第三章 ⑤
着替えなどしている暇はなかった。スマートフォンと財布をトートバッグに入れ、それをSUVの助手席にほうり込む。そして美代は、SUVを発進させた。
希望台の東出入口から出て都道を北上し、ショッピングモールのほうから南下して佐々木アパート前に至る、という意図だった。ごみ屋敷を避けるというより、狭い道を避けたかったのである。相田宅の前とごみ屋敷の横を通る、という道筋を自分の足で走るのと時間的には大差がなさそうだが、朱實が救急車で病院へ搬送されることになった場合は、付き添いとして節子に救急車に乗ってもらい、美代がSUVであとからついていく、ということになるだろう。そうすれば、SUVを節子の帰りの足にすることができる。
予定どおりに、都道からショッピングモール、そして佐々木アパートに至る道へと、美代はSUVを走らせた。
南下するSUVの前方――右寄りに、見知った女の後ろ姿があった。買い物バッグを右肩にかけ、早足で歩いている。
美代はSUVを減速させ、女に並ぶ直前で運転席側のドアガラスを開けた。
「佐々木さん」
声をかけると、その女――佐々木節子は立ち止まった。
合わせて美代もSUVを停止させる。
「美代さん」
節子は美代に顔を向けた。
「乗ってください」
佐々木宅まであと百メートルほどだが、二人そろって一秒でも早く朱實の住戸へと着くには、これが最善の手段だ。
「じゃあ、後ろで」
助手席側に回り込む時間も惜しいのか、節子は右側のリアドアに視線を移した。
美代は助手席のトートバッグを後部座席の床に移動させようとして左手を伸ばしていたが、すぐにその手を戻した。
「ロックは解除してあります」
美代が伝えると、節子はすぐに後部座席に乗り込んだ。
「うちの駐車場に停めて」
シートベルトをかけながら、節子は告げた。
「はい」と答えて、美代はSUVを発進させた。
インターホンを鳴らしても返事がないため、美代はドアをノックした。
「朱實さん、いるの? わたしよ……美代よ」
左手でノックを繰り返すうちに、左肩にかけているトートバッグがずれ落ちて膝に引っかかり、それが余計に美代を焦らせた。トートバッグを肩にかけ直し、念のためにドアノブに右手をかけるが、やはり施錠されていた。
「美代さん」
節子が二階の通路に上がってきた。彼女はアパートの合鍵を取ってくるために、自宅に寄ってきたのだ。
「呼んでも返事がありません。お願いします」
「ええ」と頷いた節子は、美代に変わってドアの前に立ち、ズボンのポケットから一本の鍵を取り出した。
鼓動の激しさをそのままに、美代は黙してドアの解錠を待った。
ドアを解錠した節子は、鍵をズボンのポケットに押し入れ、すぐにドアを開けた。
節子に続いて玄関に入った美代は、緊急の場合の出入りに備えて、ドアを閉じずにおいた。ガス漏れなどの懸念もドアを開けたままにした理由であるが、今のところ、においは感じない。
二人は靴を脱いで奥へと向かった。
「大園さん、佐々木よ」
節子が呼んだが、返事はなかった。
美代は節子とともに居間と寝室とを見るが、無人の状態だった。
二人は風呂場やトイレ、台所、押し入れの中も確認した。しかし、そのいずれにも住人の姿を見つけることはできなかった。乱れた様子も確認できない。
美代と節子は、居間で立ち尽くしてしまう。
「どこかに出かけているのかな?」
居間を見回しつつ、節子がつぶやいた。
美代も居間に目を走らせた。そして言葉を返す。
「きのうの朝に出勤してから戻っていないのか、今朝、出かけてそれっきりなのか」
「それにしたって、連絡が取れないなんて」
そう返されて、美代はトートバッグからスマートフォンを取り出した。
「念のため、もう一度、朱實さんのスマホに電話してみます」
しかし、またしてもアナウンスが流れただけだった。
首を横に振り、美代はスマートフォンをトートバッグに入れた。
「電話が繫がりません」
「何があったんだろうね……どうしちゃったんだろう……」
言って節子は、途方に暮れたような表情を呈した。
「警察に届けたほうがいいんでしょうか?」
美代が問うと、節子は眉を寄せた。
「連絡が取れなくなったのはきのうの夜辺りから、ということでしょう? まだ一日も経っていないし、部屋を見る限り、事件性はなさそうよ」
「確かに、急用ということで職場には連絡が届いていましたけど……じゃあ、いったいどこにいるのか……」
「あっ」節子が目を見開いた。「急用ができた……って、もしかして実家に行っているんじゃない?」
朱實の実家は埼玉県の北部とはいえ、電波が届かないとは考えにくい。もっとも、電源を切られてしまえば、通話ができないのは当然である。
「朱實さんの実家には連絡できるんですか?」
「大園さんの実家の電話番号ならノートに書いてあるから、家に戻ればわかるけど……まさか、大園さんの実家に電話するの?」
問い返されて、美代は肩をすくめる。
「え、ええ……いけませんか?」
「もし大園さんがそこにいなかったら、あの子のご両親に心配をかけることになるわ」
「でも、行方がわからないのは事実だし」
「もう少し、待ってみたほうがいいわよ」
そして二人は、とりあえず玄関の外に出た。
美代のスマートフォンの電話着信音が鳴ったのは、節子が玄関の鍵をかけた、そのときだった。
トートバッグからスマートフォンを取り、画面を確認すれば、朱實からだった。
「朱實さんからです」
美代が伝えると、節子は期待と不安の入り交じった表情で「え……」と声を漏らした。
「朱實さん?」
通話モードにするなり、美代は問いかけた。
「はい、わたしです」
確かに朱實の声だが、少々疲れている様子だ。
「どこにいるの? ゆうべから連絡が取れなくて、わたしも佐々木さんも、心配しているのよ」
「すみませんでした。都内で一人暮らしをしている大学時代からの友達が倒れたので、マンションの……その人の部屋で看病しているところです。きのうの夜、わたしと電話している最中に様子がおかしくなったので、タクシーを使ってその人の部屋に駆けつけました。その人は自分では電話もかけられない状態だったので、わたしが救急車を呼んで、一緒に病院へ行って、今朝になって、その人の部屋に戻ったんです」
なんとなく、抑揚が感じられなかった。それよりも、確認しなければならないことがいくつもある。
「お友達の具合は、どうなの?」
「だいぶよくなりました」
「その人って、男の人?」
「もちろん、女性です」
笑いが混じってもよさそうな内容だが、朱實は機械的に語った。
「わたし、朱實さんのスマホに何度も電話したんだけど、どうして繫がらなかったの?」
「スマホの調子が悪いんです。勝手に電源が切れちゃったり、インターネットが繫がらなくなったり、音が出なくなったり」
「でも……どうにかして連絡くらいはできたでしょう?」
美代は自分自身の声に棘を感じた。
「友達が搬送されるときは一緒に救急車に乗って、病院でもずっと付き添って、容体が落ち着いたら一緒にタクシーでマンションへ戻って……スマホの調子が悪いだけではなく、手も空かなかったんです」
意に反し、朱實の声は落ち着いていた。
「職場への連絡はどうやって?」
「たまたまスマホが使える状態になりました」
もっともな答えに思えるが、美代には反駁があった。
「じゃあ、そのときにわたしにも連絡できたんじゃない?」
「でも、すぐにスマホがおかしくなって」
「友達のスマホを借りるとか、できたでしょう。もしくは、そのお部屋に固定電話ってないの? 病院だって公衆電話くらいはありそうだけど……どこの病院なの?」
質問が多すぎた。節子が困惑の表情で美代を見つめている。
「本当に手が空かなかったんです。友達の部屋に固定電話はありますよ。それで救急車を呼びましたし。友達が搬送された病院は――」
朱實の言葉の途中で電話は切れてしまった。
「切れてしまいました」
美代は言うと、スマートフォンをトートバッグに入れた。
「切れちゃったの?」と節子は不安そうに訊いた。
「スマホの調子が悪いそうで……」
深呼吸をし、気持ちを落ち着けたところで、美代は通話の概要を節子に伝えた。
「そういうことだったのね。とりあえずは、安心したわ。勝手に部屋に入っちゃったこと、あとでわたしから謝っておくわね」
節子は安堵の色を浮かべるが、美代はどうにも腑に落ちなかった。それを顔に出さないように注意しつつ、話を合わせる。
「わたしも、たたみかけたことも合わせて、朱實さんに謝っておきます。でも、状況が状況だし、わたしたちが部屋に入ったからといって、彼女が怒ることはないと思いますよ」
むしろ、憤っているのは美代なのだ。
否――この程度の憤りなど、どうでもよい。問題は、心の底に滞留する違和感である。
――何かがおかしい。
ここから先は、節子も瑛人も巻き込まないほうがよいのでは――そう思えてならなかった。
「回覧板、とりあえず、お隣に回しておくわ」
言って節子は、ポストの口からはみ出している回覧板を、そっと抜き取った。
逆の道順でSUVを走らせた美代は、帰宅して一息つく間もなく、スマートフォンの電話着信音で緊張させられた。リビングで立ったまま画面を見れば、恵理からだった。
「先ほどはお邪魔しました」
通話モードにして、美代は切り出した。
「こちらこそありがとうね」恵理は言った。「でね、あのあと市の職員がうちに寄ったの。陣内さんがまったく聞く耳を持たないんだとかで、二日後……金曜日にごみ屋敷のごみを強制撤去することになった、って伝えてくれたわ」
「そうなんですね、よかった」
心からの言葉だった。奔走した甲斐があった、と思えた。
「朝の九時頃から始めるんだって。都合がよければ、見物に来て」
すがすがしそうな言葉だが、美代は現実に引き戻されてしまう。
ごみ屋敷の謎がまだ解明されていないのだ。ゆえに、また何か――過去の事件のような悲劇が起きるのではないか、と勘ぐってしまう。
「ええ、時間があれば、見に行きます」
そして簡単なやりとりがあって、通話は終わった。
瑛人はこの日も残業だった。就寝直前の幸太に声をかけて入浴を済ませた彼は、一人きりの夕食を取ったあとに、リビングのソファにて、食後のホットミルクを飲んでいた。
美代はそんな瑛人の向かいに腰を下ろし、きょうの出来事をひととおり、いつものように伝えた。もっとも、朱實との連絡がつきにくかったことは口にしても、彼女の様子がおかしい、と感じたことは伝えなかった。そして、このあとのことは一人でやろう、という気概も絶対に見せないつもりだった。
「そうか……いろいろとあったんだな。それにしても、行政代執行がされることになって、本当によかったよ」
瑛人は言うと、飲みかけのカップをテーブルに置いた。
「そうね」
言葉に偽りはないが、不覚にもトーンを下げてしまった。
「どうした?」
瑛人はそれを見逃すほど鈍感ではない、ということだ。
「……なんでもない」
またしても美代は失態を演じた。これでは、問題がある、と言っているようなものだ。
「ごみ屋敷の調査が暗礁に乗り上げているから?」
「ええ……まあ」
美代はうつむき、テーブルを見つめた。
「ごみ屋敷の苦情を訴え続けていたのが誰なのかわからない、っていのもあるのか?」
重ねて問われて、美代は「それもあるかもね」と答えた。投げやりな答えようだが、内容的には事実だ。
「ごみの強制撤去がされるだけじゃなく、音信不通だった朱實さんとの連絡も取れたし、とりあえずは肩の力を抜いてもいいと思うよ」
「うん。ごみ屋敷の過去を調べるのも、ほどほどにするわ」
ほどほど――と曖昧さを強調した。こう言っておけば、「まだ調べているのか?」と瑛人に突っ込まれても、「ほどほどにやっている」と言い逃れができるだろう。しばらくは誰も巻き込まずにこっそりと一人で調べたい――そのための予防措置なのだ。
「何かあったようだけど」
食らいつかれて、美代は辟易とした。
「だから、ごみ屋敷の調査が暗礁に乗り上げている……それだけよ」
「ふーん」
釈然としない表情で、瑛人はうなった。
取り繕うにもこれ以上の釈明は墓穴を掘る可能性があり、美代は言葉を紡ぐのをためらった。
数秒の沈黙があり、瑛人が口を開く。
「まあ、ごみ屋敷の調査は置いておくにしても、相田さんの奥さんと志穂ちゃんが心配だな。特に志穂ちゃんはさ」
本来ならば、一番に憂慮しなければならないのは、それなのだ。しかし美代の心に引っかかっているのは、何よりも朱實のあの様子だった。
「ごみが強制撤去されたら、具合がよくなる……かもしれない」
断言できなかった。そんな自分を、美代は情けなく思う。
「きっと、よくなるさ」
瑛人の言葉に美代は「うん」と頷いた。
頷いたその気持ちは、本物だった。
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