第二章 ④

 勤め人にとって月曜日の朝にのしかかるのは憂鬱以外の何ものでもないが、児童公園ではしゃぐ子供たちにしてみれば、大人の事情などは無縁であるに違いない。雲一つない晴天であるのに加え、気温がやや高めのおかげで先週と同じ出で立ちでも支障がないことが、瑛人にはせめてもの慰めだった。

 いつものように、瑛人は母親連中から少し離れて立っていた。そして、公園の出入り口からこちらへと歩いてくる相田智宏に気づくが、志穂の姿がない。

「おはようございます」と声をかけた瑛人の正面で足を止めた相田が、挨拶を返した。浮かない表情の彼は、普段よりもいっそうカジュアルな装いだった。リュックを背負っておらず、ハンドバッグを手にしている。

「志穂ちゃんは?」

 瑛人は尋ねた。

「気分が悪いというんで、きょうは休ませることにしました」

「ああ……」

 土曜日に会ったときの志穂の様子を思い出し、瑛人は得心した。

「学校と、それから当番の方には連絡したんで、それに関してはここに来なくてもよかったんですが……野沢さんにちょっと話……というか、お礼を伝えたくて」

 改まった様子だった。瑛人は不審に思いつつも「どうしました?」と促した。

「実は、きょう、妻がごみ屋敷の件で役所へ相談に行く予定だったんです。行政代執行を依頼するということで」

「その件でしたら、自分も知っています。というか、そういうのができる、と言い出したのは自分です。それを自分が妻に伝えて、妻が相田さんの奥さんに話したんです。差し出がましいかもしれませんが」

 隠す意味はなく、瑛人は正直に伝えた。

「差し出がましいだなんて」相田は恐縮の色を呈した。「うちの妻から聞きました。いろいろと気遣ってくださって、本当にありがとうございます」

 そう告げて、相田は頭を下げた。

 無論、瑛人は周囲を気にしてしまう。

「お礼なんていいですから、とにかく頭を上げてください」

 言われて相田は上体を起こした。主婦連中は立ち話に夢中であり、幸いにもこちらの様子には気づいていないらしい。

「土曜日に会ったときに言えばよかったんですが……」

 唯一の心残りを、瑛人は口にした。

「いえ、あのときは子供たちがいたし、それにゲームソフトをゲットしなければならなかったから、話す時間もなかったです」

 そんな相田の苦笑に瑛人は安堵する。

「それもそうですね」

「しかし、そんなわけで志穂が休んでいるので、家に誰か大人がいなければならず、妻には家に残ってもらい、自分が役所へ行くことになりました」

「そうだったんですか」

「公園の駐車場に車を停めてあります。これから役所へ向かうんですが、よろしければ駅まで送りますよ」

 公園の外れに六台ぶんの駐車スペースがあったことを思い浮かべつつ、瑛人は首を横に振った。

「いえいえ、駅は役所とは方向が違いますから、お気持ちだけで結構ですよ。それに、憂鬱な月曜日だからこそ、ルーティンどおりに行動したいんです」

 遠慮する気持ちもあったが、バスや電車に揺られながら瞑想したいというのが本音だった。車に乗せてもらえば、日常の話題はもとよりごみ屋敷の話題も避けられないだろう。

「ああ、そういうのは、わかります」

 相田は小さく頷いた。

「せっかくお誘いくださったのに、申し訳ありません」

「いいんですよ」相田は言った。「じゃあ、そろそろ行ってみます」

「頑張ってください」

「はい」

 一礼をした相田が、瑛人に背中を向けた。さらに主婦たちに会釈しつつ、彼は公園を出ていく。

 瑛人はため息を落とした。

 頑張ってください――という自分の言葉が無責任な一言に感じられ、瑛人は唇を結んだ。


 スマートフォンの通知音が鳴ったのは、美代が寝室でよそ行きのワンピースに着替え終えたばかりのときだった。ベッド脇の床頭台に置いたスマートフォンを取って確認すれば、瑛人からのメッセージだった。時間的に電車の中から送信したようだ。

   *   *   *

 相田さんのお宅では志穂ちゃんが体調不良で休むとのことなんで、奥さんが留守番で、旦那さんが市役所へ行くことになったよ。旦那さんに「駅まで車で送る」と言われたけど、遠慮しておいた。悪いことしちゃったかな?

 とりあえず、そういうことで。

   *   *   *

 簡素な文面だが、美代の脳裏には暗い影がよぎっていた。

「志穂ちゃんが……」

 体調が悪そうだった、というのは土曜日の午後に、帰宅した瑛人から聞いていた。あれから二日が経った今でも具合が悪いのだから、静観している場合ではなさそうだ。

 もっとも、市役所に出向くのが恵理であれば、どこかで出くわした場合に話が面倒になりそうだが、相手がその夫ならば挨拶程度で済ませられるだろう。

 志穂に申し訳なく思いつつも、美代はポジティブにとらえることにした。


「美代さん」

 法務局の駐車場でSUVの運転席に乗り込もうとした美代は、背後から声をかけられた。

 声の主は、カジュアルジャケットにジーンズ、背中にリュック、という出で立ちの朱實だった。美代一人に任せてよいものか、と出勤前になって気になり、とはいえ時間的に美代に連絡するのもはばかれ、路線バスを使って法務局に出向いた、という。彼女のそんな弁明に頷きつつも、美代は「それ以外にも理由がある」と見た。

 美代は助手席の荷物を後ろに移し、空いたその席に朱實を座らせた。今朝の瑛人は相田の車を遠慮したらしいが、言うまでもなく、朱實は美代の誘いに従順だった。

「きょうは丸一日お休み、ということなの?」

 美代はそう尋ね、エンジンをかけた。

「職場には、病欠する、と電話しておきました」

 リュックを膝の上に置いた朱實が、そっとはにかんだ。

 しかし、美代は憂慮してしまう。

「こんなことで休んじゃって……それに、わたしに連絡もなしで来ちゃって。行き違いになったら、休んだのが無駄になっちゃうわよ」

「そのときはそのときです」

 朱實は肩をすくめた。

「まあ、休んじゃったものはしょうがない。とりあえず、今から佐々木さんの家へ行くわよ」

 SUVを駐車場から車道へと出しつつ、美代は訴えた。佐々木宅での先の打ち合わせにおいて、「月曜日は法務局から佐々木宅へ直行する」と美代は宣言していたのだ。朱實の答えがどうであろうと、行き先を変えるつもりはない。よって美代は、SUVをそちらへと走らせた。車の流れは円滑であり、二十分もあれば目的地に到着するだろう。

「大家さんへの報告ですね?」

「そう。買い物とかあったらごめんね。きょうは相田さんの旦那さんが行政代執行の相談で市役所に行っているから、どこかで鉢合わせになると、面倒そうでしょう」

 もっとも、恵理と出くわすよりはまだしも救われる、という思いに変わりはなかった。

「わたしの買い物はありませし、何しろ、あのときに美代さんは、全部事項証明書を取ったらすぐに大家さんに見せに来る、って言っていたじゃないですか。それにしても……行政代執行の件でしたっけ? それ、相田さんの奥さんが行くはずじゃ……」

 朱實のそんな言葉を受けて、美代は相田家の事情を説明した。

「そうだったんですか。その志穂ちゃんっていう子、かわいそう。言うなれば、志穂ちゃんもごみ屋敷の被害者ですよね」

「そうね」と美代は頷いた。

「で、全部事項証明書には目を通したんですか?」

 問いつつ、朱實は振り向いて後部座席を覗いた。後部座席には法務局の窓口用封筒が置いてあり、その下の床には美代のショルダーバッグがある。

「ええ。歴代の所有者の名前があったわ」

「えっと……」朱實は正面に向き直った。「じゃあ、大家さんちで聞きますね。何度も説明したら大変だし」

「なら、その件は大家さんちで、ということにして……今のうちに、話そうよ」

 進行方向に目を向けて、美代は言った。

「え……何を?」と虚を突かれたような声が返ってきた。

「わたしに何か話があったんじゃない?」

「あ……はい、でも……」

 逡巡するほどのやっかいな問題なのかもしれない。美代は可能な限り穏やかな表情を保った。

「もう、仲間よね?」

 心を開くだの開かないだのといった間柄ではなくなっているはずだ。しかも、重要な案件であれば聞かないわけにはいかない。

「ねえ」美代はたたみかける。「ごみ屋敷問題に関すること?」

「たぶん……」

 自信なさげに朱實は言った。

「どういうこと?」

「実は……土曜日の夜に、妙なことがあったんです」

 妙――という言葉に胸騒ぎを覚えるが、美代は「続けて」と促した。

「アパートの窓から外を見ていたら、ごみ屋敷のほうから……なんというか、何かの気配が寄ってきたんです」

「気配……って?」

 二の句が継げず、美代は横目で朱實を見た。

「威嚇するような、あざ笑うような、嫌な感じの気配でした。それが部屋の窓のすぐそばまで来て、じっとわたしを見ている……そんな感じでした。そのあと、気配は数秒で消えちゃったんですけど」

 朱實は答えると、静かにうつむいた。

「それって」美代は正面に向き直った。「この間の幽霊話が関係しているのかもしれないわよ。強烈なイメージとなって脳裏に焼きついちゃって……」

「つまり、気のせいだということですか?」

 気分を害したのかもしれない。美代は正面を向いたまま首を横に振った。

「前にも言ったとおりで、わたしは超常現象とか心霊現象を信じないほうよ。だけど、あなたがうそを言っているとは思えない」

「でもそれって、やっぱり、気のせいということですよね?」

「そういんじゃなくて」

 美代は焦っていた。ここで仲違いしては、すべてが台なしになる可能性がある。

「じゃあ」朱實は言った。「言葉を変えます。わたしもそういった体験は今までに一度もありませんでした。でも、土曜日の夜のあれは、なんというか……幽霊じゃなくて、生きている何かと対面しているような感じだったんです」

 信号が赤になり、美代はSUVを白線の手前で停止させた。

「幽霊ではなく」美代は朱實を見た。「生きている何か」

 朱實は「はい」と頷いた。

「もしかして、日曜日に佐々木さんのお宅に集まったとき、それをわたしに伝えたかったんじゃないの? あなたが不意にわたしから目を逸らしたのが、気になってね」

「……そうなんです。あの場では口に出せなくて」

 面目がなさそうな表情が、フロントガラスの先に向けられていた。

「なら、佐々木さんにはまだ言わないほうがいいよ」

 手のひらを返されたと思ったのか、朱實は「え?」とわずかに眉を寄せた。

 先輩である自分が躊躇してはいけない――美代はそう決意し、口を開く。

「あの場で口にできなかったということは、自分でも半信半疑だったわけでしょう?」

「それは……まあ」

「何かの気配を感じたのは、そのときだけ?」

「あの夜は……そのあとはもう感じなかったし、次の日……日曜の晩は、怖くて、暗くなる前にカーテンを閉めちゃったんですが、そのせいかどうか、気配は感じませんでした」

 一度限りならば、気のせい、という可能性は払拭できないが、それでも美代は否定の言葉を避けようと思った。

「それっきりで済むかどうかわからないけど、まずはわたしたち二人でその現象について考えよう。わたし、まじめに考えるから」

「確かに、今、こんな話を聞かせたら、大家さんは戸惑ってしまいますもんね。でも、あの気配について、本当に一緒に考えてくれるんですか?」

「当然よ。もしかすると、それも謎を解く糸口かもしれないし」

 実のところは、気のせいだろうが超常現象だろうが、どちらでもよいのだ。朱實という仲間を自分に繫ぎ止めておきたかっただけのことである。

「……はい」と朱實が安堵を浮かべてすぐに、信号が青に変わった。

 気をしっかりと持て――そう自分に言い聞かせて、美代はSUVを発進させた。

「ところで、法務局まではバスを使ったんでしょう?」

 正面を向いたまま、美代は尋ねた。

「そうですけど……」

 こちらの機嫌を探るように朱實は答えた。

「じゃあ、アパートからバス停までは、ごみ屋敷のそばを通ったの?」

 訊きたかったのはそれだ。朱實のおののきの具合を確かめてみたかったのである。

「いいえ……遠回りしました」

「怖いから?」

「はい」

 朱實が遠回りしたのが事実か否か、それを立証するすべはない。とはいえ、その答えだけで、美代には十分だった。間違いなく、朱實は「気配」を恐れている。

「そうよね」

 美代は言って、首肯した。

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