第二章 ⑥
話せる仲間が近くにいるだけでも、俄然、勇気は湧いてくる。だが同時に、得体の知れない存在を近くに感じるのも事実だ。まだ当分は、心を落ち着けることができないまま過ごさなくてはならないだろう。
入浴と夕食を済ませた朱實は、パジャマに着替えると、居間で座卓を前にして腰を下ろし、テレビを点けた。無論、カーテンは閉ざしたままだ。
画面には報道番組が映っているが、なんのニュースなのか、どのような問題を取り上げているのか、頭に入ってこない。そんな状態で三十分ほどを過ごした。
午後八時四十二分――まだ早いが、寝てしまおうかと考えた。気配はないが、仮にまたあの気配が訪れたとしても、寝てしまえば問題はなさそうだ。
もっとも、美代が口にしていた「嫌な感じ」は意識していた。嫌な感じ――すなわち、ごみ屋敷からの威圧感である。ごみ屋敷問題を意識するあまりのネガティブな感覚に違いないが、それを受ける側にしてみれば、気配と大差はない。
テレビを消した朱實は、座卓を前にして座ったまま、ふと、心の片隅に靄のようなものがこびりついていることに気づいた。
――何か、忘れている。
美代に伝えるべきなのに、その部分だけが抜け落ちているのだ。おそらくはあの気配に関すること――気配に関する重要な何か、だったような気がするが、どんな内容だったのか、まったく思い出せない。
佐々木宅では気配について美代に伝えられなかったが、あのときは頭の中にあったはずだ。
――なんで?
心の片隅にこびりつく靄のようなものが、どす黒く濁り、ゆったりと渦を巻いた。それが朱實の記憶を封印している、そのように思えた。
瑛人が帰宅したのは午後九時を過ぎた頃だった。入浴と夕食をすでに済ませていたパジャマ姿の幸太は、リビングのテレビにゲーム機を接続して新作ゲームを楽しんでいたが、帰宅したばかりの瑛人に何やら見せ場の一つを説明すると、満足げにゲーム機を片づけ、自室へと引き上げた。美代が湯船に浸かったのは、入浴を済ませた瑛人が食事を取っている最中だった。
パジャマ同士の夫婦が、ソファで向かい合った。テレビはニュース番組を映していたが、瑛人がそれをリモコンで切る。
「何か、温かいものでも飲む?」
尋ねた美代は、腰を上げようとした。
「おれはいいよ。君だけ飲めばいい」
自分が飲みたいわけでもなかった美代は、「じゃあ、わたしもいらない」と返して、上げかけた腰を下ろした。
「で、きょうはどうだった?」
「ちゃんともらってきたわよ」
答えて美代は、テーブルの自分側にある引き出しから窓口用封筒を取り出した。
「佐々木さんにも見せたんだろう?」
「もちろん。それと、朱實さんにも一緒にね」
言いながら、美代は窓口用封筒から二枚の書類を抜き取り、瑛人に差し出した。
「朱實さん、会社を休んだのか?」
そう尋ねて、瑛人は二枚の書類を受け取った。
「気になって休んだんだって。わたしが法務局の玄関から出てきたところに、やってきたのよ。だから車に乗せて、一緒に佐々木さんのお宅まで行ったわ」
答えつつ、美代は窓口用封筒をテーブルの自分の側に置いた。
「そうだったのか」と頷いた瑛人が書類に目を通す様子を眺めつつ、美代は聞こえないように小さなため息をついた。
妙な気配については、今のところ、瑛人に話すつもりはない。朱實をここに招いたことは、尋ねられたら「そうだ」と答えるしかないが、その場合は、彼女と話した内容については適当にはぐらかす、というもくろみである。
瑛人は唯物主義者というほどではないが、美代の上を行く超常現象否定派だ。美代が妙な気配について口にしようものなら、面倒な事態になりかねない。そんな瑛人なのだから、美代が目撃した謎の女についても、陣内とのなんらかの関係にある人物――と見ており、当然、幽霊などとは考えていないのだ。
「中森一郎、っていうのか……」
二枚の書類を交互に見ながら、瑛人は声を落とした。
「佐々木さんはやっぱりその人のことを知らなかったわ」
美代が補足すると、瑛人は二枚の書類を左右に並べてテーブルに置き、顔を上げた。
「その中森さんが家族で暮らしていたのか一人でいたのか、それはわからないわけだ」
「そうね」
そして美代は、三丁目の周辺――二丁目や四丁目、五丁目にも、古い人はほとんど残っておらず、仮に古い人がいたとしても節子の知り合いではない、と付け加えた。
「つまり……三丁目の外に佐々木さんの知り合いはいないけど、佐々木さんの知り合いではない土地っ子はいるかもしれない……というわけだ」
何食わぬ顔で言葉にされて、美代は啞然とした。
「佐々木さんの知っている範疇以外に古い人がいても、佐々木さんがそれを知らなくて当然、ということ?」
「そうさ。まだ道はふさがっていない」
「でも、三丁目の周辺のどこにそういう人がいるのか、漠然としているわ」
率直な意見だった。
「一発でそういう人を見つけるのはほぼ不可能だろうけど、そこそこの年齢の人に声をかけて訊いてみれば、直接的にはわからなくても、あの人なら知っているかも……なんていう話になって、そうやってたどっていけば、古くからの住人に……それだけじゃなく、中森一郎という人物を知る人に、行き着くかもしれないよ」
「ああ、そうか……」
得心はいった。しかし、それは地道な調査である。
「大変そうだけど」美代は言った。「やってみる価値はあるわね」
指針が定まれば、心も揺らぐことはない。
気持ちに余裕ができた美代は、恵理からの電話で聞いた話のすべて――行政代執行がされることや志穂の症状などを、瑛人に伝えることにした。
火曜日の朝となり、朱實はいつもより十分早くアパートを出ると、晴天の下、狭い通りを東へと進んだ。パンツスーツにショルダーバッグという出で立ちが、数週間ぶりにさえ思える。鋭気は回復しないままであり、できればあと三日ほど休みたいが、中小企業とはいえ「代わりはいくらでもいる」と言い下されてしまえば、すがってもお目こぼしはしてくれないだろう。
アパートと駅との間をごみ屋敷を迂回して徒歩で行き来するには、やや遠回りの道をたどる必要があった。アパートから都道に出るまでの東へと進む道は、市道とは並行しておらず、やや北寄りに延びているのだ。それでもやはり、運賃の節約を重視したのである。
バスを利用しても野沢瑛人と顔を合わせることはない。そもそもバスの路線が違えば最寄りのバス停も異なり、電車の路線も異なるのだから駅もまったく別なのだ。仮に顔を合わせれば、ごみ屋敷問題について話し合うこともできそうだが、美代の不在の場で彼女の夫と会うのは引け目があった。やましいことなど現実的には何もないが、仮にそれで美代の機嫌が損なわれたら、仲間たちが離散してしまうのは目に見えている。
しかし、瑛人を男として意識しているのは事実だった。顔立ちも性格も朱實の好みなのだ。とはいえ、朱實は美代との仲を重んじていた。彼女を失うということは、計り知れない損失を被るのと同意義である。
背徳感を振り払った朱實は、ごみ屋敷の方角に目を向けないように意識した。見まいとすればするほど目を向けそうになるが、神経をすり減らしながらも進行方向を注視する。
狭い道に人の姿はなかった。左右の家々は沈黙を守っている。
背後――やや右のほうに、威圧感――ではなく、気配があった。視線かもしれない。
朱實は首を激しく横に振った。
視線を感じるなど妄想である、と思いたかった。
気のせいだ、と己を律したかった。
――なんなのよ!
悪態は声にできなかった。これを聞かれたら、さらなる猛威にさらされるかもしれない。
気配から逃れたいがために、朱實は歩調を上げた。
歩きつつ、ふと、思い出せない何かがあることを、思い出した。忘れてしまった何か、である。それが朱實の焦燥をより重篤化させた。
どこへ逃げようとも無駄だ――そう言われた気がして、朱實はついに走り出した。
いつの間にか気配は消えていたが、朱實は走り続けた。
この界隈から一刻も早く遠ざかりたかった。
ごみ屋敷の謎にのみ意識を向けているわけにはいかず、瑛人は幸太を伴って時間どおりに都道沿いの児童公園へと赴いた。公園は子供たちや主婦たちで賑わっていたが、相田と志穂の姿はなかった。
幸太が子供たちの輪に入ると、瑛人は主婦たちと会釈を交わし、一人、いつもの位置に立った。見るとはなしに、遊具で遊ぶ子供たちに目を向ける。
「野沢さん、おはようございます」
声をかけられて正面に視線を戻せば、一人の三十代とおぼしい主婦が瑛人の前に立っていた。名前は思い出せないが、きょうの旗当番の子――その母である。
「あ……おはようございます」
小学校からの連絡事項でもあるのか、と予測した瑛人は、おのずと背筋を伸ばした。
「相田さんのご主人と仲がよさそうだから……」
主婦のそんな言葉が飲み込めず、瑛人は「はい?」と素っ頓狂な反応を呈してしまう。
「ああ……いえね」主婦は苦笑した。「さっき、相田さんの奥さんからうちに電話があって、志穂ちゃんはきょうもお休みなんですって。まだ具合が悪いとのことです。……奥さんも調子が悪そうでした」
「そうでしたか」
相田恵理までが体調を崩しているとは、予想外だった。
「野沢さんにも相田さんから連絡は行っていましたか?」
「いいえ、志穂ちゃんがきょうも休むというのは、知りませんでした」
「なら、声をかけてよかったです。相田さんのご主人、まっすぐにお仕事に向かわれたらしいので」
恵理が体調を崩しているのであれば、なおのこと、まっすぐではなく、コンビニエンスストアに寄っていくはずだ。
「奥さんが志穂ちゃんを連れて病院へ行くそうです」
主婦の言葉を聞いて、瑛人は問う。
「相田さんの奥さんも調子が悪いんでしょう?」
「志穂ちゃんほどは悪くないんだとか。もしくは、一緒に医者に診てもらうのかもしれませんね」
「なるほど……本当だったら旦那さんが二人を病院へ連れていくのがいいんでしょうけど、旦那さんの仕事もありますしね」
「でしょうね」
やるせなさそうに主婦は頷いた。
「お話、わかりました。お気遣いありがとうございます」
瑛人が頭を下げると、主婦は「いえいえ」と右手を軽く横に振り、仲間たちの輪へと引き返した。
行政が動くことになったそばから、相田家の面々はごみ屋敷からの見えない浸食に犯されているのだ。
瑛人は子供たちの笑い声の中で深いため息を落とした。
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