第四章 ③

 待ち合わせ場所は、小学生の集団登校の集合場所となっている児童公園だった。犬を連れた中年夫婦や小さな子供と遊ぶ若い夫婦など、少ないながらも利用者の姿があった。

 午前九時二十七分。待ち合わせ時間より三分早く児童公園に入った美代は、奥のベンチに座る和子をすぐに見つけた。

 普段着にトートバッグという美代に対し、和子はよそ行きだった。そんな和子が、近づく美代に気づき、片手を振る。

「待ちましたか?」

 和子の前に立って、美代は尋ねた。

「来たばかり。さあ、座って」

 そう促されて、美代は和子の左に腰を下ろした。

「ご自宅からでは、遠かったんじゃないんですか?」

「全然よ。散歩するのにちょうどいい距離。たまに来ようかしら」

 はにかんだ和子が、膝のうえのハンドバッグから、一通の封筒を取り出した。

「これなの」

 和子は言いながら、それを美代に差し出した。

 受け取った封筒を、美代は見つめた。施設に常備しているのだろう、長形の白い封筒だった。もっとも、表も裏もまっさらである。宛先も送り主も記されていない。ふたはのりづけされているらしく、しっかりと閉じてあった。

「ここで読んでもいいですか? というか、奥さんにも一緒にいてもらいたいんですが。わたしにわからないことがあれば、その際は奥さんに尋ねたいんです」

 美代は正直に伝えた。

「いいわよ。実は、わたしもその手紙が気になってね。まさか、ラブレターなんていうことはないんでしょうけど」

 そして二人は失笑した。

「ラブレターなんてもらえたら光栄ですが……」

 さっそく、美代は封筒のふたの部分を爪で丁寧に剝がした。

 四枚の便せんが三つ折りになって入っていた。

 それを広げて、美代は紙面に目を走らせる。

 文字は楷書体で整っていた。

 和子にも内容がわかるよう、美代は声に出して読み始めた。

   *   *   *

 前略

 野沢さんとおっしゃいましたね。

 わたしの頭がいつまで正常でいられるかわからないので、挨拶を省いて本題に入らせていただきます。

 ごみ屋敷について、お伝えしたいことがあります。

 あの家は、世帯が二回変わりました。

 今から五十一年前にあの家は建ちました。最初の住人は、世帯主の中森一郎さんと、長男の章太さん、長女の静枝さん、という三人でした。一郎さんの妻である葉子さんは、新居が完成した直後、新居に移る前に、病で亡くなりました。住み始めた時点で、一郎さんは三十歳前後、章太さんは小学校三年生、静枝さんはまだ一歳でした。一郎さんは勤めている様子はなかったのですが、羽振りがよく、子供たちの面倒を自分で見ていました。

 当時のあの家には地下室がありました。わたしはそれを建築中の現場を覗いて知りました。三人が住み始めてから、わたしの知り合いが一郎さんに地下室について尋ねたのですが、「物置として使う」という答えだけで、詳しいことは教えてもらえなかったそうです。もっとも、一郎さんは近所づきあいが悪く、のちに大きくなった二人の子供も無口でしたので、彼らがどのような生活を送っていたのか、それも詳しくはわかっていません。

 章太さんは高卒で就職し、間もなく結婚して、家を出ました。一郎さんと高校生の静枝さんの二人きりとなったわけです。

 その一年後だったと思います。あの家で男女の叫び声が聞こえた、という通報があり、鍵のかかった玄関を押し破って何人かの警察官がそこに立ち入りました。そして警察官によって、地下室で一郎さんの死体が発見されたのです。喉笛を食いちぎられて死んでいたとのことでした。静枝さんの姿はありませんでした。それどころか静枝さんはそれっきり見つからず、わたしが知る範囲では、彼女は行方不明のままです。章太さんも取り調べを受けたようですが、事件には関与していなかったらしく、また、その章太さんがどこで暮らしているのか、暮らしぶりはどうなのか、わたしは今でもわかりません。

 そのあと、章太さんがあの家の名義人となりました。もちろん、実際には住んでいませんでしたが。その章太さんがあの家を競売にかけ、家はすぐに売れました。

   *   *   *

 手紙はまだ続くが、美代はここで便せんから目を上げ、和子を見た。

 こわばった表情を、和子が美代に向ける。

「それって、本当なのかしら」

「わかりません。でも、真実を知る手がかりになるに違いありません。というより、わたしはご主人のこの手紙を、信じたいです」

「そう……ね」

 半信半疑らしい和子は、眼鏡の内側の目を美代の手にある便せんに向けた。

 美代は朗読を再開する。

   *   *   *

 次の住人となったのは、星野峰子さんとその長女の望さんでした。峰子さんは五十歳前後、望さんは二十代でした。二人とも会社員で、中森さん一家とは異なり、近所づきあいはよかったです。

 購入した家が事故物件だったことを、星野さん親子は承知していました。しかも二人は、事件現場である地下室をワインセラーにしたのです。それ以外にも、トイレを洋式にするなど、いくつかの修繕はあったようです。

 そしてまた、悲惨な事件が起きてしまいました。

 今から三十年ほど前でした。その地下室で、峰子さんが望さんを刃物で殺害して、自分もあとを追って自殺してしまったのです。それもわたしが知る範囲では、原因が解明されていません。

 そんな血なまぐさい過去のある家なのに、またしてもすぐに売れてしまいました。

 次の住人は、陣内忠志さんと妻の知美さん、長男の順一さんでした。当時、忠志さんと知美さんは四十歳前後で、順一さんは大学生でした。三人は、中森さんの事件は知らされていなかったようですが、星野さん親子の事件は承知していました。だからなのか、忠志さんは地下室の埋め戻し工事を業者に依頼したのです。工事が施工されたのは陣内さん一家が入居して一カ月も経たない頃でした。しかし、その修繕は費用のかかる工事でもありましたし、知美さんと順一さんは反対していたようです。それを押し通しての工事でしたから、知美さんと順一さんは忠志さんに愛想を尽かし、忠志さんがノイローゼのようになって人が変わったせいもあって、あの家を出ていってしまったんです。

   *   *   *

 このくだりは、美代がすでに入手している情報と一致していた。

 手紙はさらに続いているが、美代は和子に尋ねてみる。

「今の部分……星野さん親子があの家に住み始めたところからあとは、数日前に知人から聞いていました。奥さんもご存じでしたよね?」

「ええ……前にも言ったけど、星野さんの事件は知っているわ。この辺りでも騒ぎになったからね。峰子さんはうちの店にワイングラスを買いに来たことがあるらしいんだけど、わたし、よくは覚えていないのよ。うちの主人は配達で星野さんのお宅まで……というか、あの家が中森さんのときも陣内さんのときも、何度か配達で行っていたの。だからいろいろと事情を知っているみたいね。わたしなんて、星野さんどころか、今の住人の陣内さんの顔だってわからないもの」

 和子はそう告げると自嘲の笑みを浮かべた。

「そうでしたか」と返して、美代は便せんに視線を戻した。

   *   *   *

 あの家について、表向きに知られていること、聞き回ればどうにかわかることは、こんなものでしょう。

 しかし、世の中には不可思議な出来事が多々あります。わたしはそういった事件や現象を信じない部類の人間なのですが、あの家では何かが起きていた、と思えてなりません。それどころか、今でも何かが起きているような、そんな気がするのです。

 あの家に中森さんの一家が住んでいたときのことです。あの家が建って一年目辺りだったでしょうか。

 章太さんの同級生の少年が、あの家に遊びに行きました。そしてあの家から帰って、家族だかほかの友人だかにこう告げたそうです。

「章太くんの家の地下室から変な声が聞こえた。歌っているみたいだった」

 もちろん、大方の人は、それを特に異様なこととは思いませんでした。一郎さんが鼻歌でも歌いながら何かの作業に没頭していたのだろう、と思ったのです。

 ところがそれから間もなくして、その少年は精神を病み、入院してしまいました。少年の姓と名は忘れてしまいましたが、少年の一家はその数カ月後にどこかへ引っ越してしまいました。少年がどうなったのか、それもわかりません。

 それだけではありませんでした。その後、あの家から昼と言わず夜と言わず妙な声が聞こえることがある、といううわさがささやかれたのです。

 事実、わたしもそれらしき声を聞いたことがありました。あの家のご近所に配達に行ったときです。男とも女ともつかない声によるお経のような言葉が、あの家から聞こえました。少なくとも鼻歌には思えませんでした。

 幸運なことに、と言っていいのかわかりませんが、わたしはあれ以来、あの家やそのご近所に配達に行くことはなく、気味の悪い声を耳にするのは、その一度きりで済みました。

 しかし、あの家から妙な声が聞こえる、といううわさは、中森一郎さんが殺害されるまで続きました。ですからわたしは、星野さん親子が亡くなった事件は、一郎さんと無関係とは思えないのです。今のごみ屋敷と化した様相も、無関係ではないのかもしれません。

 信じていただけないかもしれませんが、以上が、野沢さんにお伝えしたかったことです。

 あの家にはなんらかの因縁があります。

 くれぐれもあの家について深入りしないよう、ご忠告して、筆を置きたいと思います。

   *   *   *

 そして最後は、「草々」と結んであった。

 美代は便せんを広げたまま、小さなため息を落とした。

 仕事帰りの朱實や部活帰りの女子中学生があの家の近くで耳にしたという声――それを彷彿とさせる声が、この手紙にも記されていた。あの当時の声と今回の声とのそれぞれが、同じ声なのか似ただけの声なのか、美代には知る由もない。だが少なくとも、中森一郎はもうこの世にいないのである。

「やっぱり、ぼけたまま書いたみたいね」

 そう言って、和子は美代のものよりも大きなため息をついた。

 しかしこの手紙を読む限り、とても「ぼけたまま書いた」とは思えなかった。

 美代は顔を上げた。

「とにかく、あの家には不用意に近づくべきではないと思います」

 わずかだが、和子はおののきを呈した。

「それは……もちろんよ。今の住人だってあんなふうなんだから。……そういえば、うちの近所の人に聞いたんだけど、あの家のごみが強制撤去されたんですって?」

「はい。今ではきれいさっぱりです」

「でも、住んでいる人……陣内さんという人は興奮しすぎたのか、倒れちゃって、病院に搬送されたんでしょう?」

「そうです」

「なんていうか……わたしはこの手紙の内容が眉唾にしか思えないんだけど、ごみが撤去されたのに、気味悪さが残っちゃったみたい」

 和子の言葉は美代の思いを表していた。

「本当に、そうですね」

 気味悪さが残った――すなわち、新たなる謎が浮き彫りにされた、ということだ。

 それを胸にして、美代は便せんをたたんだ。


 美代が帰宅すると、幸太は外出していた。友達らと希望台内の児童公園で遊んでいるらしい。

「志穂ちゃんも一緒だった? あの子、元気になったみたいだし」

 ソファに腰を下ろした美代は、そう尋ねた。

 テーブルを挟んで向かいに座る瑛人が、リモコンを手にすると、ニュース番組を映すテレビを切った。

「迎えに来たのは男子ばかりだったよ」

 しかも、五人はいたという。

「まあ、そんなものよね。小学校一年生って、異性という存在を中途半端に意識する頃なのかも。異性と一緒にいるとからかわれたり、そうかと思えば、一緒に遊んだり」

 息子の成長は、うれしいようでもあり、同時に寂しい気もした。

「ところで、どうだった?」

 訊きながら、瑛人はリモコンをテーブルに置いた。

「ああ……えっと、酒出さんの奥さんが昔のことを思い出して、それを教えてくれたの。でも、星野さん親子の……あの殺人事件や、陣内さんが越してきてすぐに地下室を埋め戻したとか、こちらが知っていることばかりだったわ」

 やはり、本当のことは口にできなかった。ソファに置いたトートバッグには酒出哲夫からの手紙が入っているが、それを瑛人に見せるつもりはない。

「そうだったんだ」

 残念そうな表情だが、ある意味、安堵の色にも窺えた。美代の深追いがはかどらなければ、少なくと、瑛人は平穏な生活を送れるだろう。

「さて」と美代はトートバッグを持って立ち上がった。

 目を丸くした瑛人が、美代を見上げる。

「どうしたんだい、急に。休まなくていいのか?」

「ゆっくりなんてしていられないわよ。天気がいいんだし、敷布とか掛け布団を干して、そのあとはお昼の用意をしなくちゃ」

 墓穴を掘らないため、という理由もあった。

「ゆうべのことがあるじゃないか」瑛人は不安そうな面持ちをあらわにした。「ごみ屋敷のこととかで、きっと疲れているんだよ」

「確かにゆうべは、疲れが出ちゃったのかも。でもね、主婦は負けていられないの」

 単に取り繕うのではなく、あえて気丈に振る舞った。

「そうか……主婦は日曜日でも忙しいもんな。おれも手伝うよ」

「ありがとう」

 それは心のそこからの言葉だった。

 鬱々とした気分が、わずかだが晴れた。

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