第二章 ①

 佐々木アパートの大家である節子は、三十四年前に佐々木だいすけと結婚し、故郷の山梨県を離れてこの土地に移り住んだ。大介は会社員だったが、大介の父――すなわち節子にとっての義父が、佐々木アパートの当時の大家だった。節子が嫁いでから八年後に義父は心臓発作で他界し、会社勤めの大介や病気がちの義母に代わって、自らの希望により、節子がアパートの管理を担った。名義上は義母が大家を受け継いだが、その義母も自分の夫を追うように病床で息を引き取り、今から二十七年前に、節子は正式に佐々木アパートの大家になったのである。節子と大介の夫婦には娘が二人いるが、そのいずれもが相次いで嫁ぎ、それからしばらくして――今から五年前に、大介は脳梗塞で帰らぬ人となった。こうして現在の節子は独り暮らしとなったわけだが、この界隈の三十四年間を見てきた生き証人であるのは間違いない。

 佐々木節子が朱實に伝えた話によれば、三十四年前には、すでにあのごみ屋敷は存在していた――否、その当時は、まだごみだめにはなっておらず、普通の民家だった。当時のあの家に住んでいたのはほしみねのぞみという母娘だった。四十代の峰子と二十代前半の望は、どちらも会社員であり、男手はないものの、暮らし向きはそれなりによかった。また、二人とも社交的なため、近所との付き合いも良好だった。節子もこの母娘とは交流があった。

 だが、三十三年前のある日、峰子は望を殺害し、犯行後に自殺した。犯行の原因は現在でも不明ということだ。

 そんな事件の数カ月後にあの家に越してきたのが、陣内ただの一家だった。忠志を長とし、妻のともと大学生の息子であるじゅんいち、という三人家族である。

 しかしこの家族にも家庭内のトラブルが勃発した。これにより、知美と順一は家を出てしまった。あの家の敷地にごみが放置されるようになったのは、その直後からだった。


 ごみ屋敷が殺人現場だった、という話に美代はすくみ上がりそうになった。それでもどうにかこらえ、平静を装う。

「つまり、あのごみ屋敷に今住んでいるのが、陣内忠志、という人なのね?」

 美代が確認すると、朱實は「そうです」と答えた。

「陣内さんの一家が住む前に別の住人がいた、というのは初耳だけど……でも、今のあの家には陣内さん……陣内忠志さんが一人で住んでいるということでしょう?」

 重ねた問いに、朱實は頷く。

「そうですね。大家さんも、今の陣内さんは独り暮らしだ、って言っていました」

「じゃあ、わたしが見たあの人……二階の窓辺にいた女性は、誰なんだろう?」

「出ていった奥さん、とか」

 そう口にして、朱實は自嘲気味に笑った。

「可能性はあるんだろうけど、でも一度出ていった奥さんが、ごみだらけのあんな家に戻ってくるかしら」

「さあ」朱實は首を傾げるが、すぐに口を開く。「そういえば、陣内さんご夫婦は、別居した翌年に離婚したそうですよ」

「そんな情報まで……それも大家さんから聞いたの?」

「大家さんは陣内忠志さんとの交流はほとんどなかったんですが、奥さんの知美さんとは仲よくしていたんです。それで大家さんは、あの家を出ていったあとの知美さんと手紙のやりとりをしばらく続けていたんです。しばらく……ですけど」

「なるほど。それで、そんな情報も大家さんは知っているのね。だとすれば……離婚しているのは確実なんだから、なおのこと、わたしが見かけたあの人は奥さんではない……ような気がする」

 断言したかったが、あらゆる可能性がある、と考えての言葉だった。

 ふと思い、美代は居住まいを正して尋ねる。

「知美さんのご実家は、どこなのかしら?」

「福島県のどこからしいです。でも、実家には戻らなかった……というか、実家には兄夫婦がいるということだったので、戻れなかったんでしょうね。……まあ、わたしの実家にも兄夫婦がいるんですけど」朱實は失笑して続ける。「それに陣内さんの息子さん……順一さんは、都内の大学へかよっていたので東京を離れるわけにはいかなかった……知美さんはそんな順一さんと、少なくとも二年くらいは一緒に暮らしていたようです」

「そうか……じゃあ、二人が引っ越した先は都内のどこか?」

「そうらしいです。でも、大家さんが最後に出した手紙が、宛先不明という理由で戻ってきてしまったので、さらに住所を変えたようです。手紙のやりとりで知らされた番号の固定電話にかけてみたそうなんですが、やっぱり通じなかったとか。大家さんと知美さんは、少なくともその当時は携帯電話を持っていませんでした。だから、固定電話しか番号の交換なんてしていないし、ほかに連絡の手段はなかったんですよ」

 三十年以上も前ならば、スマートフォンは存在していないばかりか、二つ折りの携帯電話でさえ現在のスマートフォンほどは普及していなかったはずだ。

「じゃあ、今は連絡をつけることができない、ということなの?」

「知美さんがどこでどうしているのか……順一さんが大学を無事に卒業したのかどうなのか……何もわからないそうです。順一さんがかよっていた大学がどこなのかも聞いていなかったというので、そっちからの情報収集も無理だったんでしょう」

 もとより、節子にはそうまでして知美の足取りを調べる意味がなかったのかったのかもしれない。むしろ、こうしてごみ屋敷にかかわる逸話を知ろうとしている自分が常軌を逸している、と美代には思えてしまう。

「ちなみに」朱實は言った。「陣内忠志さんの実家は、茨城県の北部なんだそうです。そのことも大家さんは知美さんから聞いたらしいんですが……忠志さんがあの家に住み続けるのは、実家に戻れない理由があるからなのか、そもそもあの家が気に入っているからなのか、それはわからないままです。大家さんと忠志さんとの付き合いがないばかりじゃなく、離婚直後に忠志さんが自治会を抜けてしまったので、ご近所の誰もが忠志さんの近況もあの家の様子も知らない、というわけなんです」

「以前の陣内家は、佐々木さんと同じ自治会に入っていたの?」

「はい……というより、前の世帯の星野さんも、同じ自治会に入っていたそうです」

「そうなんだ」美代は頷いた。「まあ、自治会に入るのであればその土地の自治会以外にはないでしょうけど。とにかく、少なくとも今の陣内忠志さんは、大家さんやご近所との付き合いがないのね」

「そうですね」

 朱實は首肯してくれたが、陣内が独り暮らしであることを裏づけるような情報ばかりだった。自分の見かけた女が誰なのか、美代はその問題がますます遠くなりそうな気がしてならない。そればかりか、ばかげた妄想が浮かんでしまう。

「陣内さんご一家の前に住んでいた親子って、あの家の中で亡くなっているのよね?」

「はい」

「もしかして、わたしが見かけた女性はその二人のうちのどちらか……」

 口にしてから後悔した。程度が低いと認識されるのは、さすがに耐えがたい。

「幽霊、っていうことですか?」

 神妙な表情だった。これは朱實の隙の表れかもしれない。撤回するのであれば、今のうちだろう。

「まさかね……ありえないわよ。今のは、ナシナシ」

 苦笑しつつ、美代は自分の顔の前で右手を横に振った。

「というか」美代を見つめる朱實は、表情を変えなかった。「それって、ありうるかもしれません」

「……何を言っているの?」

 予想外の反応を受けて、美代は逡巡した。

「美代さんは、霊を信じませんか?」

「ええ……どちらかといえば、信じないかな」

 心霊話を撤回した自分が押され気味であることが、美代には解せなかった。

「でも、もし美代さんが中古物件を探していて、いい条件だと思ったそれが事故物件だったら、どうします?」

 朱實の双眼に力が入った。

「それは……」

「霊の存在を否定しても信仰心を持っている、という人は多いです。霊を信じていないけどお化け屋敷や怪談は怖い、という人だってたくさんいます。本当は多くの人が心の底では信じているんじゃないんでしょうか。もしくは、それの存在に気づいている」

「気づいている……って、まるで、幽霊が実在することがありき、みたいよ」

「あくまでも仮定です。わたし自身は、霊の存在については肯定も否定もしません。見たことがなければ、否定するための根拠も知りません。ですから、霊が実在するとすれば、美代さんが見たのがそれである可能性も考えられる、というだけの私見です」

「ああ……そうかもね」

 わずかに疲れを覚えた。朱實は「弁が立つ」というよりは理屈屋のようだ。もっとも、大学を出たばかりの頃の美代も、何人かの仕事仲間からは今の朱實と同じように思われていた可能性があった。自省すると同時に、若輩の相手に寛容さを持って接しなければ、と心得る。仕事で自分が経験した人間関係の複製をここに作るのは、得策ではない。

「幽霊については、ちょっと置いておかない?」

「は、はあ」

 美代の提案に朱實は虚を突かれたような色を呈した。この機に、忘れかけていた問題を俎上に載せてみる。

「陣内さんご一家に起こった家庭内のトラブル……って、さっき、言ったわよね?」

「ええ」

「そのトラブルがどんな内容だったのか、大家さんは何か言っていなかった?」

「ああ」朱實は得心がいったような表情を呈した。「言うのを忘れていました。確か、家のリフォームで、忠志さんと知美さんがもめたんだとか」

「リフォーム……じゃあ、資金のやりくりとか?」

「はい。資金のやりくりが問題みたいでした」

 そこで朱實は口を閉ざし、考え込むように座卓に視線を落とした。

「どうしたの?」

 美代が声をかけると、朱實は視線を上げ、口を開いた。

「あの家には、昔、地下室があったそうなんです」

 どのように反応すべきか、美代は躊躇した。そもそも地下室を有するような家屋ではない。少なくとも、美代にはそう思えた。しかし、それは寡聞ゆえの偏見かもしれない。安易には口にできない、ということだ。

「地下室があるようには見えないと思いますが」

 そう付け加えてくれたおかげで、美代は安堵した。

「そうね。そんなふうには見えないわ」

 それが一般的な見解だろう。

「その地下室は星野さん親子が住んでいたときからあったようなんですが、忠志さんはそれを埋め戻すことにしたんですよ。リフォームというのはそれだったんです。そして、奥さんはその工事に反対したんです」

「反対して、出ていってしまった……そして順一さんも出ていったということは、順一さんもリフォームには反対していたのね?」

「子細はわかりませんが、おそらくはそうだと思います」

「順一さん、自分の学費とかも考えちゃったのかなあ」

 人ごとではなかった。いずれは野沢家にも到来する問題なのだ。

「そうかもしれませんね」朱實は言った。「それに、知美さんと順一さんが反対しているそばから、埋め戻しの工事は施工されてしまったんです」

「二人が出ていく前に?」

「というより、工事が始まっちゃったから、二人は出ていったんでしょうね。ある日、突然、作業員たちがやってきて、知美さんと順一さんが見ている前で、工事が始まってしまったんです。……大家さんとの手紙のやりとりで知美さんが打ち明けた内容によると、あの家に越してきてから忠志さんは人が変わってしまったそうです。忠志さんは会社員でしたが、家にいる間はいつも一人で何やら考えごとに没頭していて、独り言を繰り返したり、そうかと思えば無口になったり。そういったことも、二人があの家を出ていった原因らしいです」

 そこまで聞いて、美代は陣内忠志という人物にどす黒い影を感じた。狂信的な人物という印象を抱き始めていたところだが、むしろ、陣内は何かに取り憑かれているのではないのだろうか――そう思えてならない。

「あの家がごみ屋敷と化したのはその直後なのよね?」

 美代の問いに朱實は「はい」と首肯した。

「じゃあ、地下室を埋め戻したのは、今の状況と無関係であるはずがないわ」

「あの家の地下室がどんなふうだったのか、それを突き止めれば、あの家がどうしてごみ屋敷になってしまったのか、理由がわかるかもしれません」

「そうね。まあ、そんなに深い理由はないかもしれないけど」

「そうですか?」

「だって、ごみ屋敷なんて日本中のあちこちにあるのよ。概ねは社会的孤立が原因だとか。ほら、陣内忠志さんだってそうでしょう」

「高齢者で独り暮らしだし……そうですよね。孤立による……不安とか怒りとか、そういった精神的状態が、ごみを堆積させるという異常行動を誘発させる。でも、仮に忠志さんがそうだとしてですよ、わたしたちがこうして詮索しても……それによって原因がわかったとしても、わたしたちで問題を解決に導くことなんてできるんでしょうか?」

 痛いところを突かれた気がした。謎の追究が問題解決に結びつくか否か、自信がないのである。ゆえに、解決に導く手はずが別にあることを打ち明けなければならない。

「わたしの知人がごみ屋敷のにおいに悩まされている、って言ったでしょう?」

「はい」

「その人に、さっき伝えたの。行政を動かすことができる、ってね」

「それって、もしかして、行政代執行……というやつですか?」

「そう、それよ」

 美代が認めると、朱實は深く頷いた。

「だったら、安心ですね。わたしたちが何かと調べる必要はなくなります」

「それとこれとは別よ」

 一瞬もためらわずに、美代は突き返した。

 あきれたような表情を見せた朱實が、すぐに笑みを浮かべる。

「ですよね。でなきゃ、お互いにこうまで盛り上がったりしませんもの」

 期待どおりの反応を得て、美代も笑みを浮かべた。

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