行って、どうするの? お話ならここでも……」
言いさして、美代は周囲を見渡した。ここで会話を続ければ、家族や近所の住人を起こす可能性がある。
「この団地の中にある公園とか、都道沿いの公園でもいいんじゃない?」
「だめです」朱實は表情を変えなかった。「見せたいものがあるんです。それは、あの家の中にあるんです」
「人の家に勝手に入るなんていけないわ。それとも、陣内さんに招かれたの?」
「いいえ。陣内さんはまだ自宅に戻っていません。たぶん病院にいます」
「やっぱり留守なんじゃない。それに鍵だってかかっているはずよ」
「鍵は、玄関も勝手口もかかっているようです」
「まさか、確認したの?」
「はい。どちらも鍵がかかっていました」
「なんていうことを……確認だけだって、人に見つかれば、住居侵入未遂で訴えられる可能性があるのよ」
住居侵入は未遂でも逮捕されるケースがあるのを、ドラマで見たことがあった。
「大丈夫です。きのうの夜中に、誰にも知られないように確認しました」
「そういう問題じゃ……とにかく、入れないんだし、ほかの場所で話しましょう」
「あの家に入ることはできます」
朱實は断言した。
「どういうこと?」
「さあ、行きましょう」
美代に背中を向けて、朱實は歩き出した。
ついていくほかに手はないようだ。
ふと、朱實が足を止めた。
歩き出す直前だった美代は、その位置で朱實の様子を窺った。
背中を向けたままの朱實が、横顔だけをこちらに見せる。
「スマホ、持っていますよね?」
「ええ」
「電源が入っているのなら、ミュートにしておいてください。万が一でも着信音とか通知音とかが鳴ったら、この静けさだもの、結構、響きますよ」
どんな時刻であろうと、ありうることだ。加えて、小さめの音よりも無音のほうが確実である、と悟る。
美代は朱實の言うとおりにした。
朱實の斜め後ろを歩きながら、美代は周囲の様子に目を配った。
美代から見える範囲では屋内照明を灯している家はなかった。街灯の明かりと遠くの街明かり、やや欠けた月がもたらす弱い光だけが、夜の世界を照らしている。それでも歩くには十分な光量だ。必要ならば、スマートフォンのライトを使えばよいだろう。
ときおり、車の走る音が都道のほうから聞こえた。無論、日中の交通量と比ぶべくもなく、喧騒というほどではない。また、二人の靴音も静かだった。美代の靴はウォーキングシューズだが、朱實のローヒールもウォーキング機能が備わっているらしい。
見上げた夜空は、月が浮いている以外は灰色だった。それでも今宵は、晴れである。
「ねえ」美代は歩きながら朱實の背中に声をかけた。「きのうね……あなたからの電話があったとき、わたしはスマホの電源を切っていたはずなの。遠隔操作で電源が入るアプリとか、わたしのスマホに入れたりした?」
「そんなアプリ、あるんですかね?」
少なくとも、美代は聞いたことがない。
「それとも」朱實は続けた。「自動起動の機能をオンにしていたとか?」
自動起動といった機能そのものを、美代は知らなかった。無論、そういった機能を設定した覚えもない。
美代は言葉を詰まらせるが、朱實も興味がないのか、押し黙ってしまった。
やがて道の左側に相田宅が見えてきた。ほかの家々と同じく、相田宅にも屋内照明がついている様子はなかった。できればその家の前は通りたくないが、朱實から離れるわけにはいかない。もっとも、深夜ゆえに恵理に見られる可能性はなさそう――に思えた。
相田宅の前を通り過ぎ、市道に突き当たった。
宵闇の陣内宅が街灯に照らされていた。今のところ、気配は感じない。
周囲にごみ袋のないその屋敷は、一見すれば普通の民家だ。しかし美代は、その家屋に名状しがたい穢れを感じていた。閉じたままの一階の雨戸に至っては、家の中に隠された何かを外の世界から隔絶するために存在するかのごとくだ。
今このときでも都道のほうから車の走る音が届くが、こちらの道は閑散としたありさまだった。
美代は朱實に続いて市道を急ぎ足で渡った。
市道の北側の家々も沈黙を守っていた。
美代は街灯の明かりを心の支えにしたかったが、その明かりでさえ、冥界から送り届けられているような気がした。
陣内宅に近づくと、かすかに生ごみのにおいがした。よく見れば玄関先のコンクリートに染みがあり、それも発生源の一つと思われた。
朱實は玄関を無視して家屋の右側へと歩を進めた。どこへ向かうのかを悟った美代も立ち止まることなく同じ道筋をたどり、家屋の際まで迫った草むらを踏み締めた。
東側の外壁の下と勝手口の手前とにエアコンの室外機があった。それらは行政代執行があるまではごみ袋の山に埋もれていたに違いないが、そんな状況でエアコンが稼働していたか否か、美代は考える気にもなれなかった。無論、今はどちらの室外機も動いていない。
「仮に車や人が通りかかったとしても、ここならば玄関よりは目立ちません」
裏の勝手口の前で立ち止まった朱實が、そう言った。
「本当に入るの?」
止めるべきなのはわかっていた。止めるための問いでもある。しかし、誘惑があった。
「入りたくないんですか?」
無表情のままの問い返しだった。
美代は答えず、黙って朱實の顔を見つめた。
見つめ返す朱實は、動揺のかけらも表さず、口を開く。
「中は外よりも暗いはずですが、家の中の電気とかスマホのライトとか、照明の類いは点けないでくださいね。必要ならば、わたしが自分のスマホでライトを点けます」
「わかった」
美代が答えると、朱實は右手をドアノブにかけた。
「鍵、かかっているんでしょう?」
美代のそんな疑問を無視して、朱實はドアノブをひねった。
音がした。施錠や解錠で鳴る音だ。
ドアが手前に引かれた。
どのような手法で解錠したのか、美代にはわからない。最初から施錠などされていなかった可能性も否めないが、今の美代には、朱實によってドアが解錠されたのは事実、としか思えなかった。
とたんに異臭がした。生ごみのにおいだ。家の中はごみだめではなかったらしいが、においは入り込んでいたわけである。行政代執行を見物していたときに耳にした立ち話が、脳裏をよぎった。
家主が不在では窓を開けての換気などはしていないはずだ。住居侵入を犯すという後ろめたさとは別に、このにおいがあるだけでも躊躇してしまう。
異臭は朱實も感じているはずだが、平然とした様子で、彼女は勝手口に入った。
美代は意を決し、息を浅くして朱實に続き、静かにドアを閉じた。
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