第一章 ④

 金曜日の朝の児童公園は、子供たちの歓声で賑わっていた。見上げれば、どんよりとした雲が広がっている。日差しがないせいか、心持ち空気が冷たく感じられた。とはいえ、遊具の周囲ではしゃぎ回っている子供たちにそれを気にする様子はない。とりわけ大きな声で笑っている幸太も、天候などお構いなしといった趣だ。

 都道を挟んで希望台の反対側にあるこの児童公園は、希望台の中にある児童公園よりも大きかった。敷地面積は四倍ほどもあろうか。遊具などの設備も、こちらのほうが充実している。

「おはようございます」

 母親連中から少し離れた位置に立っていた瑛人は、背中に声をかけられて振り向いた。

 相田ともひろが彼の娘――志穂とともに立っていた。長い髪をおさげにしている志穂は、つぶらな瞳が愛らしい少女だ。瑛人は恵理との面識はなく、もしくはそうとは知らずにどこかですれ違っていたかもしれないが、いずれにせよ、志穂が父親似でないのは、疑う余地がない。美代がときおり口にする内容からも、それは窺い知れた。

 手を繫ぎ合う相田親子は、双方とも前日までよりやや厚着だった。よく見ればほかの親子も気候に応じた出で立ちであり、瑛人は自分たち親子が場違いな姿でいるような気がした。

「おはようございます」

 気後れを隠して瑛人が挨拶を返すと、黄色い通学帽子にピンクのランドセル――という出で立ちの志穂も、「おはようございます」と瑛人に向かって頭を下げた。そして彼女は相田の手を離し、幸太ら子供たちの輪の中へと駆け込んでいった。

「旗当番の子とその親御さんは、まだ来ていないんですね」

 カジュアルジャケットにジーンズ、背中にはリュック、という姿の相田が、公園内を見渡した。集団登下校の先頭を任されるのは高学年の児童だ。当番制だが、この日の当番親子はまだ来ていない。

「そのようですね」瑛人は言った。「でもまあ、全体の半分くらいしか、まだ来ていませんし」

「ですよねえ。なら、しょうがない……ちょっと急ぐんで、あとをお願いしてもいいですかね?」

 こびるような目で問われて、瑛人は「かまいませんよ」と頷いた。

「いえね……コンビニに寄って弁当を買わないといけないんで」

 尋ねてもいないのに相田はそう告げた。

「きょうはコンビニ弁当ですか……」

 人には人の事情があるというものだ。そのうえで詮索すれば、いつもの相田ならば手弁当なのだろう。自分の左肩にかけているビジネスショルダーバッグに美代の手弁当が入っていることを思い、当たり前の日常に、瑛人はつい幸せを感じてしまう。

「おととい辺りからかみさんの機嫌が悪くて、ついにきょうは弁当を作ってもらえなかったんです」

 相田は苦笑を浮かべていた。軽口というよりも、どうやら誰かに聞いてほしかったようだ。

「ああ……うちでもそういうこと、ありますよ」

 事実ではあるが、何年も前の話だ。空気というものがある。とりあえずは同調しておいた。

「ごみ屋敷の件なんですよ」言いながら腕時計を見た相田が、顔色を変えた。「やばいな、もう行かないと」

「ああ……あとはいいですよ。遅刻したら大変ですし」

「すみません。じゃあ、お願いします」

 一礼をした相田は、遊んでいる志穂に向かって「志穂、お父さんは行くからな」と声をかけた。「いってらっしゃい!」という元気な声を受けた彼は、母親連中とも一礼を交わすと、そそくさとその場を立ち去った。

 ――ごみ屋敷?

 相田の言葉を想起し、瑛人は眉を寄せた。


 瑛人が帰宅したのは午後十時を過ぎたばかりの頃だった。休日出勤を避けるために残業をした、という。美代と幸太は先に夕食を済ませており、瑛人一人での食卓となった。

「で、あしたは休めるのね?」

 瑛人のぶんの食器を洗い終えた美代は、リビングへと歩きながら瑛人に尋ねた。

「もちろんだよ。でないと、残業をやった意味がない。幸太との約束があるしね。準備は万全さ」

 部屋着でスマートフォンをいじりながらソファでくつろぐ瑛人が、顔も上げずにそう答えた。テレビはつけておらず、インターネットのニュース記事を閲覧しているらしい。

「あ、そういえば……」と続けて、瑛人はスマートフォンをテーブルに置いた。見れば、スマートフォンの画面は消灯してある。

「どうしたの?」

 尋ねつつ、美代は瑛人の向かいに腰を下ろした。

「今朝、集団登校の集合場所で相田さんの旦那さんとちょっとだけ話をしたんだ……したんだけど……」

 瑛人は言いよどんだ。

「何よ、もったいぶっちゃって」

 じれったさとともに憂いを覚え、美代は促した。

「もったいぶっているわけじゃないよ。ただ、なんというか……妙な感じなんだ」

「妙……って、相田さんのご主人が?」

「相田さんの旦那さんの様子がおかしかったのは確かなんだけど、なんというか……相田さんの家で何かあったんじゃないか……って、気になってね」

 要領を得ず、美代は瑛人を睨む。

「何を言っているのか、よくわからないんだけど」

「ああ……ごめん」瑛人は苦笑した。「相田さんのところでは、ここ数日、奥さんの機嫌が悪いようで、きょうの旦那さんは弁当を作ってもらえなかったそうなんだ。コンビニ弁当を買うために急いで行ってしまったから話は途切れちゃったんだけど、なんだかごみ屋敷の件が絡んでいるらしい」

「ああ、そうか」

 意図せず、美代は口にした。

「心当たりがあるのか?」

 そう問われて「うん」と頷いた美代は、水曜日のごみ収集所での会話――恵理が田所宅に出向いたことのみならず、ごみ屋敷から聞こえたというお経を唱えるような声についても、漏れなく伝えた。

「そういうわけだったのか」瑛人は愁眉を開くが、すぐに神妙な趣を呈した。「それにしても……相田さんの件ではなくて、変な声のほう……ごみ屋敷からお経のような声……についてなんだけど、外まで聞こえるということは、やっぱりそれなりに大きな声だったんだろうなあ」

「確かに、そうよね」

 とはいえ、今の問題は、相田家である。

「で、相田さんの話に戻るわよ」美代は続けた。「へたにかかわらないほうがいい……って、あなたは言っていたけど、恵理さんにも、気をつけるように伝えておかなきゃ。やっぱり行政……というか、市役所を頼ったほうがいいと思うの。恵理さんにそう話すくらいなら、かかわったうちには入らないでしょう?」

「むしろ団地内でのトラブルを避けるように諭すんだから、いいんじゃないかな」

 瑛人の言葉に美代は不穏を抱いた。

「ということは、自治会を通さずに相田さんのお宅が行政に直接相談する、ということになるの?」

「そういうつもりで言ったんだけど」

 さも当然のごとく、瑛人は答えた。

「それって、田所さんにもかかわらないほうがいい、って言っているみたい」

「田所さんの奥さんとは会ったことが何度かあるけど、男のおれでも、きついと感じるもんなあ」

 とはいえ、瑛人が田所文江と会うとすれば、希望台の道すがら程度だ。

「あなた、もしかして見かけだけで判断していない?」

 美代にとって文江は苦手なタイプだが、自分の夫が人の外見に軸足を置くなど、ふがいなく思う――が、自分も同じである、と気づき、自責の念にとらわれてしまった。

「あのさ」瑛人は困惑の表情を浮かべた。「田所さんの奥さんと交わした言葉といえば挨拶程度だし、見かけで判断している部分はあるよ。でも、いつも君から聞かされているじゃないか……田所さんの奥さんは性格がきつい、って。だから、話したことがそんなになくても、きついという印象がつきまとっちゃうんだよ」

「わたし、そんなにいつも……言っていたかしら?」

 意図してはいなかったが、心当たりがないわけではなかった。

「ことあるごとに口にしているよ」

 瑛人はあきれ顔でため息をついた。

 疑いはしなかった。おそらく、事実である。瑛人をふがいなく思う自分こそが、ふがいなかった。失意が重なり、美代は肩を落とす。

「そうね、気をつける」

「それはそうと」瑛人は表情を引き締めた。「ここの行政は一度だけどあのごみ屋敷を訪ねているから、ごみ屋敷条例は制定されているはずだよ。それは念のために調べてみるけど、もう一度、訴え出てみるべきだと思うね。自治会を通さなくてもいいと思う。うまくことが運べば、行政代執行がなされるかもしれない」

 該当の家の住人が命令に従わない場合に、行政が主体となってごみの撤去を執行するわけだ。

「前回の訴えは中途半端で済まされちゃったけど、相田さんの奥さんやご家族がもうちょっと強く訴えてみるべきかもね」

 瑛人はそう言うが、美代は個人で訴えた場合のリスクを考えてしまう。

「訴えたことが陣内さんに知れたら、逆恨みをされるとか、ないかな?」

「さすがにそれは自治体として秘匿するだろう」

「そうか……そうだよね」

 わずかだが、光明が見えた。ぬか喜びに終わる可能性も否めないが、手を尽くすべきだろう。もっとも、当事者は相田家の者たちである。結果がどうであろうと、野沢家が受ける影響はほとんどないのだ。美代が恵理の機嫌に翻弄されることは否めないが――。

 瑛人がテーブルからスマートフォンを取った。しばらく画面を操作していた彼は、顔を上げるなり、「ここの自治体にはやっぱりごみ屋敷条例が制定されているよ」と告げた。

 翌日の美代の予定に、なすべきことの項目が一つ、追加された。


 土曜日の朝は部分的に雲に覆われているものの、概ねは青空が占めていた。

 開店時間から十分ほど経過しており、ショッピングモールはすでに買い物客で賑わっていた。一週間ぶんの食材をまとめ買いしなければならず、朱實は一階の食品売り場で品物を吟味していた。

 軽快なBGMが流れる中、買い物カートを押して歩く彼女は、目を丸くして思わず立ち止まった。

 買い物かごを片手にとぼとぼと歩く男がいた。作業服に作業帽、襟にかかる乱れた白髪、曲がった腰――その姿を見まがうはずがない。

 男は何かをつぶやきながら朱實の数メートル先を右から左へと横切り、陳列棚の陰へと入った。朱實が買おうとしているコショウはそこ――スパイスのコーナーにある。

 我を取り戻して買い物カートを押し出す朱實だが、無論、今すぐスパイスのコーナーへ向かう、という行為はためらわれた。その出入り口を素通りする瞬間に横目で見れば、男は何を物色するでもなく、先へと進んでいった。

 そのまま直進した朱實は、鮮魚コーナーで足を止めた。魚の切り身のパックに目を向けているはずなのに、あの男の後ろ姿が浮かんでしまう。

 買い物カートのハンドルを握ったまま、朱實は振り向いた。

 人々の中にあの男の姿はない。

 だが、まだスパイスコーナーに足を向ける気にはなれなかった。もっとも、コショウは必要であるため、頃合いを見計らって売り場へ行かなければならない。

 不意に、ごみ屋敷のあの腐臭が鼻腔に届いた。おそらくは幻嗅なのだろう――と察して香辛料の香りを思い浮かべようとするが、コショウやクミン、ナツメグなど、おなじみの香りが何も浮かんでこない。そればかりか腐臭がますます強くなってくるではないか。

 しかし――。

 そのにおいが魚の生臭さであるのを知り、朱實は胸のむかつきを覚えた。

 眉を寄せつつ、買い物カートを押してさらに先へと進んだ。

 魚も買うつもりでいたが、今回は断念せざるをえなかった。

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