第二章 ②

 美代が遠慮するそばから緑茶は入れ替えられた。それを飲み干してから、美代はいとまを告げるが、美代の辞去の前に、朱實の申し出により連絡先――スマートフォンの番号やメッセージアプリ、固定電話の番号を交換をした。念のため、美代は自宅の住所も伝えておいた。

 帰路は、来た道を逆にたどった。恵理の目を避けるのは当然だが、必要がない限りは陣内宅の近くを通りたくなかったのだ。鼠の話もその気持ちに拍車をかけていた。

 帰宅した美代は、リビングでソファに腰を下ろした。瑛人と幸太の帰宅は午後の予定であるため、自分の昼食は簡単で済む。二人の帰宅までは時間があるわけだ。

 ため息を落としてテーブルの上を見つめた。朱實から得られた情報を咀嚼しようとするが、動揺しているのか、脳内で物事が縦横無尽に飛び交っている。

 ふと、朱實に伝え忘れたことがあるのを思いだし、上着のポケットからスマートフォンを取り出した。電話のほうが手っ取り早いように感じられるが、若者の大方はメッセージでのやりとりを好む、という傾向であるため、それに則ることにする。

 美代はアプリを立ち上げると、朱實へのメッセージをしたため、送信した。その内容は、自分たち二人がごみ屋敷について情報を集めていることを第三者には漏らさないように、というものだ。こと希望台の住人の誰かに知られたとなれば、一気に拡散されてしまうに違いない。恵理に知られたくないのはもっともだが、それ以上に、田所文江の耳に入れたくないのだ。

 返事はすぐに届いた。

   *   *   *

 わかりましたが、大家さんにもですか?

   *   *   *

 佐々木アパートの大家である佐々木節子は、重要な情報源だ。まだ得られる情報はあるかもしれない。ならば、節子に自分たちの事情を隠しておくのは得策ではないだろう。

 美代は考えた末に、メッセージを送信した。


 午後二時を過ぎた頃に、瑛人の運転する車が自宅のカーポートに収まった。

 玄関で出迎えた美代に、幸太の満面の笑みが向けられた。無論、ゲーム好きの瑛人もほくほく顔だ。

「部屋でゲームをやっていてもいいよ」と美代が伝えると、小躍りした幸太は、手洗いとうがいを済ませると、二階の自室へと向かった。

「やけに寛大だけど、もしかして、相田さんのことで話があるんじゃないのか?」

 リビングのソファに腰を下ろすなり、瑛人が尋ねた。

「相田さん……というか、ごみ屋敷のことでね」

 答えて美代は、瑛人の向かいに座った。幸太の前で話すには支障がある。子供には理解できないような話でも、不穏な空気は伝わるものだ。まして、耳にした話を吹聴される恐れもある。

「例の件、相田さんの家に行って、話してきたんだろう?」

「ええ。ご主人と志穂ちゃんは出かけていて留守だったけど、恵理さんはいたわ」

「そうそう、そうだった」思い出したように、瑛人は言った。「相田さんの旦那さんと志穂ちゃんとに会ったよ」

 美代の脳裏に恵理との会話が浮かんだ。

「もしかして、おもちゃ屋で?」

「おもちゃ屋の近くの駐車場でね。相田さんも、同じゲームが目的だったよ」

「恵理さんが言っていたの……ご主人と志穂ちゃんがゲームを買うために出かけたことを。それにしたって、同じゲームを買うために同じおもちゃ屋に行くなんて、偶然ね」

「だよな。……ところで、奥さんは納得してくれた?」

「ご主人に相談してみるって。本人は前向きね。できれば、今度の月曜日にでも市役所へ行ってみたいそうよ」

「ならば問題はなさそうだけど……ほかにも、何かあったようだな」

 訝しむような目で、瑛人は美代を見た。

「そうなのよ」

 美代は認めたうえで、迂回路を使ってごみ屋敷の近くへ行ったことから、ごみ屋敷の二階に見えた女の姿、朱實との出会い、彼女との情報交換と得られた情報、それらをほかの人たちには漏らさないように注意するなど、子細に渡って打ち明けた。

「で、大家さんとも情報を共有するんであれば、それはかまわないから、うちの主人もその輪に入れてほしい、って連絡したの。はい、わかりました……って返事をもらったわ」

 締めくくりとして、美代はそう伝えた。

「輪に入れてもらえて、よかったよ」

 まんざらでもなさそうな表情で、瑛人は頷いた。

「相田さんご夫婦に内緒ないのは、心苦しいけど」

「おれだって、相田さんの旦那さんとは顔を合わせるから、心苦しいのは同じだよ」

 テーブルの上を見つめながら同調を示した瑛人が、ふと、目を美代に向けた。

「志穂ちゃんが……」

 瑛人は言いよどんだ。

「志穂ちゃんが、どうしたの?」

 美代が促すと、瑛人はおもむろに口を開いた。

「なんだか体調が悪いようなんだ。きのうの夕方辺りから、そうらしいよ。ごみ屋敷の様子が気になるというか、あの家がごみ袋だらけなのが嫌で、気持ち悪いんだとか」

「まあ……そうなの?」

 ごみ屋敷との距離が近いあの場所で暮らすのだから、子供ならばなおのこと気になるだろう。

「子供に影響が出ているんだから、早急にどうにかしなくちゃならない、っていうことだよな。……でも」瑛人は神妙な趣を呈した。「大園さんとか佐々木さんらと仲よくするのはかまわないと思うけど、ごみ屋敷の問題にこれ以上は首を突っ込まないほうがいいんじゃないかな」

 美代にしてみれば手のひらを返すような言葉だった。瑛人を睨むのは当然の行為だ。

「相田さんご一家は困っているのよ。あなただって、ゆうべ、アドバイスしてくれたじゃない?」

「もちろん、相田さんの家族の助けになれたら、と思って言ったよ。でも、やれるだけのことはやったじゃないか。それに今の君……というか、君や大園さんは、相田さんのためというよりも、ごみ屋敷の謎を知りたくて動いている」

 それは事実だが、美代に言い分があるのも事実だ。

「確かに希望台でごみ屋敷の被害を直に受けているのは相田さんのお宅くらいなものよ。でもわたしだって、嫌でもあの道をまた通るかもしれないし、うちの幸太や近所の子供たちがあの近くに絶対に行かない、とは言いきれないわ。幸太本人は志穂ちゃんと同じように、気持ち悪いからあのごみ屋敷には近づきたくない、って言っているけど」

「うん」瑛人は頷いた。「きょう、出先で幸太はそういうことを口にしたよ」

「だったら、ごみ屋敷の問題は相田さんだけのものではない、っていうことでしょう。あの家がどうしてごみ屋敷と化したのか、根本的な理由がわかれば、ちゃんと解決できるかもしれない」

「ちゃんと?」

 話が飲み込めていないのだろう。瑛人は眉を寄せた。

「行政代執行をしても、またごみ屋敷に戻ってしまうかもしれないわ。もしそうなったとしても、根本的な理由がわかっていれば、陣内さんを説得できるかもしれない」

 即興で口にした詭弁である。とはいえ、あながち間違いではないだろう。

「ああ……まあ、そういう考え方もあるか」

 詭弁が通じたらしく、瑛人は小さく頷いた。

 今さら撤回するわけにもいかず、美代は「そうよ」と牽制した。

「子供たちのことを考えれば、徹底的にこの問題と付き合わなければならない……ということか」

 自分に言い聞かせるように、瑛人は口走った。

 美代が「うんうん」と丸め込むそばから、瑛人も「うんうん」とうなる。

「陣内忠志さんという人にたとえどんな理由があろうとも、幸太に何かあったら、わたしは絶対に許さない」

 言葉にしてみて、美代は改めて感じた。ここまで自分がごみ屋敷に拘泥する根源にはそれがあったのだ――と。

 瑛人の心配そうな視線に気づき、美代は見つめ返す。

「わたしが暴走しそうで、怖いの?」

 暴走しないことが前提のような問いになってしまったが、最悪の場合は暴走も辞さないつもりだった。

「君が暴走するのも怖いけど、君が見たっていう……ごみ屋敷の二階にいた女性が誰なのか、気になってね」

 瑛人は表情を変えずに言った。

 陣内宅が何ゆえにごみ屋敷と化したのか――美代が目にした女は、その問題にかかわっている可能性があるだろう。ほかの要因に気を取られて閑却していたが、あの女の存在は無視できない。むしろ、重要とさえ思えた。

「ねえ、あなた」美代は言った。「ごみ屋敷のこと、このままほうっておいたらとんでもない事態になりそうな気がするの。幸太があの近くに遊びに行って何かしらの被害に遭う、っていうのも考えられるけど、それ以外にも」

「……って、どんな?」

「わからない。でも、わたしが見間違いをしていなければ……だけど、あの家に女性がいたことが異様なのは、わかるでしょう?」

「陣内さんは独り暮らしだもんな。それに、そもそもあの家はごみ屋敷だし、あんな家に住人以外の人間がいるなんて、不自然だ」

「だからよ。あなたもそれが気になっているんでしょう?」

 美代が問うと、瑛人はおもむろに頷いた。

「そうだな」

「よく考えてみたら、おかしいもの。何か変。その変なことが、わたしたちのすぐ近くで起きているのよ」

 そう言って美代は、自分の動揺に気づき、息を凝らした。

 瑛人も口を閉ざしている。

 沈黙があった。

 何か言わなければ――と意味のない焦燥に駆られた美代が口を開く前に、瑛人が言葉を紡いだ。

「あした一日、幸太をおやじとおふくろに預かってもらおう」

「え……お義父さんたちに?」

 美代は瑛人の意図を読むことができなかった。

「佐々木さんと大園さんに、一度、会っておきたい。今後のこともあるし、君も含めて、四人で会わないか?」

「あした……四人で?」

「今からでも実家に電話するからさ。まあ、佐々木さんと大園さん……二人の都合次第だけど」

 予期せぬ展開だったが、瑛人が美代の訴えを受け入れてくれた証しなのだろう。ならば、拒む道理はない。

「わかった。お義父さんたちの了解をもらったら、朱實さんに連絡してみる」

 そう答えた美代だが、自分の想像を超える茫漠とした暗闇に足を踏み入れかけている気がしてならなかった。


 夜になって朱實のスマートフォンに美代からの電話が入った。翌日の昼間に美代ら野沢夫婦と佐々木節子、朱實の四人で会おう、という申し出だった。美代の夫の瑛人もごみ屋敷の秘密を探る計画に前向きであるという。

 美代からの申し出を受け入れた朱實は、通話を切るとすぐに節子に電話をかけた。電話口に出た節子もこれに承諾し、四人が顔を合わせる場所とその時刻が、暫定的に決められた。朱實は折り返し美代に電話をかけ、提案された場所と時刻は、それで決定された。

 そして、場所と時刻、それらの決定を節子に伝えて通話を切ると、照明が煌々と照らす居間は、とたんに静寂に包まれた。テレビは消したままだ。外からの音もない。静けさに押し潰されそうになるが、テレビをつける気にはなれなかった。

 そろそろ入浴の準備をしたほうがよいかもしれない。風呂から上がったら、軽い夕食を取ろう。

 ソファに腰を下ろしていた朱實は、立ち上がって南向きの窓辺に寄ると、締めきってあったカーテンをわずかに開いた。夜のとばりは下りているが、空に星は見えない。晴天のはずだが、街明かりが人工の膜を広げているのだ。

 視線を南の一点へと下ろした。得体の知れない何かが、そうさせた。

 いつもと同じ夜景だ。家並みのシルエットの向こうには、希望台が発生源とおぼしき光の広がりがある。

 朱實の視線が固定された。その視線の先には、いくつもの建物が遮蔽物となり、日中でさえこの窓からは目にすることはできないが、ごみ屋敷がある。

 気配があった。こちらが見ている側であるはずなのに、むしろ、見られている側のように感じられた。

 目を逸らそうとしたが、意に反し、眼球は微動だにしなかった。まぶたを閉じることさえかなわない。せめてカーテンを閉じたかったが、手も動かせないのだ。

 気配がぐんぐんと近づいてきた。夜景には何も変わりはない。だが、それは確実に距離を詰めている。

 とっさに後ずさろうとするものの、足も動かなかった。

 見えない何かが、窓のすぐ外に迫った。

 目を逸らすことも逃げることもかなわず、朱實はその気配との対峙を迎えるしかなかった。


 日曜日の早朝に、瑛人の父――ひでかずが軽ワンボックスで幸太を迎えに来た。会社員である秀和は六十二歳であり、定年まであとわずかだが、にもかかわらず、片道六十キロの一般道を休憩なしで車を走らせたという。

「ばあちゃんが待っているから、早く行こうな」

 助手席の後ろに着いた幸太に、運転席の秀和は声をかけた。

 秀和は軽ワンボックスを門の前に横づけにしており、運転席に乗ったまま、一歩も車外に出ていない。家の中の者たちをクラクションで呼び出し、ドアガラスだけを開けて会話する始末だった。

「それはいいけど」運転席側の外で瑛人は言った。「どこかで休憩を取ってくれよ。幸太を乗せているんだからさ」

「ああ、わかっているよ」

 孫とのドライブができてうれしいのか、笑顔の秀和は気もそぞろといった様子だ。

「おじいちゃんとおばあちゃんの言うこと、ちゃんと聞くのよ」

 幸太のシートベルトを締めつつ、美代は諭した。そして、「うん」と頷く幸太に笑みを見せ、ドアを閉じる。

 夕方前にはこちらから迎えに行く旨を瑛人がくどくどと訴えると、秀和は「わかったわかった」と面倒そうに答え、瑛人の脇に立った美代に「それじゃあ、行くね」と笑顔を向けた。

「お義父さん、よろしくお願いします」

 頭を下げた美代に片手を振り、秀和は軽ワンボックスを発進させた。

 遠ざかるリアガラスに幸太の頭は見えないが、彼の右手だけが元気よく振られていた。

 幸太には見えない、と知りつつ右手を振り替えした美代は、軽ワンボックスが辻を右折して視界から消えると、手を下ろしてため息をついた。

「君もやっぱり心配だよな。おれが送っていけばよかったかな……」

 そうこぼす瑛人に美代は顔を向ける。

「わたしのため息……そんなんじゃないわよ」

「違うの?」

「これからの予定よ。朱實さんたちと会うために、小細工をするわけでしょう」

 得心がいったらしく、瑛人は「ああ……うん」と頷いた。

 会合の場所は佐々木節子の自宅となっていた。節子の申し出によるものだ。しかし、美代と瑛人が一緒に歩いていけば、迂回するにしても、それなりに目立つだろう。ゆえに二人は、車でショッピングモールまで出かけ、その駐車場に車を置き、そこから歩いて佐々木宅まで行く――という算段をつけたのだ。

 佐々木宅を訪問する時刻は午前十時半だ。ショッピングモールの開店時間の三十分後である。

 どんよりとした空模様だった。天気予報によれば雨の心配はないとのことだが、不穏な空気は否めない。少なくとも美代にはそう感じられた。

「とにかく、準備をしておきましょう」

 美代が促すと、瑛人は「そうだな」と返した。

 瑛人に遅れて門に入ろうとした美代は、ふと足を止め、北の方角に顔を向けた。

 空を覆う灰色の雲は、北のほうの一部だけが濃いように窺えた。もしくは、ごみ屋敷が雲を集めているかのようでもある。

 身震いをこらえた美代は、正面に向き直って足を前に出し、瑛人の背中を追った。

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