第三章 ③

 翌日、水曜日の朝。

 いつもどおりに起床した美代は、スマートフォンでメッセージを確認したが、朱實からの返事はなく、昨夜に送ったメッセージにおいては未読のままだった。

 朝食が済み、瑛人と幸太が出かける準備をしている最中に、美代はスマートフォンで朱實に電話をかけてみた。しかし、「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか電源が入っていないためかかりません」という女性アナウンスが流れただけだった。朱實の固定電話にかけても、留守番電話になってしまう。念のため、「美代です。ゆうべのメッセージ、見てください」と留守番電話に入れ、スマートフォンにも同じ内容のメッセージを送っておいた。

 瑛人と幸太の二人を見送り、可燃ごみをごみ収集所に出した美代は、出かける準備を始めた。

 午前十時に車で酒出宅に寄り、和子を乗せて午前十時半には施設へと到着する――という予定だ。

 午前九時半を回った頃、ふと思い、美代は朱實の職場に電話をかけてみた。その電話番号は、万が一の連絡先として、前もって朱實から伝えられていたものだ。朱實の職場はすでに仕事が始まっている時間だ。私用での電話は心苦しいが、選択の余地はない。

 電話に出たのは女の声だった。相手の挨拶が済むのを待って、美代は口を開く。

「おはようございます。わたくし、野沢といいます。大園朱實さんは、いらっしゃいますか?」

 さらに、急用がある、という旨を伝えたが、電話口の相手は「あら」と声を漏らしたうえで、「大園は、先ほど本人から連絡がありまして、急用ができたため今週いっぱい休ませてほしい、とのことでした」と告げた。

「あの……きのうは出勤したんですか?」

「はい。いつもどおりに出社しました」

 電話口の相手は、朱實の一昨日の休暇についてはふれなかった。当然の対応だろう。

「そうでしたか」

 そつのない受け答えだが、美代は途方もない不安を覚えた。

「野沢さんでしたか?」

 尋ねられて美代は「はい」と答えた。

「野沢さんは大園とはどういったご関係ですか?」

 別の不安を催させる問いだった。何か事件でもあれば巻き込まれるのではないか、という懸念を抑えて、美代は「友人です」と言う。

「そうでしたか。でしたら、本人に連絡されたほうがよいかと」

「そうします。お忙しいところ、お手数をおかけしました」

「失礼いたします」という慇懃な言葉を受けて、美代は通話を切った。

 美代はすぐに朱實のスマートフォンに電話をかけるが、やはりアナウンスが流れるだけだった。続けて朱實の固定電話にもかけるが、こちらも先ほどと同じく留守番モードになってしまう。

 留守番電話にメッセージを入れず、通話を切った。

 不安は払拭できず、募る一方だった。


 美代がSUVで家を出たのは、午前九時五十六分だった。薄曇りだが晴れ間もある。予報によれば、雨の心配はないらしい。

 希望台の東側出入り口の感応式信号は青から赤になったばかりらしく、信号待ちは思いのほか時間を費やした。一分ほど経過してようやく青になり、美代はSUVを発進させ、ハンドルを左に切った。都道の交通量はやや多いが、流れは悪くなかった。

 角にコンビニエンスストアがある交差点を通過して間もなく、SUVを道路の左端に停車させた。酒出宅の前である。ハザードランプのスイッチを押してメーターパネルのデジタル時計を見れば、午前十時一分だった。一分とはいえ、遅刻である。

 メッセージ通知音が鳴った。

 美代は背後に手を伸ばし、後部座席の床に置いたトートバッグを取った。膝に載せたそれから、スマートフォンを取り出す。

 瑛人からのメッセージだった。

   *   *   *

 旗当番のお母さんから聞いたんだけど、志穂ちゃんはきょうも休みだってさ。当然だけど、志穂ちゃんのお父さんも集合場所には来なかったよ。

   *   *   *

 仮に志穂が登校していたとしても、相田宅には顔を出すつもりだった。施設訪問を済ませて和子を彼女の自宅に送ったら、ショッピングモールに寄って見舞いの品を買うのがよいかもしれない。

 スマートフォンを入れたトートバッグを後部座席の床に戻した美代は、助手席のドアガラスの外に目を向けた。和子が歩いてくるところだった。大きめのリュックを背負い、片手には紙バッグを提げている。

 美代は左手を伸ばして助手席のドアを開けた。

「こんにちは。荷物は後ろの席に載せてください。手伝います」

「こんにちは。荷物を載せるのは一人で大丈夫よ」

 そう返して、和子は左のリアドアを開け、二つの荷物を後部座席に載せた。

 助手席に落ち着いた和子が「お世話になります」と言いながらシートベルトを締めると、美代はSUVを発進させた。

「いつもこんなに荷物を持っていくんですか?」

 顔を正面に向けたまま、美代は尋ねた。

「洗濯は施設でやってくれるから着替えを持っていくことは少ないんだけど、そろそろ寒くなるから、冬物を持ってきたの」

 車で送ってもらえるために便乗した、という嫌いはあるが、それ自体は何もやましいことではない。むしろこの機会を活かしてもらえれば、こちらも気兼ねせずに済む。

「施設を利用しても、それなりに負担はあるんですね」

「でも、自宅で家族が介護するよりは、何百倍も楽よ。それに、息子夫婦が近くに住んでいるんだけど、その夫婦にも負担はかけたくないしね」

 要介護者の症状にもよるだろうが、概ね、在宅介護が家族に負担をかけないということはない。それは美代も承知していた。

「はい。だからこその施設……なんですよね」

 美代も瑛人も、ゆくゆくは介護サービスを利用することになるかもしれない。その時分に幸太が家庭を持っているか否か、それはわからないが、いずれにせよ、美代も自分の息子に負担をかけたくなかった。他人ごとではないのである。

 ため息をつきそうになるが、それをこらえて、美代はSUVを走らせた。


 隣接する市の街中に、その介護施設はあった。二階建てであり、規模は大きそうだ。

 駐車場で運転席から降りる直前に、美代は「荷物を持ちます」と和子に申し出たが、それを和子はかたくなに断った。自分で誘っておいて車で送ってもらった、ということに気後れがあるのかもしれない。もっとも、本人に確認したわけではなく、美代はそれについてふれるのを、当然だが控えた。

 面会の手続きを済ませた美代と和子は、中年の男性職員によって一階のデイルームに通され、隅に据えられたソファに並んで腰を下ろした。その職員は和子の夫を迎えに行くために、デイルームをあとにした。

 デイルームには十人ほどの入居者と三人の職員がいた。入居者のほとんどが高齢者であり、また職員はユニホームでそれとわかった。若い女性職員と談笑する女性入居者がいれば、テレビの前の椅子に座ったまま情報バラエティー番組を呆然と眺める男性入居者がおり、美代たちとは反対側のソファでくつろぐ入居者たちもいた。二人の女性職員と一人の男性職員は入居者たちと言葉を交わしつつも、室内に目を走らせており、異常がないかを把握しているらしい。

 入居者の半分ほどはその表情から痴呆症であると窺い知れるが、一見しただけではそうとは判別のできない者も多かった。いずれにせよ、独特の空気を覚えた美代は、和子を相手に世間話をするのも躊躇してしまう。和子も同じ心境なのか、口を開かない。

 自分の右に置いた二つの荷物を大事そうに支える和子を一瞥した美代は、なんとも所在なく、膝の上のトートバッグからスマートフォンを取り出した。確認するが、朱實からのメッセージはおろか、ほかのアプリの通知も何一つなかった。スマートフォンをバッグに入れ、沈黙を守る。

 五分ほどが経ち、美代たちをデイルームに案内した男性職員が、車椅子を押して戻ってきた。車椅子の背もたれに上半身を預けているのは、パジャマ姿の高齢の男性入居者だ。

 おもむろに立ち上がった和子が、荷物をそのままに、車椅子に歩み寄った。トートバッグを左肩にかけた美代も、和子に倣う。

「あなた、こんにちは。ちゃんと朝ご飯、食べたの?」

 声をかけつつ、和子はしゃがんで目線をその高齢者に合わせた。しかし、その人物は問いかけには答えず、力のない目で和子を見つめる。彼こそが、和子の夫、酒出哲夫だった。

「酒出さん、奥さんが、朝ご飯を食べたのか、って訊いていますよ」

 男性職員が、酒出の耳元でそう告げた。

「ああ……ご飯ね……食べたっけ?」

 緩慢な動作で酒出が男性職員に顔を向けた。

「残さずにちゃんと食べましたよ」答えて男性職員は、和子に顔を向けた。「自分は席を外しますので、どうぞ、ご主人とお話しください」

「ありがとうございます」

 和子がしゃがんだまま頭を下げると、男性職員は会釈を返し、さらに美代にも会釈をしたうえで、デイルームを出ていった。

 男性職員の背中に会釈をした美代は、和子の横に立った状態で、酒出を見た。はたして、この茫漠とした表情の男に半世紀も前の記憶が残っているのだろうか――。

「ねえ、あなた。こちら、野沢美代さん。希望台にお住まいの方よ。あなたに訊きたいことがあるんだって」

 和子は目だけを酒出に向けたまま、顔を美代に向けた。

「初めまして。野沢美代と申します。奥さんにはお世話になっています」

 認識してくれるか否かは問題ではない。礼儀として、美代は自己紹介をした。また、初見の翌日においての「奥さんにはお世話になっています」という言葉は、社交辞令ではあるが、ここまで同伴してくれた感謝の意でもある。

「ああ野沢さんかあ……久しぶりだね」

 酒出の目にわずかだか力が宿った。

「あらまあ、やっぱり若い女性だと元気が出るのね」

 あきれたように和子は肩をすくめるが、初対面の男に「久しぶりだね」と告げられて、美代は返す言葉がなかった。

「野沢さんは、うちの近所の昔について知りたいんだって」

 和子は酒出に言い募った。

「近所の昔?」

 首を傾げる酒出の顔を見れば、力を取り戻しつつあるように思えた目が、よどみ始めていた。

 美代もしゃがんで酒出と目線を合わせる。

「酒出さんの、若い頃って、ご自宅の辺りは、結構、賑やかだったんですよね?」

 ゆっくりと、かつ、適当に区切って、美代は尋ねた。

「賑やかだったねえ」

 細めた両目が、再度、力を宿した。

「うちの店にもたくさんのお客さんが来ていたよね」

 和子が合いの手を入れると、酒出は頷いた。

「そうだねえ。お得意さんとかも、いっぱいいたねえ」

「あ……」和子が美代を見た。「野沢さん、例のごみ屋敷のこと」

 促されたが、その話題を振るのにはまだ早いような気がした。もう少し和んでからのほうが得策に思えるが、記憶がよみがえっている今のほうが、むしろよいのかもしれない。

「ごみ屋敷……」

 和子の言葉を拾ったのだろう――酒出がつぶやいた。

「そう、ごみ屋敷です。星野さんというご家族が住んでいました」

 あえて、中森一郎の名は出さなかった。うろ覚えだとすれば適当に話を合わせる可能性がある。美代はそれを危惧したのだ。陣内忠志の名を出さなかったのは、できるだけ過去に意識を向けてほしかったためだった。

「星野さん……」

 酒出は目を細めて遠くを見た。

「いたよね、星野さんって。お母さんと娘さんの、二人暮らしで」

 和子のその言葉に酒出は考え込むように床の一点を見つめるが、床を見つめたまま、不意に目を大きく開いた。そして、「違う違う」とささやきつつ、小さく首を横に振った。

「あなた?」

 眉を寄せた和子が、自分の両手を酒出の左右の手に載せた。

「違うんだ!」

 酒出が叫んだ拍子に、和子は両手を離して尻餅を突いてしまった。

「奥さん、しっかり」

 美代もバランスを失いそうになるが、どうにかこらえ、和子の両肩を支えて彼女とともに立ち上がった。

「どうしました?」

 テレビの近くに立っていた若い男性職員が、早足に近寄ってきた。

「いえ、何か嫌なことでも思い出したようです。でも、大丈夫ですよ」

 答えて和子は、軽く息をついた。

 とりあえず問題はなさそうである、と判断し、美代は和子の肩から手を離した。

 あとの二人の職員も近づこうとしたが、若い男性職員から何やらジェスチャーを受け、双方とも動きを止めた。

「違うんだ……」

 声の調子は下がったが、酒出は繰り返した。

「酒出さん、もういいんですよ」

 いたたまれず、美代は言った。

「違うんだ……」

 酒出は小刻みに体を震わせていた。

「そろそろ部屋へ戻られたほうがいいのでは?」

 顔色を窺うように、若い男性職員は和子に訴えた。

「違うんだよ」震えながら、酒出は和子を見上げた。「星野さんが悪いんじゃない」

「え? 何?」

 和子が問い返した。

 無論、美代にも酒出の言葉の意味は理解できずにいた。

「悪いのは、中森一郎だ」

 見開いた目が、和子を見上げていた。

「なかもり……いちろう? 誰なの?」

 その名を和子は知らないのだ。しかし、酒出の記憶には残っている――。

「中森一郎だよ。あいつが悪いんだ」

 酒出の震えが徐々に大きくなった。

「奥さん、もうやめましょう」

 ここでの面会はこの夫婦にとってささやかな幸せに違いないのだ。それを自分の勝手で壊すわけにはいかない――美代はそう悟った。

「でも、美代さんがせっかく来てくれたのに」

 未練がましい様子もあらわに、和子は美代と酒出とを交互に見やった。

「大丈夫です」美代は凜として告げると、若い男性職員に顔を向けた。「酒出さんのご主人を、お願いします」

 若い男性職員は頷き、車椅子の手押しハンドルに両手をかけた。

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