第三章 ②
来た道を戻る形となってしまったが、足取りは思いのほか軽かった。
都道に突き当たり、歩道を北へと向かう。コンビニエンスストアからおよそ二百メートルほどの位置に、その家はあった。
三十年ほど前まで雑貨店だったという家は、その名残はあるものの、シャッターは降りたままであり、看板に至っては影も形もない。建物の北側に路地口があり、覗けば、その路地に玄関が面していた。
美代は路地に足を踏み入れ、玄関の前に立った。古めかしい引き戸の玄関である。
表札に「酒出」と記されているのを確認し、呼び鈴のボタンを押した。
十秒ほどの間を置いて「はーい」と玄関の中から女の声がした。
引き戸が開き、眼鏡に上下ともスウェットスーツ、という女が、サンダルを突っかけて姿を現した。見るからに先ほどの主婦――長谷川夫人よりも年かさである。
「突然にすみません。四丁目の
「はあ……長谷川さん……野沢さん……」
女は首を傾げた。
「あの……えっと」まずは確認しなければならない。「
「ええ、はい」と答えたものの、女――酒出和子は未だにきょとんとした表情である。
「実はわたし、団地の周りの街並みに興味があって、この一帯の昔のことを調べているんです。五十年以上前の様子を知りたいんですが、先ほど、四丁目の長谷川さんの奥さんから、二丁目の酒出さんならこの辺の昔のことを知っているかもしれない、と言われたんです」
「あらまあ、そうだったの。それにしても、四丁目の長谷川さん……って、誰だったかしらね?」
和子はまたしても首を傾げた。納得してもらえなければ話が進まない可能性がある。
「酒出さんが雑貨店をしていたころに、長谷川さんはよく買いに来ていたとか」
「あっ、そうか……四丁目の長谷川さんね」和子は目を見開いた。「そうそう、ご夫婦でよくいらしていたわ」
ならば本題に戻しても大丈夫だろう。
「その長谷川さんの奥さんとは先ほど知り合ったばかりなんですが、この辺の昔の様子を知っている方として酒出さんを教えていただいて」
「じゃあ、それを調べている途中で長谷川さんと会った、ということなのね?」
年の割には察しがよい。美代は「はい」と頷き、話を進める。
「希望台からショッピングモールまで歩いていくと、佐々木アパートの前を通るんですが、古い家が多くて、趣があるなあ……っていつも感じているんです」
あながちうそではないが、過剰な表現であるのは承知の上だ。
「でも、新しい家も建っているでしょう。この辺も少しずつ変わっていくのね。希望台がある一丁目は、空き地と古いアパートが何棟かあっただけだから、今のほうがいい感じだけど」
感慨深げに和子は言った。
希望台の昔の様子は、美代も耳にしたことがあった。自分の住んでいる土地の歴史に意識が向いていなかったことに、わずかながら羞恥を覚える。
「奥さんはいつ頃からこちらにお住まいなんですか?」
肝心な情報を先に知りたかった。場合によっては和子のみの聞き取りで済むかもしれない。
「結婚してからだから、かれこれ四十年、っていうところかしら」
「四十年……そうでしたか」
またしてもその時代には届かなかったが、美代は落胆を見せないように努めた。
「わたしじゃ五十年より前のことはわからないけど、うちの主人ならわかるかも」
「ご主人は古くからここにお住まいなんですか?」
「ええ、そうよ。ただ……」
和子はわずかに顔色を曇らせた。レンズの奥の目が、微妙にそれを伝えている。
黙して美代は、表情だけで話を促した。
「うちの主人、今ね、施設に入っているの。ちょっと、ぼけちゃって」
「そう……だったんですか」
言葉を選んで小さく頷き、動揺を抑えた。落胆した様子は表れなかったはずである。
「ただね、症状が出てからの出来事……新しい出来事は忘れがちなんだけど、昔のことは覚えているのよ。結婚した頃のことや、それよりも以前のこととか」
「え……」
ぬか喜びを恐れて、美代は口をつぐんだ。
「あした……主人と面会する予定なんだけど、もしよかったら、一緒にどうかしら? 昔のこと、聞けるかもしれないわよ」
「よろしいんですか?」
「かまわないわよ。むしろ、あなたのような若くてきれいな女性とお話ができれば、少しは主人のぼけもよくなるかもしれないし」
言って和子は失笑した。
一方の美代は苦笑するしかない。
「きれいだなんて」
「そういえば」恥じらう美代をよそに、和子は口を開いた。「希望台から佐々木アパートの前を通ってモールへ行くんなら、あのごみ屋敷の横も通るんでしょう? さぞ気持ちが悪いでしょうに」
思わぬ言葉を耳にして、美代は硬直する。
「どうしたの?」
和子は美代の顔を覗き込んだ。
「いえ……あ、はい、そうなんです、モールへ歩いていくには、あのごみ屋敷の横を通るんです。あのごみ屋敷、昔は普通の家だった、と小耳に挟みました。住人が何度か変わった、とも。ご主人なら、あの家の昔のことも、きっとおわかりなんでしょうね」
小耳に挟んだどころではないが、この流れは和子の主人との面会において、一番の目的に話を振るためのきっかけ、として好都合であるに違いない。
「知っていて当然よ。まあ、今のあの家がよほど気味が悪いんだか、ぼける前でも、うちの主人はあんまり口にしていなかったけど……そういえば、あの家では殺人事件があったわね。確か、星野さん親子……」
「はい。母親が娘を殺害して自殺した、という事件があったことは耳にしています」
もっとも、誰に聞いたかまでは告げるつもりはない。
「なんだか、わたしもあのごみ屋敷のこと、気になってきたわ。ねえ、あした、一緒に施設に行きましょうね。わたしもその話、聞いてみたい」
「え、ええ。ぜひ、ご一緒させてください」
絶好の機会である、と美代は認識した。同時に、得体の知れない胸騒ぎも覚えてしまう。
車を出す旨を美代が伝えると、和子は恐縮しつつも喜んで受け入れてくれた。昔は家業の都合で夫婦ともに車を運転していたが、現在は、和子の夫は要介護者なのだから運転など不可能なのは無論のこと、元気でいる和子も高齢者であることを意識して自動車運転免許証を返納した、という。
思い起こせば、朱實は運転免許証はあるものの、予算の都合と必要がないということで車は所有していなかった。佐々木節子に至っては、運転免許証を取得さえしていないらしい。公共交通機関が整っている地域であり、野沢家でも車の必要性を懸念してもおかしくはないだろう。この先、家計が苦しくなった場合は、考慮すべきかもしれない。
夫や息子がいること、専業主婦であることなど、自分の状況を伝えた美代は、スマートフォンの番号や固定電話の番号を交換し、あしたのスケジュールを取り交わすと、和子の夫が
彼女は孤独だった。孤独のままさまようほかに選択肢はなかった。
繁華街なのか住宅街なのか、どことも知れぬ闇の中を、重い足をどうにか前に進めていた。建物も街路樹も信号機も――そればかりか道さえも、存在するのかしないのか、状況がまったくわからない。
泥濘に足を取られているかのようだった。もっとも、見下ろしても自分の姿以外には何も目に入らず、固体なのか液体なのか気体なのか、自分の足にまとわりつくそれが何かさえ、知る由もないのだ。
今朝の出勤時の姿であるのは間違いなかった。会社に行って、仕事をした。それは事実だが、退社したあとの記憶がない。
姿の見えない誰かが、自分を呼んでいるのだった。姿が見えないだけではなく、声も聞こえないない。それでも、その誰かに導かれるまま歩いた。導いているのは、自分を大切にしてくれる人だ。
――誰なんだろう?
両親だろうか。彼らは実家で元気にしているはずだが、二人とも穏やかな性格であり、こんなに豪胆ではないはずだ。
一度だけ体の関係を持った恋人、だろうか。大学生時代の同級生だった彼とはとっくに縁が切れており、別れ際には「二度と顔も見たくない」と罵られたほどだ。
とはいえ、友人のうちの誰かでもなさそうであり、仕事仲間においては自分を大切にしてくれる者など一人もいない。
――ああ、あの人。
一人の人物が脳裏に浮かんだ。
――美代さん。
そう、美代は仲間である。だが、本当にこの自分を大切に思っているのだろうか。
不意に、自分を導く者が正面に姿を現した。暗闇の中で、彼の姿だけが鮮明だった。
「瑛人さん……」
つぶやいた彼女――朱實は、自分の胸の熱さに気づいた。
瑛人が朱實に向かってほほえんだ。
重い足でゆっくりと前に進む。
「瑛人さん、美代さんよりも、わたしを大切にして」
訴えながら、朱實は前に進んだ。
「怖いのは、もう嫌」
美代は恐怖を押しつけてくるが、瑛人は安らぎを与えてくれる。
「瑛人さん……」
彼の名を口のしたものの、もう一人の自分が足を止めようとしていた。
――美代さんを裏切れない。
その思いを声にしたかった。
――瑛人さんは、美代さんの夫。
しかし、歩みは止まらない。気持ちがどんなにあがこうとも、朱實は瑛人に近づいていく。
「わたしは……」口が勝手に動いていた。「わたしは瑛人さんを……」
――だめ、それ以上は!
ほほえむ瑛人が、目の前にいた。
「愛している」
言って朱實は、瑛人に両手を差し伸べた。
しかし瑛人は、ほほえみを朱實に向けたまま闇の中へと遠ざかってしまう。
「瑛人さん……」
朱實は瑛人に追いすがろうと、歩き続けた。
気づけば闇の中に瑛人の姿はなかった。
それでも朱實は、瑛人を求めて闇の中を歩いた。
「……で、佐々木さんに酒出さんのことを連絡したら、渡したいものがあるからうちに寄ってちょうだい、って言われて、帰宅する途中で佐々木さんのお宅に寄ったの」
そして美代は、節子に強制代執行の件と調査の過程を報告したこと、節子の自家製ぬか漬けをもらったこと、佐々木宅からは西寄りの路地を通って帰宅したことなどを、瑛人に伝えた。これは瑛人への報告をも兼ねている。無論、気配や威圧感などうやむやな感覚があったことは、瑛人にも節子にも話していない。
「やっぱりごみ屋敷の近くは通りたくなかったんだね?」
瑛人にそう尋ねられて、美代は肩をすくめた。
「それもあるけど、ほら……恵理さんに見られちゃうかもしれないでしょう」
「そうか」瑛人は苦笑した。「でも、佐々木さんがその雑貨店を忘れていたとはな」
「雑貨店があった当時、佐々木さんは小売市場を利用していたのよ。雑貨店の店先は何度も通っていたけど入ったことは一度もなかった、って言っていた」
「利用する機会がなかったんだから、そんなもんだろう。でもまあ、調査の収穫はあったし、佐々木さんからはおいしいぬか漬けをもらえた」
美代の向かいのソファでくつろぐ瑛人が、茶化すかのごとく肩をすくめた。三時間の残業で帰宅した彼はきょうも一人での夕食だったが、サイドメニューとして出したそのぬか漬けをことのほか気に入ったらしい。
美代ははっきりとわかるように口をとがらす。
「まあそうね。わたしが作ったぬか漬けより確実においしいわ」
「あのとき以来、君は作っていないもんなあ」
瑛人は笑った。結婚した当時に美代が意気込んでぬか漬けにチャレンジしたのだが、ぬか床をかき混ぜる回数が少なかったために酸味が強くなってしまったのだ。金輪際、ぬか漬けは作らない――美代はそのとき、瑛人にそう宣言したのである。
「ああ、そういえば」美代は思い出して言った。「いただいたぬか漬け、幸太も喜んで食べたのよ」
「へえ……幸太の舌って、意外と大人なんだな」
その幸太は早々に自室に入っており、この夜の瑛人は幸太の顔を見ることができなかった。すでに午後十一時を回っている。幸太は就寝したに違いなく、美代と瑛人もパジャマ姿であり、野沢家の消灯時間は間もなくだ。
「きょうはお疲れ様」
不意に、瑛人は言った。
虚を突かれて、美代は言葉を探してしまう。
「え……えっと、はい。あなたも、いつもお仕事ありがとう」
「どういたしまして」
こんな些細な言葉のやりとりが幸せの証しなのかもれない。美代はこのひとときを嚙み締めた。
とりあえず調査の報告は済ませた。「じゃあ、そろそろ」と言って美代が腰を上げかけたとき――。
「美代」
瑛人が美代を見た。
「なあに?」
「相田さんのお宅のことなんだけど」
浮かない様子の瑛人にそう振られて、美代は自分の意識がごみ屋敷の過去に偏っていたことを自覚した。
「やっぱり、相田さんのこと、頭から離れていたね?」
表情で見破られたようだ。こうなれば、認めないわけにはいかない。
「うん……反省しているよ」そして美代は尋ねる。「それで、今朝はどうだったの? 志穂ちゃん、来た?」
すなわち、幸太ともその話題にはふれていない、と認めたことになる。
「きょうも休みだったよ。相田さんの旦那さんはまっすぐに仕事に向かったそうで、それを、旗当番の子のお母さんがおれに知らせてくれた」
そして瑛人は、その主婦から聞いたという相田家の様子を語った。
「そうだったの……」
相田家の三人が不憫でならず、美代は声を落とした。
「あしたにでも様子を見に行ってあげるのが、いいんじゃないかな?」
思っていることを口にされてしまった。それでも美代は、顔に出すのを抑えた。
「そうね。施設から戻ったら、行ってみる」
答えて美代は、もう一つの事実に気づく。
うかつにも露骨に焦燥を呈してしまったらしい――それを目にしたに違いない瑛人が、不審そうに眉を寄せた。
「どうした?」
「朱實さんに連絡するのを、忘れていたの。でも時間が時間だし、電話をするのはあしたでもいいかもしれない。それに、佐々木さんからも朱實さんに伝えてくれる、っていうから……まあ、いいか」
「自己完結だなあ」
瑛人は苦笑した。
「だって、そうしたほうがいいでしょう?」
開き直っているのは承知していた。それでも、連発する指摘を受けて自尊心が口を開かせたのだ。
「ああ……そう……だね」
悄然とした趣で、瑛人は返した。
意地を張りすぎたのかもしれない。美代は軽くため息を落とし、瑛人を見る。
「わたし、疲れているのかもね。きょうは結構歩き回ったし、あしたの施設訪問を前にしての緊張もあって」
反省をしたというより、言い訳をしただけだった。言葉にしてからそれを悟り、美代はますます気分が塞いだ。
「おれもそう思う。もう休んだほうがいいよ」
おそらくは折れたのだろう。瑛人はただ、慈しむ表情だった。
「うん」美代は答えた。「その前に、朱實さんにメッセージだけ送っておく」
そして美代は、テーブルから自分のスマートフォンを取った。
「じゃあ、おれはニュースのチェックでもするか」
一方の瑛人もテーブルからスマートフォンを取り、画面を操作した。
メッセージの文字を打ちながら美代は思う。疲れの原因のほとんどが、妙な気配と威圧感である、ということを。
少なくともあの気配は気のせいではない――美代はそう確信していた。
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