第四章 ①

 希望台では水曜日だけではなく土曜日も可燃ごみの収集日だ。野沢家の土曜日の担当は瑛人であり、彼は先週の土曜日もゲームソフトを買いに行く前にゴミ出しをしたほどである。だが今朝は、美代が「自分がやる」と申し出た。土曜日の朝は散歩がてらにごみを出しに行くのが常の瑛人は、訝しげなまなざしを美代に向けたものの、幸太に「一緒にゲームで遊ぼう」とせがまれ、とたんに土曜日の任務を美代に委任することにしたのだった。

 朝食の片付けを済ませた美代は、左右の手に一つずつの赤いごみ袋を提げてごみ収集所へと着いた。午前七時半を過ぎた頃だが、メッシュごみ収集庫の中にはごみ袋が一つしかなかった。

 曇り空の下で周囲を見渡すが、人影はない。

 時間稼ぎが必要、と判断した美代は、持っていた二つのごみ袋を収集庫の横に置き、そのうちの一つの口を開いた。そして、収集庫の横に下げてある箒とちり取りを手にし、当番でもないのに収集庫の周りを掃き始めた。ちり取りに集めたごみはいくらもないが、それらを、口を開けておいたごみ袋に入れた。

 掃除道具を元の位置に戻し、ごみ袋の口を閉じた美代は、片手にごみ袋を提げるエプロン姿の田所文江がすぐ近くまで来ている様子を、横目で確認した。

「おはようございます」

 声をかけられた美代は、それで気づいた、という様相を作った。

「おはようございます」挨拶を返し、美代は収集庫のふたを開けた。「どうぞ」

 促されて、文江は「ありがとう」と告げて自分のごみ袋を収集庫に入れた。

「ところで野沢さん、掃除をしていたみたいだけど、今週の当番じゃないんでしょう?」

 反感がうっすらと顔に浮かんでいた。たとえ善行であっても、余計なことである、と判断すれば難癖をつけてくる人物なのだ。早々に、美代は弁明を図る。

「ごみ袋の口がちゃんと閉じていなかったので直そうとしたんですけど、ごみがこぼれちゃったんですよ」

「ああ、そういうことね」

 そう言いつつも、文江はあきれた様子だった。

 予想どおりの反応を受けつつ、美代は自分の二つのごみ袋を収集庫に入れ、ふたを閉じた。

 前置きは、ここまでだ。

「そういえば、きのうはごみ屋敷で行政代執行がありましたね」

 肝心の話題を振って文江の様子を窺うと、とりわけ心を乱されたふうでもなく、言われて思い出した、といった様子で頷いた。

「そうね。これであそこも少しはきれいになったわね。しかも、ごみ屋敷の住人が……えっと、なんていう人だっけ?」

「陣内さん、です」

「そうそう、陣内さんだった。その陣内さんが行政代執行のさなかに倒れて、救急車で運ばれちゃって」

 陣内は職員に毒づいていたらしいが、興奮しすぎたのか、居合わせた者たちの前で急に倒れたという。もっとも、倒れた現場は陣内宅の中だったため、美代はその瞬間を見ておらず、彼が担架によって救急車に運ばれるのを遠巻きに目にしただけだった。

「田所さんは、きのうの強制撤去の様子、見ました?」

「ちょっとだけね。でも見物人は思ったほど多くなかったわねえ。作業する人が多かったのには驚いたけど。作業員が多かったおかげか、時間はそんなにかからなかったわね。お昼前には終わっちゃったでしょう。家の中にはごみはなかったとかで、そのせいもあったのかも。救急車が出ていくところまでしか見ていないけど……野沢さんも見物したの?」

 文江は興奮気味に一気に語った。

「用事があって出かけていたので、その帰り際に……市道の反対側から見ていました」

 あの様子を美代が北側から覗いていたとは、希望台の顔見知りの見物人がいたとしても、おそらくは気づかなかっただろう。だが、どこから恵理に伝わるかもしれないのだ。念には念を入れ、堅実な言いつくろいをしておいた。

「そういえば」美代は続けた。「見物していたときによその人同士の立ち話が聞こえたんですけど……ごみ屋敷の苦情を最初に市に報告したのは、ごみ屋敷のあるほうの自治会だったそうなんですが、そのあとに何度も訴えていたのは、希望台の人なんだとか」

 無論、部分的には恵理から聞いた、ということは口が裂けても言えない。

「ええっ……そうだったの?」

 文江は目を丸くした。

「田所さんは、何か聞いていません?」

 尋ねつつも、文江の線は薄くなった、と悟っていた。とっさの反応からしても、知らなかった、と見るのが無難だろう。

「いいえ、わたしは何も聞いていないわよ。うちの自治会でもそんな話は出ていないし。何度も訴えていた人がいた、ということさえわからなかったわ」

「そうでしたか」

「でも……もしかすると、その訴えていた人って、相田さんかもしれないわね。特に奥さんのほうとか」

 言って文江は、訝しむような目を北のほうに向けた。

「ははは……まさか……」

 つい、笑い声を漏らしてしまった。取り繕うというより、それはありえない、と本気で思ったのだ。

「だって、先週のいつだったか、ごみ屋敷の苦情を市に訴えてほしい、って、相田さんの奥さんがうちに怒鳴り込んできたのよ」

「そんなことがあったんですか?」

 みのりや佐恵子から聞かされた件だ。知らないふりをするしかない。

「耳にしていなかった?」

 カマキリのような顔に問われた美代は、肩をこわばらせつつ「はい」と答えた。

「とにかく、そんな訴えを個人でするなんて、あの人しか考えられないわ」

「でも、個人で訴え続けていたのなら、今さらわざわざ自治会に相談するのも、おかしな気がします」

 正論である、と自負したかったが、文江を不快にさせてしまったのでは、という不安がとっさに湧き上がった。

「そうか……それもそうね」

 意に反し、文江は納得したように小さく頷いた。

 いずれにせよ、何度も訴えていた人物は田所文江ではなさそうだ。

「いけない」思い出したように文江は言った。「すぐに出かけるんだった。じゃあ、わたしは家に戻るから」

 そして文江は、いそいそと自宅のほうへと歩いていった。

 自ら進んで文江との接触を図ったとはいえ、やはりそれが済んでしまえば肩の荷が一気に下りる。美代はその場にへたり込みそうだった。

 人の気配があった。

 忌まわしき存在を想起し、息を潜めて北のほうを見やれば、鳥羽みのりと伊藤佐恵子の二人がそれぞれ左右の手にごみ袋を振り分けて持ち、こちらへと歩いてくるところだった。

 皆が朝の挨拶を交わしたところで、手ぶらの美代は率先して収集庫のふたを開けた。

「ありがとう」みのりは言って、先にごみ袋を入れた。「いつもお世話になります」

 失笑したみのりに、美代は「どういたしまして」と笑いをこらえて返した。

 続いてごみ袋を収めた佐恵子が、収集庫のふたを閉じ、美代を見る。

「田所さんと何を話していたんですか?」

「見ていたんですか?」

 美代が問い返すと、佐恵子は肩をすくめた。

「見ていた、というか、田所さんの姿が見えちゃったから、二人してそこの塀の陰に隠れて、田所さんがいなくなるのを、ずっと待っていたんです」

 開いた口がふさがらないままみのりを見れば、彼女も自嘲の笑みを浮かべていた。

 美代は文江の姿が見えなくなったのを確認したうえで、言う。

「ごみ屋敷の話をしていました」

「ああ」みのりが頷いた。「きのうの……あれね?」

「そうです。お二人は、強制撤去、見ました?」

「見たわよ」

 みのりが答えた。

「わたしもです」佐恵子がみのりに追従した。「みのりさんと並んで見ていましたけど、前のほうに田所さんの奥さんがいたから、後ろのほうから。とりあえず、あそこの住人が救急車に収容されるところまでは見ました。あそこの住人……えっと、陣内さんか。市の職員と話していて倒れちゃったんですってね。もうビックリ」

「美代さんは見なかったの?」

 みのりが尋ねた。

「とりあえず、最後まで見ていました」

 そして美代は、文江への答えと同じ内容を口にした。さらに美代は、ごみ屋敷の苦情を何度も市に訴えていた希望台の住人を知っているか、と尋ねてみた。しかし、みのりも佐恵子も首を傾げるばかりだった。

「そんな人がいるとすれば……」

 言ってみのりは、佐恵子に目を向けた。

「相田さんの奥さん?」佐恵子は首を傾げ続けた。「でもなんか変ですよねえ。何度も訴えていたのなら、今になって自治会に相談しますかね?」

 美代が文江に伝えたのと同じ疑念だ。

「じゃあ、田所さんとか?」

 絶妙な思いつき、とばかりにみのりは目を輝かせた。

「それもなさそうです」

 期待を覆すようで申し訳ない、と思いつつ、美代は言った。

「田所さんとのさっきの話には、そういうのもあったの?」

 案の定、みのりは興が冷めたような色を呈した。

「はい。……とにかく、あの感じでは、たぶん、そういうことです」

「でも、ほかに苦情を訴えそうなお宅ってありましたっけ?」

 佐恵子の言葉には、美代もしぶしぶと頷くしかなかった。

「それとなくアンテナを張ってみるね」みのりが言った。「とりあえず、帰りましょうか。朝ご飯、まだなのよ。うちではごみの苦情じゃなくて、朝ご飯まだか、の苦情が出そう」

 三人は笑いながら同じ方向へと歩き出した。

 歩きながら、美代はふと思う。

 自分は何か勘違いをしているんじゃないか――と。

 みのりと佐恵子が別の話題で盛り上がり始めたが、その会話は美代の耳を通り過ぎるだけだった。


 幸太の部屋を出て一階に下りてきた瑛人が、「ゲームは休憩」と言いながらリビングのソファにふんぞり返った。そして、向かいのソファに座る美代を見るなり、「なーんか、変だよなあ」と付け加えた。

 テレビを見ていた美代は、リモコンでボリュームを下げ、「何が?」と問う。土曜日の朝のバラエティー番組はちょうどCMに入ったところだった。

「確かにごみ屋敷のごみは撤去されたけど、それにしたって、君はあまりにも無関心な様子だから……それが気になってね」

 CMの映像に目を向けながら、瑛人は答えた。

「肩の力を抜いてもいいと思う、って言ったのは、あなたのほうじゃない?」

 美代はリモコンでテレビの電源を切り、瑛人を睨んだ。テレビを点けたのは美代なのだからその本人が切っても問題はなさそうだが、テーブルにリモコンを置く際に少々音を立ててしまい、自分がやけになっている、と悟る。さりげなく躱すのであれば、むしろテレビは点けたままのほうがよかっただろう。

 さすがに美代のそんな態度が露骨だったのか、瑛人は眉を寄せている。

「それはそうだけど、陣内さんが病院に搬送されたんだよ。話題にしてもよさそうなのに、君はむしろ避けているような、そんな気がする」

 瑛人の前では避けているが、みのりや佐恵子ばかりではなく文江ともそんな話題でやりとりをしたばかりなのだ。当然だが、そんなやり取りがあったことは、瑛人には伝えていない。二重生活をしているようで気が滅入りそうだった。

「調査はほどほどにするんだから……というか、ずっとごみ屋敷のことばっかりだったから、少しは違うことに集中したいの」

「違うことって?」

「これから考える」

 よくない方向に話が流れつつあった。頭を冷やすためにも、まずはソファから腰を上げる。

「幸太は、まだゲームをしているの?」

 幸太は美代がごみ出しをしてから今まで、二階の自室にこもりきりだ。もっとも、やり始めてそれほど経過していないはずである。

「やり始めて三十分ちょっとだよ」

 考えたそばから告げられたが、美代は憤りをこらえた。ゆえに、瑛人がたかだか三十分で休憩したことには、ふれないでおく。

「ちょっと出かけるね」

 美代が言うと、瑛人は顔色を変えた。

「ちょっと……って、どこに?」

「家出じゃないわよ。恵理さんに会ってくるの。忘れていた用件を、思い出したの」

「電話とかで済むんじゃないの?」

「留守番よろしくね」

 瑛人の言葉に答えず、美代は玄関の鍵がジーンズのポケットにあるのを確認すると、スマートフォンだけを手にして家を出た。

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