第四章 ②

 ごみ屋敷の苦情を何度も訴えていた人物の正体がわからない、という事態が、このいら立ちの根源だった。とはいえ、恵理がその人物であるという疑惑には、得心がいかない。

 なのに――美代はその恵理に会おうとしていた。忘れていた用件などない。ただ、確かめたかっただけだ。

 美代は相田宅へと向かって歩いた。

 一組の若い夫婦が道の先から歩いてきた。名前は知らないが顔だけは知っている。「おはようございます」と挨拶を交わして、立ち止まることなくすれ違った。

 相田宅に近づくと、その敷地内に人影があることに気づいた。花壇の花々にじょうろで水をやっている恵理、その隣に立って庭の様子を眺めている智宏、さらにその智宏の隣で楽しそうに体を揺らしている志穂――そんな三人の姿が、低い塀の内側に見えた。どうやら志穂の体調は回復したらしい。恵理も元気そうだ。

 しかし、美代は違和感を覚えた。その違和感が何か、はっきりしないまま、門扉なしの門の前に立つ。

「あら、美代ちゃん。おはよう」

 美代に気づいた恵理が、水やりの手を止め、声をかけてきた。

 智宏と志穂もこちらに顔を向ける。

「おはようございます」

 美代が挨拶を返すと、智宏と志穂が「おはようございます」と声をそろえた。

 確かに恵理と志穂には健やかさがあふれていた。しかし、智宏の顔色が悪い。まるで病人が無理をして立っているかのようだ。違和感はこれだった。

「志穂ちゃんも恵理さんも元気になったんですね」

 それを言うのが順当だろう。とりあえず、智宏の様子には気づかないふりをした。

「やっぱり、あの家のごみが片づいたからかもね……冗談とかではなく、マジで」

 そんな笑顔の恵理の横に来た志穂が、これもまた、満面の笑みを美代に向けていた。

「ごめん」智宏が恵理に言った。「先に家の中に入っているよ」

「あら、そう。無理しないでね」

 恵理が答えると、智宏は美代に会釈して、玄関の中に消えた。歩くのもつらそうに窺えた。本人には申し訳ないと思うが、この機会を逃すわけにはいかない。

「ご主人、どうなさったんですか?」

「うーん、ゆうべの遅くから調子が悪いみたいね。あたしと志穂がよくなったのに、それと入れ替わるように体調を崩すんだもの、なんだかねえ」

 あきれ顔で恵理が肩をすくめた直後に、志穂が「わたしもうちに入る。テレビを見るんだった」と言って慌てた様子で玄関へと駆け込んだ。

 志穂の背中を見送って、美代は尋ねる。

「あの……ご主人の症状は?」

「頭痛がするとか気分が悪いとか、いっときのあたしみたいよ。きのうは普通に出勤して、帰ってきたときもなんともなかったのに。……そういえば、美代ちゃんはごみの強制撤去の様子、見なかったの?」

 訊かれて口ごもりそうになるが、文江やみのりらに伝えたとおりに、「急用で出かけた帰りに、北側から見ました」と釈明した。

「そうだったんだ。でもさ、傍観者は意外にも少なかったわよねえ」

「はい、そうでした」

 少なければ見とがめられる確率は高くなりそうだが、見ていたかどうかを尋ねるほどなのだから、わからなかったに違いない。現に、美代が立っていた位置からは恵理の姿は確認できなかった。

 そろそろ本題に入ってもよいだろう。美代は思いきってそれを口にする。

「そういえば、ごみ屋敷の苦情を市に訴えていた人がほかにもいた……っていうのを、恵理さん、言っていましたよね?」

「うん、言ったわよ。それが?」

「ごみの強制撤去を見ているときに小耳に挟んだんですけど、何度も訴えていた人って、この希望台に住んでいる人なんだそうです」

「そうなの?」恵理は懐疑の表情を浮かべた。「でもうち以外に被害を受けている家なんてあるのかしらね。お隣も裏のお宅も大丈夫みたいだし。……まさか」

「まさか?」

「田所さん……とかね。実はいい人で、気を利かせてくれた、なんてないわよねえ」

 恵理は苦笑した。

「ええ」

 合わせて苦笑するしかなかった。

 尋ねたいことは尋ねたゆえ、美代はいとまを告げて相田宅をあとにした。

 しかし、釈然としない思いがあった。

 家路をたどる足が、どことなく重かった。


 喉の渇きで目が覚めた。

 隣のベッドでは瑛人が軽めの寝息を立てている。

 床頭台の目覚まし時計を見れば、午前一時十二分だった。

 室内を完全な闇から守っているのは、カーテンの隙間から差し込むわずかな光と、目覚まし時計が放つ弱い光だ。

 ベッドから起き出した美代は、静かに寝室を出た。

 時刻が時刻だけに、向かいの幸太の部屋では物音一つしない。念のために覗けば、息子はベッドで熟睡していた。

 階段を下りてキッチンに入り、照明を点けた。

 保管してある冷水を飲もうと、食器棚からコップを取り、冷蔵庫の前に立った。

 静けさが破られたのはそのときだった。

 飛び上がりそうになるのをこらえた美代は、リビングのテーブルに置いてある自分のスマートフォンが電話着信音を放っている、と知った。普段なら就寝前に電源を切ってその位置に置くのだが、今回はたまたま電源を切り忘れたらしい。まれにあることだ。

 リビングに向かった美代は、コップをテーブルに置き、スマートフォンを取った。

 メッセージならまだしもこんな時間に電話をかけてくるなど、詐欺の類いしか思いつかない。

 警戒しつつ画面を見れば、朱實からだった。

 美代はすぐに通話モードにした。

「朱實さん……でしょう?」

 ためらいつつも、美代は尋ねた。

「はい。こんばんは」

 確かに朱實の声だ。もっとも、抑揚はない。

「こんな時間にどうしたの?」

 問いを重ねてから、美代は思い出した。就寝前にスマートフォンの電源を切ったことを。

「今から、外に出られます?」

 美代の問いには答えず、朱實は平坦な調子を続けた。

 スマートフォンを持つ左手が、わずかに震える。

「どうして外に出るの?」

 答えずに問い返した。

「話があるんです」

「朱實さん、今、どこにいるの?」

「美代さんの家の、すぐ外です」

 心臓が縮み上がりそうだった。

 スマートフォンを耳に当てたまま窓辺に寄り、カーテンを少しだけめくった。

 路上に何者かの姿があった。パンツスーツという出で立ちであり、ショルダーバッグを左肩にかけ、左手でスマートフォンを左耳に当てている。近くの街灯の光が、そんな人物の姿を照らしていた。

「朱實さん……」

 表情までは窺えないが、間違いなく朱實だ。

「友達の付き添いで病院へ行っていたなんて、うそね?」

 黙っていようと思っていたが、こらえきれずに口にした。

「どうしてそう思うんですか?」

 朱實は悪びれるどころか、口調を変えなかった。

「なんとなくよ」

 木曜日の朝に瑛人が朱實らしき姿を目撃したが、別人の可能性があるうえ、仮にそれが朱實だったとしてもたまたま病院から出てきただけのことかもしず、それが決定打になることはない。ゆえに美代は、お茶を濁したのだ。

「話があるんです」

 またしても朱實は言った。

「時間も時間だし、電話で済ませるか、あしたにしましょうよ」

「大事な話なんです」

「だから――」

「話があるんです」

 冷え冷えとした声が、美代の言葉にかぶさった。

「話があるんです」

 朱實は続けた。

 力が抜けてしまい、美代の左手が下がった。それでも、スマートフォンは握ったままだ。

「話があるんです」

 耳から離れたスマートフォンから、朱實の声がこぼれた。淡々とした言葉が、美代の頭に染み入った。

 美代はスマートフォンをテーブルに置くこともせず、照明を点けたまま、リビングを出た。そして玄関ホールに至ると、パジャマ姿のままサンダルを突っかけた。

 スマートフォンを持つ左手は動かさず、空いている右手でロックを解除し、その手でドアを開けた。

 涼しい空気が美代の体にまとわりついた。

 ドアを開けたまま、美代は玄関の外へと歩み出た。

 門の外に朱實が立っている。

 朱實に向かって、美代は歩いた。

「美代」

 声をかけられて立ち止まった美代は、おもむろに振り向いた。

 開けたままのドアから玄関ホールの明かりが漏れていた。この明かりは美代が点けたのではない。点けたのは美代を呼んだその男だ。

「あな……た……?」

 パジャマ姿のその男は瑛人である、と認識して、ようやく美代は我に返った。

 瑛人はサンダルを履くと、玄関から出てきた。

「こんな時間に何をしているんだ?」

 険しい表情が美代の目の前にあった。

「何って……あの……朱實さんが……」

 そして門のほうに目を向けるが、そこに朱實の姿はなかった。

「夢でも見たんじゃないのか?」

 瑛人が焦燥を乗り越えようとしているのは、美代にもわかった。

「いえ……でも……」

 左手にスマートフォンがあることに気づき、美代はそれを確認しようとした。しかし、その電源は切れている。

「何これ……」

 バッテリーが切れたのかもしれない――と思い、すぐに電源ボタンを押した。

「とにかくうちへ入ろう」

 瑛人に促され、美代は「うん」と答えて玄関に戻った。

 ドアをロックした瑛人が先にサンダルを脱ぐが、美代は三和土に立ったまま、スマートフォンの起動を待った。そしてすぐに通話履歴を見るが、夕方に実家の母との通話をし終えてからこの時間まで、通話は一件もなかった。

「どうした?」

 リビングの出入り口の前で、瑛人は振り向いた。リビングの照明は点いたままだ。

「なんでもない」

 それ以外の答えなど思いつかなかった。

 美代は上がりかまちをまたぎ、玄関ホールの照明を消した。


 日曜日の朝は青空が広がっていた。

 美代のスマートフォンに酒出和子からの電話があったのは、朝食の片づけが済んですぐのときだった。

 瑛人と幸太はリビングでテレビの特撮ヒーローものを見ている。スマートフォンを左耳に当てた美代は、「おはようございます」と言いながら廊下に出た。

「おはようございます。日曜日の朝から、ごめんなさい」

 和子は申し訳なさそうに返した。

「いえ、かまいませんよ。どうなさいました?」

「主人が、野沢さんに渡したいものがあるって……」

「ご主人が?」

「野沢さん宛に書いた手紙なの」

「えっと……」

 酒出哲夫は痴呆症なのだ。手紙が書けるとは、美代には想像しにくかった。

「きのう」和子は言った。「施設に面会に行ったのよ。そうしたらね、職員に封筒を渡されたの。中身の入っている封筒よ。野沢さんという人に渡してくれ、と主人に頼まれたんですって。その前の日は意識がはっきりしていたみたいで、職員にペンと便せんと封筒を要求して、それらを受け取ったら、デイルームの端で黙々と書いていたそうなの。きのうは、もう、ぼけちゃっていたけど」

「そうだったんですか」

 痴呆症が治ったわけではないのだから、よかったですね、などと喜ぶわけにはいかない。

「それで……手紙って、どんな内容なんですか?」

「自分宛の手紙ではないから、さすがに確認していないわ。それに、きちんと封がしてあるの。職員も確認していないって」

「そうなんですか」

 期待と不安が一度に到来したようだった。

「申し訳ないんだけど、今から会えないかしら。主人はこれを早く渡してほしいみたいなのよ」

「ええ、大丈夫です」

「じゃあ……」と和子は時間と場所を提案した。

 それに同意した美代は、通話を切ると、リビングに戻った。

 瑛人と幸太はテレビの前のカーペットに座り込んでいる。特撮ヒーローものは、まだ序盤だ。

「あなた……」美代は瑛人の耳元でささやいた。「酒出さんの奥さんが、会って話がしたいそうなの。今からちょっと出かけてくるね」

 手紙の件はあえて口にしなかった。一人で探るのならそのほうがよい、と判断したのだ。

「今から? 車で?」

 意表を突かれたような表情を、瑛人は美代に向けた。

 テレビに夢中になっている幸太は、美代と瑛人とのやりとりなど興味がないらしい。

「近くだから歩いていく」

 そして美代が待ち合わせの場所を告げると、瑛人は頷いた。

「わかった。車に気をつけて」

「うん」

 幸太に気取られないよう、二人は小声でそう交わした。

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