第三章 ④
酒出が利用しているのは一階の四人部屋だった。和子とともにその部屋まで付き添った美代は、酒出の疲れた様子を看過できなかった。ほかの三人の同室者が不在にもかかわらず、美代が「わたしはおいとましようと思いますが……」と和子に訴えたのはそのためだった。同じ気持ちだったらしく、和子も辞去する旨を呈した。ベッドの上で眠りについた酒出を中年の男性職員に託し、二人は早々に施設をあとにしたのだった。
「役に立てなくてごめんなさい」と何度も詫びを入れる和子を都道沿いの彼女の自宅までなだめながら送った美代は、帰宅せずにそのままSUVでショッピングモールの露天大駐車場へと至った。駐車場はそれなりに混んでいたが、空きスペースは容易に見つかり、すぐに駐車することができた。
SUVから降りてトートバッグを左肩にかけた美代は、歩き出すなり、相田母娘の容体を訊くのを忘れていたことに気づいた。症状によっては菓子類を見舞いの品にするのが迷惑になる場合もある。
――アレンジメントが無難かな?
そう思いつく間もなく、別の不手際が脳裏に浮かんだ。酒出哲夫との面会に手ぶらで行ってしまったことである。
店舗出入り口に向かいながら、美代はため息をついた。この際は、志穂のお見舞いと合わせて和子へも手土産を見繕うべきだろう。
埋め合わせを思いついたら、あとは前向きに考えるだけだ。酒出の様子の急変で狼狽したばかりか、そのほかの失態に気づくありさまで肝心なことから意識が離れていたが、それが何かを思い出し、駐車場の中の歩道で足を止めた。
「悪いのは中森一郎……?」
全部事項証明書に記載されていた名前を酒出は確かに口にした。自ら口にしたのだから、間違いなく酒出の記憶に残っているのだ。しかし、なぜ「悪い」のか。
もう一つの疑念があった。中森一郎の名を口にする直前に、酒出は「星野さんが悪いんじゃない」と言っていた。この「星野」に該当するのが星野峰子なのか星野望なのか判然としないが、殺人事件の犯人と被害者――という見方からすれば、おそらくは峰子のほうなのだろう。しかも、それに加えて「悪いのは、中森一郎だ」と告げていたのだ。
考えがまとまらないまま、美代は店舗出入り口に向かって歩き出した。
ショッピングモールにて、和子へのお礼には菓子折を、相田母娘の見舞いにはアレンジメントを、それぞれ購入した美代は、まずは酒出宅に寄った。そして、玄関先で遠慮する和子に、半ば強引に菓子折を押しつけ、SUVに飛び乗った。また世話になるかもしれないのだから、この程度の気配りはあってもよいだろう。
美代はSUVを発進させたものの、交通量が多いために都道でのUターンを断念し、酒出宅前からショッピングモールの大駐車場へと至りそこで向きを変える、という道順を取った。
次は相田宅を訪ねるわけだが、自宅に着いてから徒歩で出直す、というのもおっくうに思え、SUVを北側から希望台へと進入させることにした。
コンビニエンスストアのある交差点から市道を西へと向かい、沈黙を守るごみ屋敷を一瞥しつつ、ハンドルを左へと切った。ごみ屋敷からの威圧感はぬぐえないが、それを無視しつつ、SUVを道の左に寄せた。相田宅の向かいの空き地寄りである。
見れば、相田宅のカーポートに黒いミニバンがあった。それでも留守の可能性はあるが、少なくとも車では出かけていないということだ。
エンジンを切った美代は運転席から降りると、助手席に手を伸ばしてトートバッグとアレンジメントを取った。トートバッグを左肩にかけ、アレンジメントを右手に持ってドアを閉じる。
相田宅に正面を向けるなり、なぜか鼓動の高まりを感じた。
深呼吸をした美代は、道を横切って相田宅の門をくぐり、インターホンのボタンを押した。
「はい」といつものごとく恵理の声がした。
「美代です。こんにちは」
「待ってて、今、出るから」
返事があって三十秒ほどが経ち、玄関ドアが開いた。
サンダルを突っかけて出てきた普段着姿の恵理は、どことなくやつれ気味だった。
「恵理さんも志穂ちゃんも具合が悪い、って聞いたんで、様子を見に寄りました」
「あら、耳に届いちゃったんだね」
ドアを開けたまま苦笑した恵理は、けだるそうな趣である。
「うちの主人から聞いた……というか、又聞きなんですが」
美代が打ち明けると、恵理は苦笑したまま肩をすくめた。
「うちの旦那、ね?」
「はい」
美代も苦笑した。
「とにかく、中に入って」
「いえ、すぐに帰らないと」
そう返した美代は、自分の足であるSUVを一瞥した。すぐに帰る、という意思表示である。病人に面倒をかけるわけにはいかない。
「ああ……そうなんだ」
残念そうな表情だが、それが本音かどうかは美代にはわからない。
「これ、お見舞いです」
美代はアレンジメントを両手で差し出した。
「まあ、きれいね」
「お菓子とかも考えたんですが、お二人の容体がわからなくて、口に入れるものはよしたほうがいいのかな、って」
「気を遣わせちゃったわね。ありがたくいただくね。どうもありがとう」
アレンジメントを受け取りながら、恵理は言った。
「それで……恵理さんと志穂ちゃんの具合は、どうなんです?」
いつまでも病人を玄関先に立たせておくわけにもいかず、美代は切り出した。
「あたしは、軽い頭痛とか吐き気とか、そんな程度なんだけど……志穂は、一人では起きられないという状態ね」
恵理の状態は、さすがに美代でも一目でわかったほどだ。とはいえ、志穂の様子までこの目で確認するわけにはいかない。
「そうでしたか。病院には行ったんですか?」
「ええ。志穂を診てもらうのが第一なんだけど、念のため、あたしも診てもらったわ。でも、お医者さんが言うには、二人とも精神的なものだろう、って。ごみ屋敷が気になっている、という話を先にしちゃったから、診察の結果はそのせいもあったのかな。一応、薬は処方してもらったけど」
「精神的なもの……」
その程度の原因なのだろうか――得心はいかないが、医療の分野に見識のない美代は、意見を控えた。それよりも、恵理のつらそうな表情を見るのが心苦しかった。早々に辞去すべきだろう。
「じゃあ、わたしはそろそろ――」
「美代ちゃん」恵理は美代の言葉にかぶせた。「そっちから来たんでしょう?」
ごみ屋敷のほうに顔を向けて問う恵理は、SUVの向きでそうと悟ったらしい。
「はい」
美代が答えると、恵理は視線をこちらに戻した。
「見た?」
質問の意味がわからず、「え?」と美代は返した。
「今ね、ごみ屋敷に市の職員が来ているのよ」
「そうなんですか? 気づきませんでした」
少なくとも、市道からは人の姿は見えなかった。
「市役所から、きょうは最後の説得がある、ってさっき電話があったの。……うちの二階からだと、ごみ屋敷の東側の空き地が見えるんだけど、まだ、市の車がそこに止まっているわ。ここからでも……もうちょっとそっち……庭のほうへ行けば、見えると思う」
言われて美代は、玄関先からやや北――相田宅の庭先のほうに数歩、移動した。
庭木や街路樹が遮蔽物となって見えにくいが、確かに、草地の東の端に一台の白い軽自動車が停まっている。
「職員は二人、来ているみたいだね。……停まっている車、ここからでも結構見えづらいでしょう。今まで何度も来ていたらしいけど、あたしが気づかなくて当然かもね」
美代の隣に立って、恵理は言った。
「あの家の中で話しているんでしょうか?」
人の姿が確認できず、美代は尋ねた。
「職員は二人ともごみ屋敷の裏のほうに行ったわよ。あの家って、玄関がごみの山で使えなくて、裏の勝手口が玄関代わりなんだって。そこで話しているのかもしれない。あの家の勝手口が玄関代わり……だなんて、美代ちゃんは知っていた?」
無論、とぼけるしかない。美代は「初めて知りました」と答えた。
「とにかく」恵理は言った。「このあとで、あの二人の職員がうちに寄るか、担当者から電話が来るか、どっちかなんだけど、話の結果は教えてもらえることになっているの」
「本人が納得したうえで自主的にごみを片づけてくれるといいですね」
「むしろ、行政代執行をしてくれたほうがいいわよ」
思いも寄らない言葉を受けて、美代は恵理の顔を見た。
「そうなんですか?」
「だって、本人にやらせて手抜きされるより、絶対にいいもの」
恵理はごみ屋敷を睨んだままだった。
話も尽き、職員の姿を目にできないまま、美代は恵理に見送られてSUVの運転席に着いた。
SUVを発進させようとしたとき、遠くで男の怒鳴り声が聞こえた。
見れば、門の外に立つ恵理が、ごみ屋敷に顔を向けている。
美代が運転席側のドアガラスを下ろすなり、恵理は「気にしないで。また反抗しているみたいよ。これは行政代執行、間違いないね」と言った。
「そうみたいですね」
勝ち誇るかのような恵理の顔を尻目に、「それじゃ」と声をかけて美代はSUVを発進させた。
普段着に着替えた美代は、自宅のリビングでソファに腰を下ろし、テーブルの上のスマートフォンを見つめていた。
頭の中を整理したいが、そうしようとするたびに、疲れがそれを妨げてしまう。
酒出哲夫の言葉、陣内宅への市役所職員の訪問、相田母娘の体調不良――何から考えなければならないのか、優先順位さえつけられず、ため息をつきそうになったところで、不意に思い出し、スマートフォンを取った。
まずは朱實のスマートフォンにかけるが、電話が繫がった――と思いきや、前回と同じアナウンスが流れただけだった。続いて朱實の固定電話にもかけるが、これも前回と同じく、留守電モードになってえしまう。伝言を入れずに、美代は次の連絡先に電話をかけた。
かけた先は節子の自宅の固定電話だ。しかし、いくら呼び出しを鳴らしても一向に電話に出ない。節子宛ての電話は常に固定電話にかけていたが、今回ばかりはスマートフォンにかけ直した。
「美代さん、こんにちは」
節子が電話に出るなり言った。
「こんにちは」
そして尋ねてみれば、買い物のために家を出て、ショッピングモールに着いたばかりだという。
「で、施設のほうは、どうだった? 酒出さんのご主人に会えたんでしょう?」
美代が肝心な話を切り出す前に、節子はそうせかした。
「ああ……ええ」
「五十一年よりも前のことは、覚えていた?」
矢継ぎ早の問いただしに、美代は言葉を詰まらせてしまう。
「え……ああ、いや、あの……」
「もしもし……美代さん、どうしちゃったの?」
じれた様子で、節子は切り返した。
「はい、すみません」とりあえず、詫びを入れた。「やっぱり覚えていませんでした」
正直な報告をしなかった理由は、自分でもわからなかった。それだけではない。何もかもがわからない――というより、情報が何も整理できていないのだ。ゆえに、自分の耳でとらえた「悪いのは、中森一郎だ」という短い言葉さえも、節子に伝えるのを躊躇したのである。
「そうなの……」
落胆の声がスマートフォンから聞こえた。
しかし美代は、これを「本題を切り出す契機」にしようと判断する。
「ところで……佐々木さん、ゆうべから朱實さんと連絡が取れないんです。何かご存じありませんか?」
「そういえば、ゆうべ、美代さんの調査の過程を伝えようと思って大園さんの固定電話に電話したんだけど、留守電になっちゃってね……あとで連絡ください、って入れておいたの。忙しいのかと思ってスマホにはかけなかったのよ。でも、向こうからはまだ何もないわね。きょうの夕方にでも電話をするか直接お部屋に伺おうか、と考えていたんだけど」
「今朝、朱實さんの職場に……就業時間になってから電話してみたんです。そうしたら、職場には今朝、朱實さんから電話があって、急用ができたから今週いっぱいは休むのだとか。そのすぐあとに朱實さんに電話したんですが……彼女のスマホも固定電話も、やっぱり繫がらなくて」
「あらやだ……どうしちゃったんだろう」
「佐々木さんなら何か知っているんじゃないかな、と思って電話したんです」
「てっきり普通にしていると思っていたんだけど……今もね、わたし、出かけるついでに朱實さんの部屋のポストに回覧板を入れてきたばかりなのよ。仕事に行っていると思って、すぐにその場をあとにしちゃったけど……もしかして、具合が悪くて寝込んでいるとか。でも、急用ができた、っていうのであれば、心配することはないのかなあ」
節子の言葉を受けて、美代は背筋に冷たいものを感じた。
「急用というのは口実で、何か起きているとしたら……わたし、今から朱實さんの部屋へ行ってみます」
美代はとっさに申し出た。具合が悪いのであれば、場合によっては救急車を呼ぶ事態になるかもしれない。
「じゃあ」節子は言った。「わたしも行くわ」
「いえ、佐々木さんは……」
「もし大園さんが意識不明の状態だったら、玄関をどうやって開けるの? おそらく鍵がかかっているんじゃない?」
「あ、そうか」
自分がいかに動転しているのか、美代は今にして悟った。
「アパートの合鍵は自宅にあるから、家に寄ってから行く」
「はい、わかりました。わたしもすぐに出かけます」
そして美代は通話を切り、ソファから立ち上がった。
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