第一章 ⑥

 ごみ屋敷の横からショッピングモールへと至る道の途中にそのアパートはあった。濃灰色の塗装など外構リフォームは施されているようだが、この界隈の風情に溶け込む作り自体は、レトロとしか言いようがない。もっとも、二階にある彼女の住戸は、玄関内にせよ畳敷きの居間にせよ整理整頓が行き届いており、モダンな調度も相まって、古さを感じさせなかった。

「むさ苦しいところで申し訳ありません」

 台所でお茶の準備をしつつ、ショートレイヤーの彼女――大園朱實は言った。

「そんなこと……とてもきれいにしているわ」

 座卓を前にして座布団に正座する美代は、率直な感想を口にした。そして、働いていた頃は親元で暮らしていた美代だからこそ、独り暮らしの朱實に引け目を感じた。

 朱實がトレイを持って居間に入ってきた。美代の向かいに腰を下ろした彼女は、傍らにトレイを置くと、そこから取った湯飲み茶碗を美代の前に置いた。茶托とセットの湯飲み茶碗の中で、緑茶が湯気を立てている。

 次いで朱實は、茶菓子の載った皿を美代の側に置き、最後に自分の前に湯飲み茶碗を置いた。

「めったにお客さんなんて来ないので、こんなものしかなくて」

 心苦しそうに言う朱實から視線を皿に落とせば、いくつもの黒々としたかりんとうがあしらってあった。

「あら、おいしそうよ」

 客人なのだから不服など訴えられるはずもないが、和菓子好きだからこそ構えずに出せた言葉だった。

「よかったです」

 遠慮がちにそう返した朱實は、美代が調子を合わせただけ、と受け取ったようだ。しかし、言い開きは相手を不快にするだけだ、と悟り、美代はただ黙して笑みを浮かべる。

「どうぞ」と促され、湯飲み茶碗を手にした美代は、緑茶を一口すすった。久しぶりに飲んだ緑茶だが、味などわからない。妙な緊張感だけが、喉から胃へと流れ込む。

「えっと……ごみ屋敷に住んでいる人……陣内さんのことだったわね」

 そう口にしてから、美代は湯飲み茶碗を茶托に載せた。そして、知り合ったばかりの人物の住処になぜ招かれたのか――それをつかの間、回顧する。


 ごみ屋敷に背中を向けた美代は、若い女を目の前にし、声を失った。その若い女は人差し指を自分の口の前に立てると、美代を路地の奥へといざなった。そして十数メートルほど歩いて立ち止まった女は、美代に「あの家に住んでいる人を知っているんですか?」と尋ねたのである。無論、美代は否定した。否定した勢いで、「あなたはごみ屋敷について何か知っているの?」と尋ね返したのだった。

 女の申し出により、話は彼女の住戸で続けることになった。ごみ屋敷について知りたい、という欲求を抑えきれないのは事実であり、美代は誘われるままこのアパートへとついてきたのである。


 朱實は自分の湯飲み茶碗には手をつけようともせず、黙して美代を見つめていた。その沈黙が、美代に「早く話せ」と催促しているかのようだった。

「わたしはごみ屋敷について何も知らないの」美代は言った。「わたしは希望台に住んでいるんだけど、自宅とごみ屋敷とは距離があるから、ごみのにおいによる被害は受けていないわ。でも、団地内の知人宅がごみ屋敷のすぐそばで、そのごみ屋敷との間に市道が走っているけど、結構、被害を受けているのよ」

「それが気になって、あのごみ屋敷を見ていたんですね。えっと……野沢さん……でしたよね?」

 恥じらうように、朱實は肩をすぼめた。

 人の氏名など一度聞いただけでは覚えられないこともあるだろうが、この居間に入ってすぐに、自分の氏名をどう書くのか、それを互いに伝え合ったのだ。それでもうろ覚えだったことに、美代はわずかな不服を感じてしまう。

 朱實のほうではどうなのかわからないが、少なくとも、美代が自分の名前の書き方を打ち明けたのは相手の警戒心を解くためだ。尋ねたことに答えてもらうには、良好な関係を築くのが得策である。すなわち、ここに来てまで話の続きをするのは、朱實の質問に答えるのが目的ではなく、新たなる情報を得るためだった。

「ええ、野沢美代よ」

 美代が淡々と答えると、朱實は「はい、そうでした。すみません」と恐縮の色を濃くした。

「それより」美代は話題を元に戻す。「さっきの様子からすると、朱實さんもあのごみ屋敷をだいぶ意識しているみたいね」

 自分はそちらの名前をきちんと覚えている――それを暗に訴えるつもりで、美代は朱實を下の名で呼んだ。

「はい。通勤であの家の近くを歩くので、前から気になっていました。においも気になるし……いつもじゃないんですが、ときどき、においがかなりひどくなるんです」

「悪臭がときどきひどくなるのは、わたしも知っているわ」

「ひどいときには、あのにおいが美代さんの家まで届くんですか?」

 朱實までが美代を下の名で呼んだ。しかし表情からすると、対抗心を抱いているふうでもない。美代に下の名で呼ばれたことに親近感を覚えた可能性がある。心を開いたわけではない美代だが、会話を円滑に進めることに役立つならば互いにこの呼び方でよいだろう、と思った。

「どんなにひどくなっても、うちまで届くことはないわ。でも朱實さんは、においがひどくないときでも、通勤とかであの近くを歩くたびに、嫌でも嗅いでしまうのよね?」

「はい」

「このアパートまで悪臭が届くことはあるの?」

「いいえ。ひどいときでも、ここまでは届かないです」

「そう。でも、ひどいときにあの家の近くを通ったら……」

「はい。それはもう、たまらない、としか言えません。それに、前に一度だけですが、あの家の横を通ったとき、その裏の空き地に広がる草むらに……ドブネズミっていうんですかね……一匹の大きな鼠が走っているのを、見ちゃったんです」

「鼠……」

 美代は全身が泡立つのを覚えた。今のところ、希望台で鼠を見た、という話は耳にしていない。とはいえ、生ごみを放置していれば、ドブネズミでもクマネズミでも寄ってくるのは当然だろう。

「あのときは、心臓が飛び出すかと思うくらいおののいちゃいました」

 そう声を潜めて、朱實は眉を寄せた。

「わたしもその場にいたら、驚いちゃうわよ」

「でも」朱實は苦笑した。「通勤ルートを変えるとかなり遠回りになっちゃうんで、今でもあそこを通っているんです。あれ以来、鼠を見ることもないし……というか、たまたま目にしていないだけかもしれませんが」

 朱實は諦めてその道を使い続けているのだろう。だが、ショッピングモールへの近道とはいえ、ただでさえごみ屋敷を忌避している美代は、迂回路を選択したい、という気持ちになっていた。

「鼠がいるせいか、猫もたまに見かけるようになったんです」

「野良猫がごみ屋敷の周りをうろついている、という話は、わたしも聞いている」

 そう返して、美代は首肯した。

「このアパートに住み始めて一年半になりますが、野良猫の姿は、引っ越してきた当初から見ています。夏にあの近くを通れば蠅が飛んでいるし……もう、生き物の宝庫ですね。そうそう、においがひどくない期間でも、やっぱり夏になると、冬よりはそれなりににおいは強くなりますよ」

 そこで、ふと、朱實が真顔になる。

「それにしても、お知り合いが影響を受けているとはいえ、どうして美代さんはそこまで熱心に調査しているんですか?」

 調査――などという大げさな言葉を用いられて美代は困惑するが、ただただ、家族三人が希望台で安穏な生活を送れるようにしたいだけなのだ。それには、相田家との良好な関係が不可欠である――それ以外に理由などなさそうだが、心の隅に引っかかるものがあった。

 美代は考えあぐんだ。乗りかかった船、という心境でもない。何が自分をこうまで駆り立てるのか――。

 ふと思い、美代は言う。

「あのごみ屋敷、何か違うのよ」

「違う……?」朱實は首を傾げた。「ほかのごみ屋敷とは違う、とかですか?」

「違うというか……異様すぎるというか……」

 美代が言葉を濁すと、朱實は不審そうに眉を寄せた。

「実はね」美代は言った。「近所の人から聞いた話なんだけど、あのごみ屋敷から変な声が聞こえたそうなの。学校帰りの女子中学生が耳にしているのよ。うめき声というか、あえぎ声というか。知人が受けている被害も気になるけど、変な声がするだなんて、そんなことを聞いちゃったから、余計に落ち着かないの」

「それ……その変な声、わたしもごみ屋敷の近くで耳にしました」

 神妙な趣でそう打ち明けられ、美代は目を見開いた。

「本当に?」

「本当です。確か……今週の月曜日の夜でした。男性か女性か、聞き分けられなかったんですが、気味の悪いあえぎ声でしたよ」

「女子中学生が聞いたのも、今週の月曜日だったわ。部活の帰りだから、午後七時を過ぎた頃だと思う」

 美代のそんな言葉を受けて、朱實は小さく頷いた。

「たぶん、わたしがそこを通ったのはそのあとですね。午後七時半の頃です」

「同じ声、と思って間違いないみたいね」

 とはいえ、そのあえぎ声を放っていたのは誰なのか、どういった状況でのあえぎ声だったのか、まだ解明はされていない。しかも、気になる要因はまだ残されている。

「もう一つあるの」美代は続けた。「朱實さんに声をかけられるちょっと前に、ごみ屋敷の二階の窓に女性の姿を見たのよ」

「女性? 高齢の男性ではありませんでしたか?」

 そう問われて美代は首を横に振った。

「たぶん女性。少なくとも高齢の男性ではないわ。特徴は、顔が青白くて髪が長い……そのくらいしかわからなかったけど。あと……その直後に、作業着姿の高齢の男性が、勝手口からあのごみ屋敷に入っていったのよ。その男性が、陣内さんなんじゃないかしら」

「そっか……二階にいたのが陣内さんでは、タイミング的に合わないですもんね」

「ええ。……それはそうと、どうして朱實さんはあそこにいたの?」

「わたしは、その陣内さんを追ってあそこに行ったんです」

「追って?」

 想定外の内容だった。美代は口をつぐんで朱實の言葉を待つ。

「ショッピングモールで陣内さんを見つけて、あとを追ったんです。普段の買い物とかでどういうルートを使っているのか、それを知りたくて。知ったところでどうしようもないんですが、やっぱりわたしも、気になっちゃって……」

 動機は似ているのかもしれない。まだ心を開く気にはなれないが、情報の交換は続けるべきだろう。

「行動パターンの把握をしておきたい……それであとを追った、というわけね?」

「そんな感じですが……追跡の最後の頃は、あの空き地に出る道を進んでいる、とわかったので……というか、あまりにも狭い道で、つけているのがばれそうで怖くて、わたしは一本隣の道に移ったんです。そうしたら、美代さんがいました」

「そうだったのね……」そして美代は、さらなる事実に気づく。「陣内さんは裏の勝手口から出入りして、しかもあの道を使っているから、通りのほうからはそういった行動が見えなかった……」

「そうですね。陣内さんの姿を目撃した人が少ないのはそのためだった、と思います」

「きっと、間違いないわ」

 得心がいって美代は首肯するが、一方の朱實は訝しげに眉を寄せた。

「でも、あのごみ屋敷に女性がいるなんて、考えにくいです」

「陣内さんが独り暮らしであることは、耳にしているけど」

「そのとおりです」

 そう応える朱實に、美代は疑念を抱いた。

「変なことを訊くようだけど、朱實さんのご実家は近いの?」

「いいえ。実家は埼玉県の……」

 朱實の実家は埼玉県の北部だった。実家には両親と兄夫婦がいるという。

「なら、この近辺の事情には詳しくなくて当然、と思えるけど」

 美代が鎌をかけると朱實は「ああ」と得心がいったように声を漏らした。

「陣内さんのことは、アパートの大家さんから聞いたんです」

「大家さん……じゃあ、古くからこの土地に住んでいる方?」

「そうですね。女性の方で、三十五年前にここに嫁いできたんだとか。でも、旦那さんはもう亡くなっています」

 ならば、その大家はこの界隈の三十五年前の状況を知っている可能性があるだろう。光明が見えた気がした。

「朱實さんはあのごみ屋敷について、ほかにも大家さんから何か聞いていない?」

 数秒の間があった。

 美代を見つめるのは懐疑があるからだろうか。その双眼はまばたきもせずじっと固定されていたが、やがて小さな吐息が漏れ、沈黙は終わった。

「ええ、聞いていますよ。どこまで話していいのか考えていたんですが、美代さんになら、大家さんから聞いたことを全部話してもいい……と、たった今、決めました」

 朱實も心を開いていなかったのだ。しかし――。

「わたしの何がよくて話す気になったの?」

「その熱意です」

 表情を崩さずに、朱實は言いきった。

 美代は思わず失笑する。

「頑張った甲斐があったわ」

 美代がそう告げると、そこでようやく、朱實は自分の湯飲み茶碗を手にした。

 美代も二口目をすするが、自分の熱意に反して、茶はすっかり冷めていた。

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