第三章 ①

 瑛人と幸太の二人を見送った美代は、洗濯物を干し終えてすぐに、ブラウスにコットンパンツというよそ行きに着替えた。そして、トートバッグを左肩にかけて自宅を出る。時刻は午前九時半を過ぎたばかりだ。

 瑛人と幸太が朝に通る道――希望台の東に出る道をたどり、南北に延びる都道へと突き当たった。平日の朝の瑛人と幸太はここから南へと進むが、今の美代が向かうのは北である。進行方向に対して左側の太い歩道を美代は歩いた。

 青い空と乾いた空気がすがすがしかった。もっとも、これからの一仕事を思えば浮かれてはいられない。

 片側二車線の都道は、上下線とも車の往来が絶えなかった。都道の反対側――新市街地側の歩道を見れば、そちらの人々の往来も激しい。だが美代の歩く歩道は、人の姿がまばらである。

 希望台の東側出入り口を出て数十メートル進んだところで、顔見知りの主婦が前方からこちらへと歩いてくる様子が窺えた。あちらも美代に気づいたようだ。ここで引き返すのは不可能である。

「おはようございます」とこちらから声をかけた。同じ希望台の住人であり、美代とは同世代のようだが、氏名はうろ覚えだ。おそらくはあちらも同じ程度の認識だろう。深く話し込む事態には陥らないはずだ。

「おはようございます」立ち止まった主婦が、笑みを浮かべた。「お出かけですか?」

 立ち止まらなくてもいいのに――と思うものの、美代も笑顔で立ち止まる。

「はい。そこのコンビニまで」

 顔見知りと出くわす、という事態に備えて用意しておいた台詞だった。

「あら、わたしも今、行ってきたところ」

 主婦は何やら会話を続けたい様子だ。

「そうでしたか。友達が訪ねてくるというのに、約束の三十分前になって、お菓子が何もないことに気づいたんです。急いで買ってこなきゃ……って、出てきたところなんです」

 これも用意しておいた台詞だ。

「まあ、それじゃ急がなきゃ」

 期待通りの反応だった。

「はい。じゃあ、行ってみます」と笑顔のままで返し、美代は歩き出した。

 都道沿いの歩道をしばらく北上すると、市道との交差点があった。運よく信号は青であり、美代は直進して横断歩道を渡った。コンビニエンスストアは、渡りきったそこ――交差点の角である。

 美代は歩きながら振り向き、先ほどの主婦の姿が見えないことを確認した。そしてコンビニエンスストアの前を通り過ぎると、さらに歩道を百メートルほど北上し、左へと折れた。旧市街地を東西に延びるその通りは市道よりもやや狭く、歩道はないが、片側一車線の道だ。車はときおり通るものの、人の姿はない。左右には民家や三階建て以下のビルが建ち並んでおり、よく見ればどれもが旧世代の趣だった。

 右前方――家並みの向こうにショッピングモールの建物が見えた。しかし今回は、そちらには用はない。

 とりあえずは人の姿を見つけ出すのだ。できれば高齢者がよい。瑛人の言うように何人かをたどっていけば望みにかなう人物――五十一年前のこの界隈について知る人物に行き当たるかもしれないが、声をかける相手が多ければ、美代が調査していることが希望台の住人に漏れる確率が高まるだろう。ならば、聞き込みの対象は可能な限り六十代以上の人物がよい、ということになる。

 五十メートルも歩くと、車道は直角に右へと折れていた。もっとも、そこは変形十字路であり、本車線から外れて直進もしくは左折すれば、センターラインのないやや狭い道となる。

 美代はその交差点の角で立ち止まり、一帯を見回した。

 北へと延びるその車道を美代は使ったことがないが、どうやらショッピングモールの大駐車場へと至っているようだ。その道は車の往来がまばらにあるだけで、人の気配はない。

 左――南へと延びる道の先を見れば、市道へと繫がっていた。この辻とそちらとの間には、人の姿はおろか車さえ見当たらない。

 西へと延びる道の先も閑散としているが、家並みがどこまでも続いており、手がかりを得られる確率が高そうなのはこちらである、と思えた。

 美代は西に向かって歩き出した。このまま直進すれば、いずれは、佐々木アパートのある三丁目に至るだろう。希望どおりの結果が得られない場合は、そのまま西へと向かって四丁目を調査し、それでも空振りであれば北の五丁目を歩く、というつもりである。この界隈を時計回りに何周か回ることになるかもしれないが、手がかりが何もないまま帰宅するという事態だけは避けたかった。

 西へと進むほど、古い家が多くなった。三丁目と似たような風景である。無論、区画が同じか別かで趣が極端に変わるわけではない。

 周囲に目を配りつつ、美代はひたすら歩を進めた。


 意味もなく時間を浪費しているだけなのかもしれない――ふと、美代はそんな感慨にとらわれた。

 逡巡を払拭するために、歩きながら首を横に振った。しかし、重く暗い懐疑がまとわりついて離れない。この愚かな探索をあざ笑うもう一人の自分――否。

 あざ笑ったのは自分以外の何者かだ。それを悟って道の真ん中で足を止めるが、周囲を見回しても誰もいなかった。気配は確かにあったのだが、それも今はない。

 ごみ屋敷があるだろうその方角を、美代は睨んだ。

 鼓動の激しさに気づき、深呼吸をしてそれを鎮めた。

 ――負けたくない。

 意地ではなく、覚悟だった。

 息を落ち着けて、美代は歩き出した。


 濃灰色の建物が道の先にあった。見覚えのあるそれは、佐々木アパートだ。何一つ収穫のないまま三丁目に至ったわけである。

 節子によれば、この界隈の五十一年前より以前を知る者は、他界しているか痴呆であるらしい。だが、美代の求める人物が三丁目以外に住んでいるとして、その人物が三丁目を歩いていないとは限らない。

 佐々木アパートの前で美代は足を止めた。朱實の住戸である二階の一室を見上げる。茫漠とした探索に一抹の不安を覚えた美代は、朱實の手を借りたいという気分にそそられるが、平日のこの時間、閉ざされた玄関ドアの内側には誰もいないはずだ。

 アパートの隣の佐々木宅にも目をやった。節子なら声をかければ同伴してくれそうだが、どれほど歩かせることになるのか予想もつかず、また、節子が顔を合わせたくない人物がいる可能性も否定できないため、断念するのが妥当と思えた。

 ごみ屋敷のほうに目を向けるが、気配は感じられない。無論、己が勝手に感じているのだろう威圧感は、依然としてあった。

 美代は歩き出した。ごみ屋敷の横を迂回するために通った道――佐々木アパートの横を抜けて、西へと進む。

 佐々木アパートの前から人の姿を見かけないまま五分ほども歩くと、美代がまだ足を踏み入れたことのない界隈に達していた。前を見れば道は一直線ではなく丁字路に突き当たっている。

 丁字路に差しかかり、美代はその真ん中で足を止めた。左を見れば道はL字型に右に折れており、その先の様子は窺えない。右の道は一直線に伸び、揺らめくかげろうの彼方で大通りに繫がっている。電信柱に取りつけてある街区表示板を見れば、まだ三丁目だった。

 思わず、美代はため息を落とした。

 二丁目から調査し始めたのは、そこが新市街地に近いからだ。ゆえに、人の動きはそれなりにあるだろう、と見込んだのである。しかし実際に歩いてみれば、二丁目も三丁目も、閑散とした雰囲気なのだ。

 通り過ぎるだけではなく、縦横に歩かなければ意味がない。その一方で、人通りのほぼない界隈で行きつ戻りつを繰り返せば、不審者として見られてしまいそうだ。

 美代は腕時計に目をやり、午前九時四十八分であるのを確認した。


 美代は家々の間を、同じ道を極力通らないようにして、縦横に歩いた。とはいえ、気づいたときには同じ道を歩いていた、という事態が何度かあった。それでも幸か不幸か、人に出くわすことはなかった。

 ふと、民家の塀に取りつけてある街区表示板に目をやり、ここが四丁目である、と知った。見渡せば住宅地のど真ん中である。インターネットの地図でも使わなければこの住宅地から出られないかもしれない――そんな不安が脳裏をよぎった。

 美代は道端で足を止めた。足の疲れもあるが、精神的な疲弊も大きかった。気温が上がっているせいか、額がわずかに汗ばんでいる。

 時刻は午前十時三十五分だった。

 物音に気づき、美代は立ち止まったまま周囲を見回した。

 通り過ぎたばかりの民家の前――その門の通用口を開けて、一人の女が出てきたところだった。普段着姿の彼女は、右手にほうき、左手にちり取りを持っており、これから掃除を始めるようだ。いずれにせよ、六十代に見える。

 機を逃すわけにはいかない。美代は早足でその女へと歩み寄った。

 門の前を片手で掃き始めた女が、美代に気づき、手を止めた。

 門の横の表札には「長谷川」と記されてあった。

「すみません」

 美代が声をかけると、女は警戒するような表情を浮かべて「はい?」と返した。セールスか宗教の勧誘とでも思ったのかもしれない。こんな場合、こちらが笑みを作れば、かえって相手の警戒心を煽るだけだ。

「少々お伺いしたいことがあるんですが」

 へつらうでもなく、毅然とした態度で、美代は切り出した。

 女はわずかに愁眉を開いた。少なくともセールスや勧誘ではない、と受け取ったらしい。

「この辺の昔のこと……五十年くらい前のことを調べているんですが、そういうことにお詳しい方って、ご存じありませんか?」

「この辺の昔のこと?」

 女は再び眉を寄せた。

「あ……いえ、そういうのに興味があって」美代は取り繕う。「わたしはそこの希望台に住んでいる者なんですが、団地の周りの街並みに興味があるんです。この一帯は五十年以上前には活気があった、と小耳に挟んだものですから」

 五十年以上前には活気があった――とは失礼だったかもしれない。この台詞は即興だった。こんな場面で使えそうな言葉を用意していなかったことを、ふと悔いてしまう。

 女は得心がいったように頷いた。

「そういうことね。でも五十年も前となると……わたしも主人も三十年くらい前にここに住み始めたから、もっと古い人っていうことになるわね」

 それを尋ねているのだ、という思いを込めて、美代は「その、もっと古い人、を探しているんです」と付け加えた。とはいえ、もっと古い人、という言葉もぶしつけであろう。

「もっと古い人かあ……」

 女は遠い目で空を見上げた。

 やはりこの界隈にはそういった人物はもういないのかもしれない。節子でさえそう考えているのだから、その場合は受け入れるしかなさそうだ。

 美代が諦めかけた、そのとき――。

「ああ、いたいた」

 声を上げながら、女は何度も頷いた。

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