第二章 ③
ショッピングモールで菓子折を購入してから佐々木アパートの前にたどり着いた美代と瑛人は、道端に立っていた朱實と合流すると、初見の者同士の挨拶もそこそこに、朱實の案内で、アパートの北に隣接する目的の家へと赴いた。
玄関で出迎えた節子が挨拶がてらに口にした言葉によれば、佐々木宅は築五十年以上であるという。とはいえ、リフォームを施したのは明らかであり、古さは感じられなかった。
通されたのは居間――というより、意外にも洋風のリビングだった。
節子に促されるまま美代と瑛人が並んでソファに腰を下ろすと、節子に軽く会釈した朱實は、美代と向かい合うように夫婦の反対側のソファに着いた。節子は各人にコーヒーを出し、テーブルの中央に菓子皿を置いたうえで、朱實の左に腰を下ろし、野沢夫婦に笑顔を向けた。
「大勢で押しかけてしまって、本当に申し訳ありません」
恐縮の色を呈しつつ、瑛人は節子に頭を下げた。そして彼は、紙バッグから出した菓子折を差し出した。
「お口に合うかどうかわかりませんが」と美代が一言を添えた。
「あらあらまあ、気を遣わなくたっていいのに……」
こんなお決まりのやりとりがあったが、節子が「ありがたくいただきますね」と菓子折を受け取ったところで、美代はようやく気持ちを落ち着けることができた。
「そんなにかしこまらないでね。年寄りの独り暮らしなんだから、若い人が三人も来てくれて、とてもうれしいのよ。さあさあ、冷めないうちに飲んで」
節子にせかされて、三人はコーヒーカップを手にした。もっとも、甘党の瑛人はスティック入りの砂糖の一本ぶんをすべて投入した。
コーヒーを一口飲んだ瑛人が、カップをテーブルに置くなり口を開いた。
「で、さっそくなんですが……」
「ちょっと、いきなりすぎるでしょう」
忖度の感じられない態度が気になった美代は、コーヒーカップを手にしたまま、自分の右に座る瑛人を横目で睨んだ。
「あ、そうだね」焦燥をあらわにした瑛人が、居住まいを正して節子に顔を向けた。「すみません。せっかちでした」
「瑛人さんも美代さんも、いいのよ。大事なことなんだから、世間話で時間を潰すことなんてないわ」
節子の温和な言葉を受けて、瑛人は苦笑した。
「……恩に着ます」
そんな夫に美代はため息をこらえた。もっとも、節子に自分たち夫婦を下の名で呼んでもらえたことには、喜びを覚えていた。夫婦がそろっているのであれば、下の名で呼ばれるのは極当たり前のことだが――。
「じゃあ、本題に入りましょうか。……陣内さんの家のことね?」
確認するかのような目を美代と瑛人に向けた節子が、コーヒーを一口飲み、カップをテーブルに置いた。
「はい」
頷いて、美代もコーヒーを一口飲み、静かにカップを置いた。
「ごみ屋敷が迷惑というのは」節子は言った。「うちの近所の人たちにとっても希望台の人たちにとっても、共通の認識だと思うわ。まずは行政の対応についてなんだけど……二年前にうちの自治会が市に苦情を訴えて、職員があの家を訪問した……でも、そのあとはどうなっちゃったんだか。あの家の中の様子……居間とか寝室もごみだらけなのか、そういうのもわからないままだし、市がごみの強制撤去をしてくれるのかどうかも、わからないまま……そんなところね。そして、それ以外でわたしが知っていることは……大園さんからある程度の話を聞いているのよね?」
節子は野沢夫婦に尋ねるが、その横で朱實が「勝手に話しちゃってすみません」と節子に顔を向けて肩をすぼめた。
「何度も謝らないの」
朱實を横目で見やりつつ、節子は苦笑した。このやりとりは何度かあったようだ。
「わたしが知っていることをまとめますが……」
内容を確認する意味もあり、美代は朱實から聞いた話も合わせて口にした。
その話をひととおり聞いて、節子は頷いて口を開く。
「概ねは、わたしが知っているのと同じね。でも……あえぐような声、っていうのは、大園さんから聞いて初めて知ったのよ。どういった状況でそんな声を出しているんだろうね。それに、美代さんがあの家の窓に見たという女性……それも初めて知ったけど、ちょっとぞっとするわ」
「確かに、おかしな話だとは思います」と返した美代は、陣内宅とは市道を挟んで向かい合う希望台の一軒が悪臭の被害に遭っている、という事実も伝えた。
「やっぱりね」節子は頷いた。「希望台の端のお宅……相田さんだったかしらね、あそこのお宅も災難だったわね」
美代は「団地内の知人」と話しただけで、相田という姓は口にしなかった。相田という姓は、朱實にもまだ話していない。
「佐々木さんは美代さんのお知り合いをご存じなんですか?」
朱實が問うと、節子は苦笑しながら首を横に振った。
「ほら、希望台の東の外れ辺りに団地の案内図があるじゃない。たまたま通りかかったときに見たのよ……市道を挟んで陣内さんの家と向かい合っているお宅が、悪臭のひどいときは大変なんじゃないか、と思って。それで、相田さんというお宅なんだ、って覚えちゃったの。でも、そこのお宅の方とは会ったことがないし、顔もわからないわ」
「なるほど」と瑛人が口にするのに合わせ、美代と朱實は頷いた。
「陣内さんのお宅に女性がいるかどうか……あえぐような声についても、わたしはこれまで知らなかったけど、わかっていることは、もちろん話すわよ」
節子のそんな言葉に美代は「お願いします」と頭を下げた。
「わかったわ」節子は言った。「星野さん親子……峰子さんと望ちゃんが住んでいた頃は、あの家はまとも……というか、手入れが行き届いていて、いつもきれいだった。わたしは見たことがないけど、ワインセラーとして使っていた地下室も、きちんとしていたんじゃないかな」
「あの……」美代は思わず口を挟んだ。「地下室はワインセラーだったんですか?」
「ええ。いろいろと手を尽くして、ワインの保存に適した環境にしたそうよ。ワイン好きの親子だったからねえ」
そう答えた節子の横で、朱實が神妙そうな色を呈していた。同じく知らなかったらしい。
「ワインセラーか」瑛人が言った。「ワイン好きなら、そういった地下室は重宝かもしれませんね」
「峰子さんが望ちゃんを殺害したのが、その地下室だったの」
暗さを呈した節子に、三人の驚愕の視線が集中した。
「じゃあ……」朱實は控えめな声で告げた。「その事件を知ったから、陣内忠志さんは地下室を埋め戻す気になったのかもしれませんね」
それを聞いたうえで、美代は節子に問う。
「使わない地下室ならば、そんな事件があったんだもの、気味が悪いだけのスペースでしかない……ということなんでしょうか?」
節子ならばその辺の事情くらいは知っている――そう睨んだのだった。
「うーん」美代の意に反して節子は首をひねった。「おおかたそんなところなんだろうけど、本当のことはわからないわねえ」
「そうですか」
あの家がごみ屋敷と化した理由に近づけるかもしれない、という期待があっただけに、美代は落胆を隠せなかった。
「でもね、事件の状況が状況だけに、さすがにあの陣内さんだって、気味が悪いと感じたに違いないわよ」
美代の表情を見て取り繕ったにしては、節子のその言葉は意味ありげだった。
「状況……って?」
声を潜めて尋ねたのは瑛人だった。
「あ……言っていなかったっけ?」
節子は朱實に顔を向けた。
「はい。事件の状況については、何も」
朱實がそう答えると、節子は目を閉じて首を軽く横に振り、そして目を開けた。
「そうね、言っていなかったわね。……というより、無意識にその部分を避けちゃったんだわ」
そこで節子は言葉を句切り、深いため息を落とした。
美代はもちろん、瑛人も朱實も、節子の話が再開されるのを、黙して待った。
「事件現場は惨状だったらしいわ」節子は言った。「望ちゃんは全身を刃物でめった刺しにされて死んでいたの。顔もめった刺しで、目視だけでは誰なのかが判別できなかったそうよ。そして峰子さんは、その刃物で自分の首を突き刺した」
節子以外の誰もが息を吞んだ。美代に至っては吐き気に襲われそうになったほどである。
それでも、瑛人がどうにか口を開いた。
「そんなむごたらしい事件が起きた原因は、わからないままなんでしたね?」
「そうなのよ」節子は答えた。「警察の捜査でもわからなかったし、わたしもあの親子の間に何があったのか、まったく気づかなかった。だって、二人が仲よく買い物をしているところを、事件の前の日に見かけたのよ。その当時はショッピングモールはなくて、あの敷地には小売市場があったわ。わたしが最後に星野さん親子を見たのは、そこでの買い物の様子だった」
「不可解な事件ですね」
朱實がそっと漏らした。
「星野峰子さんのご主人は?」
間髪を入れず、瑛人が節子に尋ねた。
「わたしがここに嫁いだときにはもういなかったわ。望ちゃんが高校生のとき、星野さんのご主人は病気で亡くなられたとか」
「そうでしたか」
神妙そうな表情で瑛人が頷くと、またしても沈黙が訪れた。
今回の静寂は長かった。三十秒以上が過ぎた頃、美代はふと思い出し、節子に顔を向けた。
「陣内忠志さんの家の周り……というか、左右と後ろをコの字に囲むように土地が空いていますが、あれは何か意味があるんですか?」
「ああ、あれね。あの土地も、陣内さんちの敷地なの。星野さんが住んでいたときも、同じくあの家の敷地だったわ。それから……あの家の前の部分なんだけど、昔はもっと広かったのよ。前庭があったの。だけど、希望台ができる前……星野さんが住んでいたときに、市道の拡張工事があって、その前庭がほとんどなくなっちゃったのね。それ以前は、あの土地は四方をブロック塀で囲まれていたわ。でも、土地が削られちゃうタイミングで、市道に面した南側と路地に面した西側は、ブロック塀を撤去しちゃったの。峰子さんがね、そのほうが開放感があるし、車の出入りも容易だから、って言っていたわ」
「じゃあ、拡張工事がされる以前は、広い敷地の真ん中に家が建っていた……ということなんですね?」
言葉にしたのは瑛人だった。朱實も驚愕を浮かべている。当然、美代にとっても予想だにしない内容だった。
「峰子さんは地下室だけじゃなく、広い敷地もほしかったみたいね。……違ったかな?」
自問自答の様相をあらわにして、節子は首を傾げた。何しろ三十年以上も昔の事情なのだ。記憶が曖昧になっても致し方ないだろう。
「星野さんが住んでいた頃には、庭は……あの草地は手入れされていたんですか?」
節子に想起を促すかのごとく、瑛人が尋ねた。
「峰子さんも望ちゃんもきれい好きだったから、草刈りはしていたし、花壇を作ったり、マイカーを停めておく駐車場としても使っていたわよ」そして節子は、不意に目を見開いた。「そうだわ……敷地を広くしたのは、星野さんより以前の住人よ」
「星野さん親子が最初の住人ではなかった……ということですか?」
訊くまでもないが、促す意味で、美代は口にした。
「そうよ。確か、星野さんはご主人を亡くされてから五年くらいあとに、神奈川県のどこかから、あの家に引っ越してきたんだったわ。わたしが結婚したのが、その一年後」
「じゃあ、星野さん親子の前に住んでいたのは?」
問いを投げた美代は、自分が理性を失いかけていることに気づいた。
「それがね……ごめんなさい、わからないのよ。よその家のことでしょう……そこの以前の住人についてなんて、訊くわけにもいかないというか、そもそも興味がなかったから」
「謝らないでください」瑛人が言った。「そんな事情は知らなくてもっともです」
美代は自分の失態に気づき、「そ、そうね」と言葉を詰まらせた。
「まずは、わかる範囲から考えよう」美代にそう訴えて、瑛人はおもむろに節子に視線を移した。「陣内さんご一家と星野さんご一家……あの家に越してくる前のその二家族に、いったい何があったのか……どちらか一方、もしくは双方に、何か手がかりになるようなものがある可能性は、否めないでしょう。しかし、それを知る手立ては、今のところ、何もありません。弁護士にでも依頼しなければ、赤の他人がその人の前住所などを知るのはほぼ不可能です。でも、あの家における歴代の世帯……星野さんご一家の前の住人を調べることは、可能かもしれませんよ。この近所に、何か知っている人がいるかもしれない」
「うちの夫だったら知っていたと思うんだけど……それと、義理の両親とか」
明らかに、節子は肩を落としていた。
「ご近所で、大家さんが嫁いでくるより前から住んでいる方は、いませんか?」
打開策に繫がるかもしれない、という質問を呈したのは朱實だった。
「残念だけど、もう亡くなっているか、わけがわからなくなって施設や病院に入ってしまったかで、誰もいないわね。あとは、新しい家に住んでいる若い人ばかり」
節子の暗い表情は続いた。
思えば、この界隈は空き家らしい家屋が多かった。真新しい家には人の住んでいる気配があるものの、節子の言を慮るに、それらの世帯から手がかりを得るのは不可能そうだ。
「法務局に行けば、不動産の過去の所有者が誰なのか、調べることができるはずだな」
瑛人のその言葉に美代は頷いた。
「そうか、法務局なら誰でも登記簿が見られるものね」
「そうさ」瑛人は美代に顔を向けた。「過去の所有者を調べるんだったら、全部事項証明書を申請すればいい」
「人の過去の住所を知るのは難しいけど、不動産の以前の所有者を調べるのは容易なんですね。わたし、そういうのは疎いから」
そう告げた朱實は、わずかに恥じらいの色を浮かべていた。
「ただ、全部事項証明書でその当時の所有者が誰かはわかっても、所有者だったその人が、今、どこでどうしているのか、そこまではわからない」
瑛人が付け加えた。
「当時の所有者の名前がわかるだけでも、手がかりになるかもしれないわ」美代は力を込めて告げた。「八方塞がりの現状なんだから、手がかりは一つでもあったほうがいい。うまくいけば、過去のことがいろいろとわかるかもしれないし」
「過去のことがわかれば」節子が口を開いた。「美代さんが見たという女性のこともわかるかもしれないわね。もしかしたら、陣内さんがごみをためる原因も、そういった過去に絡んでいるかもしれない」
その言葉は美代が抱いている懸念と符合していた。そんな些細なことでも、心強く思えるのだった。
「わたしがあした、法務局へ行って調べてきます」
節子に背中を押された気がして、美代は申し出た。
「全部事項証明書はオンラインでも請求できるよ」瑛人が言った。「ただし、受付は平日のみで、受け取りは郵送か、最寄りの窓口に出向くかだけど」
「きょうは日曜日だからオンラインでも受付はないでしょう。だったら、あしたにでも法務局に出向くわよ。そのほうが早いもの」
瑛人の注釈に美代はそう返した。
すかさず、瑛人は肩をすくめる。
「そりゃそうだ」
「さすがに夫婦ね。いいかけ合いだわ」
節子が笑顔を見せた。
「以前は結婚なんて考えていなかったんですけど、美代さんと瑛人さんを見ていたら、なんというか、いい夫婦、っていうのに憧れちゃいます」
はにかみながら、朱實が言った。
もっとも、美代に至っては、はにかむどころか顔から火が出そうだった。瑛人も同じ気持ちなのか、言葉を失っている。
「まあ、それはそうと」美代はどうにか口を開いた。「まずは全部事項証明書です」
言った美代は、ふと、視線を感じた。
朱實が目を逸らす瞬間だった。
偶然だろう――追求する必要があるとは思えず、美代はあしたの予定を組み始めていた。
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