第三章 ⑥

 木曜日。

 明け方から降っていた小雨は、家を出る直前に上がった。日中は晴れる、という予報であり、瑛人も幸太も傘を持参しなかった。公園に集まった子供たちも主婦たちも皆、傘を持っていない。今は曇りだが、間もなく日が差すだろう。

 ぬかるみを避けながらはしゃぐ子供たち――そんな面々の中に、今朝も志穂の姿はなかった。当然ながら、智宏も来ていない。

 ゆうべは美代に「肩の力を抜いてもいいと思うよ」などと言ったが、瑛人はその言葉を自分自身に投げたかった。

 ふと、公園の外の歩道に立つ人物と目が合った。その者――若い女は、パンツスーツにショルダーバッグ、髪はショートレイヤー、という姿だった。

 ――朱實さん?

 歩道のほうへと行こうとした、その矢先に、幸太が走り寄ってきた。

「お父さん、きょうも帰りは遅いの?」

「え……ああ……」

 言葉を詰まらせつつ視線を歩道に戻すが、若い女の姿はなかった。

「ねえ、お父さん」

「あ、ああ……うん、なんだっけ?」

「あのね……きょうも帰りは遅いの、って訊いたんだよ」

「ああ、どうかなあ。仕事をしてみないとわからないなあ」

 急ぎの仕事は、確かにあるのだ。下手な約束はできない。

「そうかあ……たまにはゲームを一緒にやりたいなあ。お父さん、あのゲーム、まだ一度もやっていないじゃん」

「そうだったな」と苦笑してごまかした瑛人は、もう一度、歩道のほうを見るが、やはり先ほどの人影はなかった。


 まだ曇っているが、晴れることを期待して、美代は洗濯物を物干し竿に干した。続いて掃除をする予定なのだが、どうしても気になり、リビングへと向かう。

 テーブルからスマートフォンを取り、立ったまま画面を操作し、電話をかけた。

 相手は朱實だ――が、またしても、例のアナウンスが流れるだけだった。

 電話を諦め、メッセージを送信しようとするが、見れば、前回の二つのメッセージは未読である。

「なんなの……」

 つきたくないため息をつき、スマートフォンをスリープモードにした。

 電話着信音が鳴ったのは、そのときだった。

 期待して画面を見れば、瑛人からだった。

 通話モードにした美代は「どうしたの?」と尋ねた。

「今、駅のホームで電車を待っているんだけど……さっき、児童公園で、朱實さんらしき姿を見かけたんだ」

 瑛人の声の背後には喧騒があった。

「朱實さんが?」

「その人は、公園の外の歩道に立っていたんだ。朱實さんとは佐々木さんの家で会ったきりだから、実のところ彼女の顔はうろ覚えなんだけどね。でもさ、ほら……ゆうべ、君は朱實さんを気にしていたじゃないか」

「ええ、そうね」

 朱實の様子がおかしい、とは口にしなかったはずだが、やはり美代の心境はおのずと伝わっていたらしい。

「今朝も、朱實さんからの連絡はないの?」

 尋ねられて、美代は軽くため息を落とした。

「とういうか、今もこっちから電話してみたんだけど、繫がらなかったわ」

「そうなのか」

「それより、あなたが見かけたのは、本当に朱實さんなのかしら?」

「こっちを見ていたような気がするんだけど」

「もし本人だったら、あなたに声をかけるとか……あの場にいたんなら、うちに寄ってもいいんじゃない?」

「それもそうだな。ただ……朱實さんにしろ別の人にしろ、何か様子がおかしかった」

 様子がおかしい――という言葉に美代は胸のつかえを覚えた。

「様子がおかしい……って、どんなふうに?」

「公園の外に立っていたその人は、おれがちょっと目を逸らした間にいなくなってしまったんだよ」

「え?」

 またしても不可解な現象が起こった――ということなのだろうか。美代はすくみ上がりそうになるのをこらえた。

「おれが目を逸らしたほんの五、六秒の間にいなくなったんだ。公衆トイレとか木立とかがあるから、ダッシュすればそれらの陰に入っておれの視界から消えることも可能だけど、そんな行動を取ったとしたら、不自然だろう?」

「そうよね」

 瑛人を巻き込みたくないのだ。しかし、どのように対応すればよいのか、それがわからず、相づちを打つしかなかった。

「……こんな話、しないほうがよかったかな?」

 気まずそうな声だった。

「どうして?」

「おれの見かけた人が朱實さんなのか違う人なのかわからないのに、君の心配事を増やしてしまったみたいだから」

「そんなこと……」

 むしろ気にかけてくれている、と感じているのだ。ゆえに美代は、感謝はしても迷惑には思わなかった。

 電話の向こうで駅のアナウンスが流れた。

「電車が来たから、これで切るよ」

「うん、ありがとうね。行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 通話を切り、美代は立ったまま静かに目を閉じた。

 今はなすすべがない。こうして気持ちを落ち着けることしかできないのだ。

 ――そうだ、掃除をしなきゃ。

 そう思って目を開けるものの、まだ動き出すことはできなかった。


 苦しい胸のまま、朱實は街をさまよった。

 さまよっているうちに夜となり、行き交う人々の数は減った。

 だが、誰も朱實に目を向けはしなかった。

 孤独である、と悟った。

 これでいいのだ。孤独だからこそ誰にも邪魔をされない。邪魔をされなければ、少なくともあの人は自分のものとなる。孤独だからこそ、孤独ではなくなるのだ。

 ――あなたがほしい。

 朱實は瑛人の顔を思い浮かべた。

 瑛人を自分のものにすれば、この胸の苦しみから解放されるだろう。

 闇から闇へと紛れながら、朱實は街をさまよった。

 彼女の節義は、もう消えていた。


 金曜日は朝から快晴だった。

 瑛人と幸太が出かけると、美代はよそ行きに着替え、トートバッグを左肩にかけて玄関を出た。徒歩で西寄りの迂回路をたどり、佐々木アパートの前へと至る。

 アパートの前で立ち止まり、腕時計を見た。午前八時四十八分だった。

 階段を上がり、朱實の住戸の前に立った。電話もメッセージも入れていない。不意打ちである。

 インターホンを鳴らした。

 応答はない。

 だが、今回は粘らなかった。

 すぐに階段を降り、佐々木宅へと向かった。

 玄関のインターホンを鳴らすと、「はい」と節子の声がした。

「美代です」

「すぐ出る」

 そんな短いやりとりの直後に、節子がドアを開けて出てきた。服装は、一応、彼女なりのよそ行きである。

「今、朱實さんの部屋へ寄ってみたんですが、やっぱり留守でした」

「あら、行ったの?」

 わずかだがあきれているようだ。

「いませんでしたが」

 苦笑で返すしかなかった。

「じゃあ、行きましょう」

 節子に促されて、美代は「はい」と頷いた。

 ごみ屋敷の真北――草地へと至る細い道を二人は歩いた。陣内忠志が日常に使う、あの道だ。

 草地より数メートル手前で二人は立ち止まった。

 急な展開で日時の情報が伝わりきらなかったのか、平日だからなのか、そもそも興味がないのか、見物人の数は美代が予想したほどではなかった。この道の草地に接する辺りに主婦らしき高齢者が二人、市道沿いの歩道にはやや遠巻きに見ている中高年の男女が八人、である。だが、陣内宅の正面――こちらからは陰となる希望台側には、どれほどの見物人がいるのか、窺い知れない。

 おそらく、恵理もどこかでこの様子を見ているに違いないが、ここからでは把握できなかった。とはいえ、恵理と鉢合わせになれば余計な会話は避けられそうにないのだから、美代にとっては好ましい状況である。

 もう誰も巻き込みたくはなかったが、行政代執行の期日を節子に知らせないわけにはいかなく、きのうの午後に電話でそれを伝えたところ、「見納めなんだし、一緒に見物しましょうよ」と誘われたのだ。恵理よりも節子を選んだことになるが、節子はごみ屋敷の過去に足を突っ込んだ仲間なのだから、致し方ないだろう。

 ヘルメットに作業服――という姿の者たちが十人以上はいた。少なくとも一人は若い女だが、彼女はクリップボードを手にしており、それに閉じられた書類を見ながら男たちに指示を出している。草地の東寄りに停まっている数台の車のうち一台は、ごみ収集車だ。

 陣内忠志の姿は見えなかった。家の中にいるのか、不在なのか、今のところはわからない。だが、裏の勝手口は開いていた。

 家屋の周囲にうずたかく積まれた黒いごみ袋、そして廃品などの数々――節子の言うように、これらは見納めとなるのだ。そうであってほしい、と美代は思った。

「もうすぐ始まるようね」

 先客である二人の主婦の後ろでごみ屋敷の様子を窺いながら、節子は言った。

「はい」と答えた美代が腕時計を見れば、午前九時を五分ほど過ぎていた。

「ときどき市の職員が訪問していたらしいんだけど、あなた、見たことある?」

 美代たちの前に立っている主婦の一方が、もう一人の主婦に声をかけた。

「半年くらい前に、一回だけ見たわよ」もう一人の主婦が答えた。「好き好んでここに近寄る人なんていないだろうから、職員の姿を見かけた人もあんまりいないんじゃないかな。なんにせよ、市の職員も、何度も何度も訪問するなんて大変ね。でもまあ、うちら四丁目の自治会には、このごみ屋敷の話はあんまり入ってこないよね」

「そうなんだけどさ……最初は、ここ三丁目の自治会が市に苦情を訴えたらしいの。それが元で行政代執行が制定されたんだけど……そのあとは、希望台の住人が何度も何度もこのごみ屋敷を訴え続けていたんだって。それで職員がごみ屋敷をたびたび訪問することになったんだとか」

 美代と節子は顔を見合わせた。意外である、という思いを美代が表情で訴えると、節子も同じ思いらしく、無言で頷いた。そして美代と節子は、前の二人の会話に耳を傾ける。

「なんでそんなことを知っているの?」

「市役所に勤めている甥っ子に聞いたの」

「そうなんだ」

「あとね、家の中だけはきれいだっていうのも聞いちゃった」

「へえ。日常生活に支障がないようにしていたのかしらね」

「家の外がごみだらけだから、中もにおっていたらしいけど」

「でしょうねえ」

「でもね、希望台の住人が訴えたっていうことは、内緒なの」

「内緒?」

「うん。希望台のその人は、自分が訴えていることを公にしないでくれって。だから、誰にも言わないでね」

 ほんのわずかだが、声のボリュームが下げられた。もっとも、美代の耳には難なく届いている。

 それよりも――訴えた個人が望まなくともそのプライバシーが保護されるのは当然である。にもかかわらず、たとえ相手が親戚とはいえ、市民の訴えた内容を漏らしてしまう職員がこの自治体にいるなど、美代は頭を抱えたかった。恵理に太鼓判を押した手前、自責の念さえ感じてしまう。

「もちろん他言はしないわよ」

 もう一人の主婦も声のボリュームを下げた。

「訴え続けていたのは希望台の人だった、ていうのを、佐々木さん、知っていました?」

 前の二人に聞こえないよう、美代は前の二人よりもさらに声を小さくした。

「いいえ」節子も声を抑えた。「だって、訴え続けていた人がいた、っていう話自体、この前、美代さんから聞いたばかりだし」

 無論、尋ねるまでもなかったわけだ。

 問題は、希望台の誰が自治体に苦情を訴え続けていたのかだ。二年前の陣内宅への訪問が成果を上げられなかった結果に業を煮やした誰か、なのだろうか。

 美代の脳裏に浮かんだのは、恵理だった。しかし恵理は、個人で訴えるというすべを美代から聞いて得心したのだ。ましてその恵理が、誰かが訴え続けていた、と美代に伝えたのである。

 ならば、誰なのか――。

 希望台で相田家の者以外に陣内宅のごみによる被害を受けている家庭を、美代は知らない。相田宅に隣接する家ならば同程度の被害を受けていてもおかしくはなさそうだが、恵理やほかの主婦仲間の談によれば、それはないという。

「始まるみたいよ」

 節子が美代の耳元でささやいた。

 見れば、職員たちが動き出したところだった。

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