第二章 ⑤
佐々木宅の横の駐車スペースにSUVを停め、美代はエンジンを切った。駐車スペースは乗用車が三台は停められそうな広さがあるが、節子は自動車運転免許証がないということであり、またアパート用の駐車場は別にあるため、このSUV以外に駐車している車はない。
美代と朱實はともにSUVを降り、佐々木宅の玄関先に立った。呼び鈴を鳴らすまでもなく、玄関がすぐに開き、節子が顔を見せた。これから訪ねる、という旨を車中で朱實が節子に電話したため、待機していたようだ。
節子に促され、美代と朱實はリビングに通された。
美代はソファの前回と同じ位置に腰を下ろすと、ショルダーバッグを自分の左に置き、法務局の窓口用封筒をテーブルに置いた。今回の朱實は美代の右に落ち着き、リュックを自分の右に置く。
キッチンに向かおうとする節子に、朱實が「書類を広げるんで、飲み物とかは……」と遠慮がちに声をかけた。
「あらいけない。そうだったわね」
きびすを返し、節子は美代の向かいに腰を下ろした。
「これです」と告げて美代は、窓口用封筒から折り目のない書類――全部事項証明書を取り出し、それを節子の前に置いた。二枚が重なっており、上が土地の登記証明書、下が建物の登記証明書である。
節子はそれらをまとめて手に取り、交互に何度も見やった。そしてそれらをそろえて朱實の前に置く。続いて、朱實がそれらを手に取って、目を通し始めた。
「あの土地とあの建物の最初の所有者は、
感慨深げに節子が言った。
「五十一年前……結構古い家なんだ。五十一年間で三世帯……」
独りごちた朱實が、そろえた書類を美代の前の窓口用封筒に載せた。
土地も建物も、最初の所有者は中森一郎という人物であり、今から三十五年前に星野峰子が二番目の所有者となっていた。陣内忠志が三番目の所有者となったのは、その二年後である。
「この中森さんという人を、やっぱり佐々木さんはご存じないんですね?」
日曜日の話では知らないということだったが、念のため、美代は確認した。
「ええ」節子は頷いた。「やっぱりわからないわね」
「これ以上は無理、ということですかね?」
朱實が落胆の声を漏らした。
わずかな光明を求めて、美代は節子を見る。
「この界隈には、節子さんが嫁いでくるよりも前から住んでいる人はもういない……とおっしゃっていましたが、もう少し離れた場所には……古くからの住人っていないんでしょうか?」
「もう少し離れた場所ねえ」
苦笑しつつ、節子は首を傾げた。
「ここが三丁目だから」朱實が言った。「東の二丁目とか、西の四丁目とか、北の五丁目とか。一丁目……希望台は無理としても」
「二丁目も四丁目も五丁目も、ここと同じ感じね。仮に古い人が残っていても、わたしの知り合いではいないわ。当然だけど、一丁目の希望台も」
申し訳なさそうに節子は説いた。
「そうですか」
気落ちした様子を見せないように務めつつ、美代はそっと頷いた。
テーブルの上の全部事項証明書が、その存在感をむなしく漂わせていた。
朱實と節子がそれぞれ「全部事項証明書の交付手数料は自分が払う」と申し出たが、美代はそれをやんわりと断って席を立ち、二人に見送られてSUVを駐車スペースから発進させた。
北から時計回りに南へ、という道筋で自宅へと帰り着いたのは、午前十一時になったばかりの頃だった。さっそく普段着に着替え、庭の物干し竿へと向かい、洗濯物のすべてが乾いていることを確認する。そしてすべての洗濯物を家の中に取り込み、二階の寝室でそれらをたたんでいるときに、一階のリビングでスマートフォンの電話着信音が鳴った。
慌ててリビングへと赴いた美代は、テーブルの上のスマートフォンを手に取り、相手が恵理であるのを知った。
「こんにちは。美代です」
通話モードにして、美代は立ったまま言った。
「こんにちは」恵理の声だ。「先日はありがとうね。きょうはね、うちの主人が仕事を休んで市役所に行ってくれたのよ」
それを聞いた美代は、瑛人からその旨を伝えられたことを打ち明けた。そして、「志穂ちゃんの具合は、どうですか?」と尋ねた。
「今はぐっすり寝ている。医者に診てもらうほどではないと思っているんだけど、あしたの朝になってもこのままだったら、診てもらうようかもね」
「それがいいと思います」
むしろきょうのうちに病院へ行くべきだろう、と思ったが、無論、口にはできなかった。
「そんなことより、自治体が動いてくれそうなのよ」
恵理のその言葉に、美代は胸の高鳴りを覚えた。
「やりましたね」
「ほかからも……というか、個人から苦情が出ていたそうなの。その人は何度も苦情を訴えていたんだって。どこの誰かはわからないけどね」
「そうだったんですか」
苦情が出るのは当然といえば当然だが、いかんせん、寝耳に水である。
「二年前に、訪問した市の職員をごみ屋敷の住人が追い返したじゃない」
「はい」
「あたしは気づかなかったんだけど、あのあとも市の職員は何十回も訪問していたんだってよ。そのつど指導と勧告をしていたんだって。苦情がずっと出ていたから、ということでね。それでね、自主的なごみの撤去の期限は、偶然にも今週で切れるとかで、最後の訪問で説得を聞き入れてくれない場合は、その数日後にごみの撤去をするんだってさ。美代ちゃんには余計な気苦労をかけちゃったけど、こちらが動かなくてもどのみち行政は動くことになっていた、っていうことなのよね」
心配しただけ無駄だった、ということだが、いずれにせよ、よい知らせである。
「じゃあ、行政代執行がされるとしても、来週になっちゃうんですか?」
「早ければ今週中に撤去されるらしいよ。でも、いずれはまたごみがたまりそうな気もするんだけど、そのときはまた自治体に動いてもらうわ」
恵理の声も軽そうだった。もっとも、志穂の具合を思えば、大げさに喜んでもいられない。
「先が見えてよかったです。悩みが一つ減ったんだし、今は志穂ちゃんの看病に専念できますね」
「ええ。本当に問題ばかりで困っちゃう。自治会のこととかさ」
おそらくは田所文江のことだろう。美代はそれを追求せず、日常的な話題を振り、頃合いを見て通話を切った。
いずれはまたごみがたまりそうな気もするんだけど――という恵理の言葉が脳裏をよぎった。ごみ屋敷はまた復活する――これはほかの例からしても、ありうる、と考えられるだろう。だからこそ、行政代執行がされたとしても、ごみ屋敷の調査は続行すべきなのだ。
スマートフォンをテーブルに置き、ふと思う。
――固執している。
自分自身のことだ。背筋に冷たいものを感じるほどだった。今のがむしゃらな自分は、朱實が感じたという気配よりも、あるいは暗い領域にいるのかもしれない。
だが、そうだとしても、ここでやめるわけにはいかないのだ。この執拗さは、自分の家族のためでもある。
誰かが笑ったような気がした。
午前の日差しが舞い込むリビング内を見回すが、自分以外には誰もいない。
気配――という言葉が、再度、美代の中で復活した。
舌先三寸では済まされないような気がした。「まじめに考える」と言葉にしたあのときの自分の軽さを呪う。
いずれにせよ、今の気配は北の方角に感じた。おのずと、ごみ屋敷が脳裏に浮かんでしまう。
遅まきながら、朱實の悩みが胸に染みた。
気配を感じたのはほんのつかの間だ。気配というほどではないのかもしれない。誰かが笑ったような気がした――そう、おおかた、気がしただけなのだ。そう思いたかったが、落ち着かないこの気持ちをどうにかすべく、軽い昼食を取ったあと、午後になって、美代は朱實に連絡を入れた。
「さっきはお疲れ様でした」
リビングのソファに腰を下ろしたまま、美代はスマートフォンの向こうの朱實に言った。
「こちらこそお世話になりました。交付手数料の件も、本当にありがとうございます」
そんな挨拶もそこそこに、美代は本題を切り出す。
「例の気配の話なんだけど」
「それでしたら、電話じゃなくて、会って直接話しませんか?」
朱實の言葉のとおり、電話で話す内容ではないかもしれない。
「ええ……そのほうがいいかもね」
「あのあとショッピングモールでお菓子を買ってきたんですけど、一人で食べるのも寂しいし、うちに来て、食べながら話しませんか?」
「なら、わたしの家に来ない? 今はわたし以外に誰もいないし」
「お邪魔しちゃっていいんですか?」
「もちろんよ」
「なら、このお菓子、持っていきますね」
そういう気遣いをさせたくないために誘ったのだが、朱實は上機嫌である。
「お茶請けなら用意するわよ」
「いえいえ、お茶請けは任せてください」
強く断るのも気が引け、美代は「あら……そう?」と曖昧に口にした。
かりんとうが頭に浮かんだのは事実である。しかしリュックから出されたそれは、ショッピングモールに出店している高級洋菓子店の紙箱だった。
「ショートケーキが二つずつなんですけど、小さいから、食べられますよね?」
そうほほえむ朱實は、法務局の駐車場で会ったときと同じ出で立ちだった。
「ええ、もちろん。さあ、座って」
美代に勧められてソファに腰を下ろした朱實は、傍らにリュックを置いた。
お茶を出すつもりでいた美代は、すぐに頭を切り替えてキッチンへ行くと、コーヒーを準備し、一式をトレイに載せてリビングに戻った。五分ほどを要したが、その間、朱實は席を立つこともなく、またスマートフォンをいじるでもなく、黙して待っていた。
「もしかして、わたしが来る前に緑茶を用意していた……とか?」
目の前に出されたコーヒーカップを見下ろしつつ、朱實は尋ねた。準備する美代の様子を見て推測したのだろう。
「そうだけど、大丈夫よ。主婦はね、臨機応変が肝心なの」
急須と二つの湯飲み茶碗をトレイに並べておいただけで、茶葉を包装から出したわけではない。ケーキを提供してもらえるのだから、この程度の二度手間なら安いものだ。
「すみません。ケーキであることを、先に言っておけばよかったですね」
朱實は肩をすくめた。
「まあ、そうすれば、あと五分は早くケーキを食べられたかな」
笑いながら言った美代は、朱實の前と自分の前とに皿とフォークを置き、それぞれの皿にショートケーキを二個ずつ載せた。苺のショートケーキとモンブラン――二種類のケーキが、二人ぶんだ。
「じゃあ、いただきましょうか」
朱實の向かいに座った美代が声をかけると、朱實は「はい」と頷いた。
双方とも苺のショートケーキから手をつけた。さすがに有名店の品であり、美代は舌鼓を打ってしまう。ブラックのコーヒーとの相性も申し分なかった。
一つ目のケーキを平らげたところで、美代はフォークを皿の上に置いた。やや遅れて、朱實も一つ目を完食する。
「やっぱりおいしいわね。さすがはあのお店のケーキだわ」
称賛した美代は、コーヒーを一口飲んだ。
「よかった。喜んでいただけて何よりです」
相好を崩した朱實もコーヒーカップに口をつけた。
「ところで」美代はカップを受け皿に載せた。「気配の話なんだけど」
そう切り出されて「はい」と頷いた朱實も、カップを受け皿に置く。
「わたしもね、さっき、妙な気配を感じたのよ。北……ごみ屋敷のほうに感じたわ」
美代が打ち明けると、朱實は瞠目した。
「美代さんも……ですか?」
「そうなの」
そして美代は、行政代執行の件で恵理から電話があった直後に気配を感じた、と伝えた。
「行政代執行がされるのはよかった、として」朱實は言った。「美代さんが感じた気配って、誰かが笑った……つまり、笑い声が聞こえた、ということですか?」
「耳で聞こえた、というよりは脳で感じた……みたいな」
曖昧な答えだが、それ以外の言葉が思いつかなかった。
「脳で感じたということは、テレパシーとかでしょうかね」
さも、そういった超常現象ありき、といった台詞だった。
「でもわたしは、間違いなく超能力者なんかじゃないわよ」
「美代さんが超能力者じゃなくても、相手が超能力者なら、心の声が強制的に送られてくるかもしれませんよ」
そんなものなのかな――と美代は思った。ならば、朱實が感じた気配と通ずる要因が見える。
「朱實さんは、自分が感じた気配は生きている何か、って言っていたじゃない?」
「はい」
「わたしの聞いた声がテレパシーだとしたら、その声の主も生きている何か、っていうことになると思うの」
我ながらあっぱれな推理だ、と自負した。
「幽霊はテレパシーで意思を伝える、っていう話を聞いたことがありますよ。幽霊は実体がありませんし、だから、声を出すための器官もなく、生きている人間に話しかけるためにテレパシーを使うのだとか」
気勢をそぐ言葉だった。美代はどうにか顔の引きつりを抑える。
「でも」朱實は続けた。「美代さんが感じた気配も気のせいでなければ、わたしが感じたのと同じかもしれませんね」
美代の葛藤に気づいた様子はなく、どうやら素で言ったらしい。それがなおのこと、美代の自尊心を傷つけた。お茶をコーヒーに切り替えたように、気持ちを切り替え、美代は頷く。
「そうよね。朱實さんが感じた気配とわたしが感じた気配……これらの現象が事実なら、こんな近くで起きているんだもの、それぞれが全く別のことだなんて、考えにくい」
「そしておそらく、その気配はごみ屋敷に関係している……」
思い詰めたような表情を前にして、美代は息を吞んだ。そして、言う。
「具体的な気配を感じていないときでも、威圧感を受けていたわ。あのごみ屋敷を強く意識してからよ。今このときだって、嫌な感じは受けているもの。そんな嫌な感じ……というか威圧感は、まあ気のせいだとしても、朱實さんが感じた気配とわたしが感じた気配は、どちらも、あのごみ屋敷から放たれている、ということね」
「わたしもそう思います」
「なら、その気配はあの陣内忠志さんから発せられているのかしら?」
美代の疑問に、朱實は首を傾げた。
「ただの高齢者、というか……とてもそんな力を持っているようには見えませんが、でも、人は見かけによらないし」
「そうよね」そして美代は声を潜める。「もしくは……」
「美代さんが見た、という女性」
とたんに美代は肌が粟立つのを覚え、肩をすぼめた。
「やっぱり、あそこには何か重大な秘密があるんだわ」
言いきった美代は、心を落ち着かせようと、コーヒーカップに右手を伸ばした。しかし、自分の手が震えていることに気づき、出しかけたその手を止めてしまう。
見れば、朱實はうつむいて息を凝らしていた。自分自身の言葉に当惑しているらしい。
常軌を逸した何かがある。それが何かはまだわからないが、なんであろうとも、真実を前にしたときには認めなければならないのだ。
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