第一章 ⑤
この日に発売予定のゲームソフトを買うために、瑛人と幸太は朝食を済ませると、よそ行きに着替え、すぐに車で出かけた。万全を期す、という張りきりようの瑛人は、都心の玩具専門店で購入するらしい。車の後部座席に収まった幸太は、満面の笑みだった。
一学期の成績がよければ好きなものを買ってあげる――これは夫婦と幸太との間でなされた約束だった。夫婦にしても幸太にしても期待どおりの結果だったが、美代は内心、こんな約束は今回限りにしよう、と思っていた。学習そのものに興味を抱いてくれなければ、先々が思いやられる。これを幸太に打ち明けるのは気が重いが、瑛人でさえ納得してくれるか否か、定かではない。何せ、瑛人自身が大のゲーム好きなのだ。
とにかく、自分の時間はできた。午前十時を過ぎた頃、きょうの予定で一番重要な課題を消化するために、上着のポケットに入れたスマートフォンとジーンズのポケットに入れた玄関の鍵以外は何も持たず、美代は外出した。
日差しがあり、風は穏やか――という好天に恵まれた朝だった。使命を果たさなければならない美代にとってはどうでもよい空模様だが、瑛人と幸太にとっては絶好のお出かけ日和というわけである。
今回も希望台の道に人々の姿は少なかった。高齢者とおぼしき何人かが立ち話をしているのが横道の先に見えただけだが、性別さえ判別できないほどの距離であり、美代は気づかないふりをして先を急いだ。
誰ともすれ違うことなく、美代は相田宅の前に到着した。
見れば、カーポートに黒いミニバンがない。留守の可能性はあるが、門扉のない門をくぐり、玄関インターホンのボタンを押した。
すぐに「はい」と返事があった。恵理の声だ。
「おはようございます。美代です」
インターホンのカメラに顔を向けて、美代は言った。
「ちょっと待ってね」と答えた恵理が、十秒と経たずに玄関ドアを開けた。
「よかった。車がないから留守かもしれない、と思いました」
「ああ……うちの人と志穂は、ゲームソフトを買うために車で出かけちゃったのよ」
うちと同じ――と口にしそうになり、美代は言葉を吞み込んだ。伝えるべきことを伝えなくてはならない。
「ごみ屋敷のことで……」
そう切り出して、美代は恵理の顔色を窺った。
案の定、恵理は表情を曇らせている。
「ごみ屋敷が……どうしたの?」
「ここの自治体にはやっぱりごみ屋敷条例が制定されているんですって。自治会を通さなくても、市役所に相談すれば行政代執行がおこなわれる可能性があるらしいんです」
「もしかして」恵理はすぐに不審そうな色を呈した。「あれを聞いたの?」
「あれ……って?」
意味がわからず、美代は首を傾げた。
「田所さんの奥さんのこと」
そう言われて、美代は度を失った。どこを見ればよいのかわからず、意図せずに目を背けてしまう。
「やっぱりね。だから、ごみ屋敷条例とか行政代執行のことを教えるために、わざわざ来てくれたんだ?」
恵理は得心がいった様子だった。
「すみません。立ち話で耳にしてしまいました」
立つ瀬がなく、美代は肩をすぼめた。
「いいのよ」恵理は苦笑した。「でも、田所さんの奥さんから聞いたわけじゃないんでしょう?」
「はい」
美代が頷くと、恵理は安堵を浮かべた。
「本人が吹聴しているんなら先々が不安だけど、そうでなければ、まあ、どうってことないわ」
田所文江が根に持っていなければ問題はない――ということなのだろう。現状でも話が拡散される可能性は払拭できないが、どうやら恵理にとってそれは些細なことらしい。
「吹聴といえば、ごみ屋敷から変な声が聞こえた……って、誰かが言いふらしているようね」
正直に答えるべきか迷い、美代はとりあえず「そのうわさはわたしも聞きました」と口にした。
「あたしはそんな変な声なんて聞いていないし、志穂もうちの人もやっぱり、そんな声は聞いていない、って言っていた。肝心なのはごみがたまっていることなのに、そんな心霊現象みたいな話が広まったら、ごみ問題がなおざりにされてしまいそう」
瑛人でさえその変な声の話題に興味を引かれていたのだ。重箱の隅をつつかれているようで胃が痛くなりそうだが、美代は話を合わせる。
「それもそうですよね」
「ところで」恵理は言った。「美代ちゃんが言った条例ね、あたしもうちの人も知っていたのよ」
「そうなんですか?」
ならばなぜ、行動に出ないのか――それも含めての言葉だった。
「二年前に市の職員がごみ屋敷を訪ねたでしょう。あれっきりだったから、市に相談しても無理なのかなあ、って夫婦で話していたの。それに、自治会を通さないと、田所さんの奥さんに文句を言われそうで」
「自治会の問題としてではなく、あくまでも恵理さんのお宅が困っている、ということでの相談ならば、田所さんも文句は言えないんじゃないんでしょうか。むしろそこまで口出ししたら、たとえ田所さんでも、希望台のみんなから非難を受けますよ」
もっともらしく言ったが、ゆうべ、就寝前に瑛人が口にした言葉だ。
「それもそうよねえ」
そう返した恵理が、何度も頷いた。
「それに、訴えたのが個人ならば、誰が苦情を出したかなんて市が公表するわけないはずですし」
「うんうん」
恵理は頷き続けた。
「どうでしょう?」
伝えるべきことは伝えた。あとは、恵理の――相田家の考え次第である。
「うちの人が帰ってきたら、相談してみる。できれば、今度の月曜日にでも市役所へ行ってみたい」
「早いほうがいい、とわたしも思います」
こちらの意向は伝わった――と認識し、美代は内心で胸をなで下ろしていた。もっとも、行政代執行が実施されるか否かはまだわからない。仮に自治体への相談が不発に終われば、恵理が美代につらく当たる可能性もある。
「そうよね……だめ元よね。だめだったらだめでしょうがない。できることがあるんなら、やってみなきゃ。美代ちゃん、ありがとう」
美代が抱く懸念を一蹴するかのような言葉だった。
来てよかった――と美代はようやく実感した。
相田宅を早々に辞去した美代は、自宅へと向かう道すがらで、ふと、足を止めた。
振り向けば、相田宅の先――市道の向こうに、ごみ袋に囲まれたくだんの家屋がいつものごとくあった。そして、わからないままでは不安をぬぐいきれない――そんな感慨を抱くからこそ、美代は予定外の行動に移った。
恵理に気づかれるのを避けるため、西に二つ離れた道へと回った美代は、そちらから市道へと向かった。ごみ屋敷問題に面白半分でかかわっているわけではないが、恵理にそうと思われるのを恐れたのである。
連なる民家やところどころに茂る樹木のおかげで、希望台を北へと向かう美代から見て、相田宅はずっと陰だった。
市道に突き当たると、車の往来がないのを見計らい、横断歩道のない場所を渡った。希望台に目を向ければ、相田宅はまだ視界に入っていない。
ごみ屋敷のすぐ西の路地よりさらに西に離れた路地へと、美代は足を進めた。幸太との散歩で何度か通った界隈だ。この路地をある程度北に進み、適当な箇所で東へと曲がれば、ごみ屋敷の西側へと、恵理の目を気にせずともたどり着けるはずだ。
ごみ屋敷より西の界隈も、寂れた一帯だった。人の気配は皆無である。まれに視界に入る真新しい家屋などは、むしろ、時代錯誤のこの情景になじめずにいるかのごとくだ。
小さな辻を東へと折れ、左にアパートのある辻を南へと入った。ごみ屋敷の横へと至る南北に延びる路地だ。この路地は、アパートの前から北側は乗用車がすれ違えるほどの幅があるが、それより南――ごみ屋敷のほうへと向かうと、乗用車が一台でも通れるか否かという幅しかない。
ごみ屋敷に隣接する空き地の手前――民家の途切れる直前で、美代は足を止めた。ごみ屋敷を覗き見るために、周囲に目を配り、誰もいないことを確認する。どこぞの家の中からこちらの様子を窺っている者がいないとも限らないが、たとえそうだとしても、市道より北側には知人は一人もいないのだから、この期に及んで気にするまでもないだろう。加えて、この位置ならば相田宅から見えることはなさそうだ。
思えば、ごみ屋敷の裏側をまじまじと目にするなどこれまでになかったことだ。無論、この家自体を禁忌としてとらえていた美代にとっては、正面から見るのさえはばかれるのだが――。
左の塀に寄り添うと、その内側の家屋を遮蔽物として利用できた。顔だけをその遮蔽物から出して、様子を窺う。
ごみ屋敷の裏側も無数のごみ袋で覆われているが、勝手口のみに空間があった。それを認めた美代は、玄関が本来の働きを封じられている状況を思い出す。裏の勝手口は、生活のために必要不可欠な戸口なのだ――おそらく、間違いはないだろう。
かすかに異臭を感じた。月曜日の朝に嗅いだあの強烈さはないが、生ごみのにおいであるとわかった。
腐臭に眉を寄せつつ、美代はさらに目で探った。
ごみ屋敷の左右と裏側を囲む空き地はコの字型であるが、今になって、美代はそれをごみ屋敷そのものと同様に異様に感じた。まるで周辺の家々がごみ屋敷を嫌って距離を置いているかのごとくなのだ。もっとも、それら周辺の家々に人は住んでいない、という情報はすでに得ている。遮蔽物として利用している左のこの家にも、案の定、人の気配は感じられなかった。
自分を取り囲む空気に異常を感じた。においが問題なのではない。状況が把握できないが、ここにいてはいけない、と悟ることはできた。
それでも相田宅の近くは通りたくない。来た道を戻るのが最善だろう。
きびすを返そうとした美代は、ふと、ごみ屋敷の二階に目を留めた。
美代の立つ位置は、腐臭の根源たる屋敷から見てほぼ北西の方角だ。よって、西向きの窓は、斜めの角度からではあるが、視界に入る。
東西に長いごみ屋敷は、東と西の面が狭い。外観からするに、二階には二つの部屋が東西に並んでいる、と思われた。
そんな間取りはあくまでも憶測だが、いずれにせよ、二階の西側の窓に人の顔が見えるのだった。窓越しの人物は外を眺めているようだが、こちらには目を向けていない。真西、もしくは市道の西の先を見つめているようだ。
美代は訝しんだ。その人物が女であるように見えるのだ。少なくとも、高齢の男には見えない。長い黒髪は乱れ気味であり、顔は青白かった。もっとも、この距離では若いのか高齢者なのか、見極めるのは困難だ。
足音がした。草を踏むような音だ。
わずかに視線を左にずらすと、空き地の北側からごみ屋敷へと向かう姿があった。作業服に作業帽という人物は、男のようだ。襟足には長めの白髪がかかっている。右手には買い物バッグを提げていた。
男はごみ屋敷の勝手口にたどり着くと、何やら鍵を開けるような所作を見せた。そしてドアを開けた彼は、その中に姿を消す。
ドアが閉じた直後に、美代は視線を二階の窓に戻した。そこに女の姿はなかった。今なら、気づかれないままここから立ち去ることができる。
ごみ屋敷の二階を睨んだまま、美代はゆっくりとあとずさった。そして、自分の体が左の家屋の陰になったところで、向きを変えた。
若い女が目の前に立っていた。
首尾よくゲームソフトを手に入れた瑛人は、購入品を入れたリュックを背負う幸太とともに、玩具店近くの地下駐車場へと向かった。階段を下りて駐車場のフロアへと至った二人は、照明が煌々と照らす歩道を進むが、不意に「野沢さん」と声をかけられ、そろって足を止めた。
きょとんとする幸太の横で瑛人は首を巡らせた。ほぼ満車状態の駐車場だが、人影は見当たらない――否、すぐ近くに駐車中の黒いミニバンの横に、一人の男が立っているのだった。
「ああ、やっぱり」と笑顔を見せる彼は、相田智宏だった。「こんにちは。こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
「こんにちは」と瑛人と幸太は声を合わせた。
「もしかして相田さんも……」
きょうが発売のゲームソフトが目的で来たことを瑛人が明かすと、相田は相好を崩した。
「そうなんですよ。今、着いたばかりなんですが、野沢さんは、もう?」
「ええ、ゲットしましたよ。品数は多かったし、自分たちが店を出るときもまだ残っていましたが、念のため、急いだほうがいいかもしれません」
「そうですか。じゃあ、早く行かないと買いそびれるかもしれない」
相田がわずかに焦燥を見せた直後に、黒いミニバンの陰から、よそ行きに着飾った志穂が姿を見せた。
「あ、志穂ちゃんだ。こんにちは」
幸太はうれしそうに声を上げるが、一方の志穂は、暗い表情を瑛人と幸太に向けて「こんにちは」と力なく返した。
「志穂ちゃんは元気がないようですが」
気づかないふりをするわけにもいかずに瑛人が声を潜めると、相田は苦笑を呈した。
「ええ……きのうの夕方辺りから、ずっとこんな感じなんですよ。例のごみ屋敷が気持ち悪いとか。それなのに、ゲームは買いに行く、って言うし」
「ごみ屋敷が……つまり、においとか?」
「ここのところ悪臭は感じられないんですが……というより、においではなくて、あの家の様子……ごみ袋だらけなのが嫌なんです。なんで今になってそれが気に障るのか、本人にもわからないらしいんですよ。もしかすると、恵理がごみ屋敷を気にしているから、その影響なのかもしれませんね。子供は意外と敏感ですし」
そんな言葉に瑛人は小さく頷いた。意外と敏感――というのは、幸太にも当てはまる。
「ママは関係ないもん」
不服そうに足元を見下ろす志穂に、相田は苦笑しつつ「はいはい、そうだね」と相づちを打った。
「じゃあ、自分らは店に行ってみます」
そう告げて一礼をした相田に、瑛人も一礼を返した。
「幸太くん、ばいばい」
志穂が力なく右手を振ると、幸太も覇気のない様子で「ばいばい」と右手を振り返した。
手を繫いで階段へと向かう父娘を見送りつつ、瑛人は思う。恵理の姿がないが、おそらくは自宅で留守番なのだろう。ならば都合がよい。
「志穂ちゃん、大丈夫かな?」
父娘の背中が見えなくなると、幸太が瑛人を見上げて声を漏らした。
「ああ、すぐに元気になるよ」
相田と志穂に対しては無責任な言葉であるが、瑛人から幸太へとしては当然の返答だろう。少なくとも瑛人自身は、そう思った。
「さあ、おれたちも行こうか。まだ早いけど、お昼にしよう」
瑛人は幸太を促した。帰路の途中でファミリーレストランに寄ることは、美代に伝えてある。
「うん」幸太は頷いた。「お母さんも来ればよかったのに」
「用事があるから、しょうがないよ」
美代は相田家――特に恵理に、「ごみ屋敷条例が制定されている事実」を伝えるつもりでいた。だからこそ、ここに相田恵理がいては美代が家に残った意味がなくなってしまうのだ。当然だが、話を伝える相手が恵理の夫であっても、問題はない。瑛人がここで相田に伝えるのもありだろう。もっとも、今の相田にはそんな余裕はないはずだが――。
歩き出してすぐに、瑛人は幸太を見た。
「幸太はごみ屋敷が気持ち悪いか?」
「うん、気持ち悪いよ。だから、ぼくだけじゃなくて、友達の誰もあの近くには行かない。でもね、志穂ちゃんちまでは行くよ」
歩きながら、幸太は答えた。もっとも、ゲームソフトを手に入れたばかりで気もそぞろなのか、正面に向けたままの顔には笑みさえ浮かんでいる。
「ごみ屋敷のにおいは、嗅いだことはあるのか?」
「一回だけあるよ。とても嫌なにおい」
幸太の表情がわずかに曇った。さすがに、よい思い出ではないようだ。ごみ屋敷のにおいを知らない瑛人は、子供の率直な感想を聞きたかったが、断念するしかなかった。
「そうか」
きょうは幸太にとって楽しい一日でなければならない。少なくとも帰宅するまでは、ごみ屋敷の問題は忘れよう――瑛人はそう心に決めた。
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