第一章 ③

 水曜日の朝。

 瑛人と幸太が出かけてすぐに、美代は二つの可燃ごみの袋を左右の手に振り分けて持ち、ごみ収集所へと向かった。希望台のごみ収集所は北側と南側との二カ所だが、第二班の野沢家は南側を指定されている。自宅から南へ百メートルほど行けば希望台の端であり、その一角に第二班のごみ収集所はあった。

 生ごみと紙くずばかりの二つのごみ袋は双方ともほぼ満杯だ。それなりの重さがあり、しかも両手がふさがった状態でその距離を歩くのは、決して楽ではなかった。とはいえ、いつものことであり、過度の不満はない。

 美代が持つ二つのゴミ袋は赤だった。自治体が指定したごみ袋である。一方、ごみ屋敷のごみ袋は黒ばかりであり、それらをそのままごみ収集所に出せば、当然ながら条例違反となるだろう。

 ごみ収集所へとたどり着き、美代は一息ついた。低いブロック塀に囲まれたメッシュごみ収集庫を覗けば、ごみ袋はまだ三つしか入っていなかった。ごみは可燃だろうが不燃だろうが、午前八時半までに出さなければならない。おそらくこれから続々とごみ袋が集まるだろう。もっとも、このごみ収集所にごみ収集車が回ってくるのは、制限時間の数時間後なのだが――。

 美代は鍵のないふたを開け、二つの赤いごみ袋をそこに入れた。ごみ収集庫に鍵はないが、自治体指定のごみ袋に世帯名の記入を義務づけられているため、指定外の世帯がこのごみ収集所を利用することはできない。無論、このシステムは自治体内の全地区で使われているため、野沢家が第一班のごみ収集所にごみを出すこともできないのだ。

 ふと、ごみ屋敷の情景が脳裏に浮かんだ。あの家の主はこんな作業を何年もしていないのだろう――。ごみ出しは一仕事ではあるが、自分が手を抜けば、我が家もごみ屋敷となりかねない。当然ながら、それは願い下げである。

 話し声がした。

 振り向けば、顔なじみの主婦が二人、やはりそれぞれ、左右の手に赤いごみ袋を振り分けて持ち、こちらへと歩いてくるところだった。みのりととうだ。

「美代さん、おはようございます」

 この三人では一番年かさのみのりが、先に声をかけてきた。

「おはようございます」

 美代がそう返すと、佐恵子も「おはようございます」と笑顔を向けた。

 二人のために、美代はごみ収集庫のふたを開けたまま横にのいた。

 みのりがごみ袋を入れ、続いてごみ袋を入れた佐恵子が、静かにふたを閉じた。

「ねえねえ」みのりが美代に話しかけた。「今、佐恵子さんと話していたのよ」

 主語がないために話が読めず、美代は「はい?」目を丸くした。

「田所さんの奥さんと相田さんの恵理さんが、やり合っちゃったんですよ」

 人目を気にするように周囲に目を走らせながら、佐恵子が小声で言った。田所さんの奥さん――とは、自治会長の田所いち――その妻の文江である。

「えっ……」

 二の句が継げず、美代はみのりと佐恵子とを交互に見やった。

「きのうの昼過ぎかな……」みのりが口を開いた。「恵理さんがね、田所さんのお宅を訪ねたのよ」

「まさか、ごみ屋敷のことで?」

 思い当たる節はそれ以外になかった。だが、この失言を美代は悔やんだ。吹聴したと恵理に思われてはかなわない。第一班の相田家が指定されているごみ収集所は北側だが、同じ希望台の住人である恵理が、今、ここに来てもおかしくはないのだ。

「知っていたんですか?」

 佐恵子に問われて、美代はへつらいの笑みを浮かべた。

「いえ、きのうの件は知らないんですが、恵理さん、以前からごみ屋敷を気にしていたので、それで自治会長に相談したかったのかな……と思ったんです」

「そうかあ……」みのりが頷いた。「確かに恵理さんは、前から困っていたもんね」

 とりあえずは取り繕えたようだ。美代は安堵し、「はい」と返した。

「おとといはにおいがひどかったらしくて、それにその日の夜には、変な声まで聞こえたんですって」

 佐恵子が神妙な趣で訴えた。

「変な声……って、どんな?」

 ごみ屋敷というだけで気味が悪いのだ。悪臭がして、なおかつ変な声まで聞こえるのであれば、ごみ屋敷というよりもお化け屋敷だろう。

「あああ、とか……ううう、とか……ひいいい、とか……」

 みのりが答えた。淡々とした調子だが、実際の声は不気味である、と窺えた。

「それを恵理さんとか恵理さんのご家族が耳にした、ということですか?」

 美代が問うと、みのりは顔をこわばらせた。

「変な声を聞いたのは、うちの娘なのよ。相田さんの一家がその声を聞いたかどうかは、わからない」

ちゃんが?」

 みのりの娘である那都希は中学生だ。自転車で通学しているが、彼女は登下校でごみ屋敷の近くを通っている。吹奏楽部に所属しており、部活がある日の帰りは午後七時を過ぎる頃だ。

「部活の帰りにあの近くを通ったら、変な声が聞こえて……あの子、自転車通学でしょう。自転車を降りて、声のするほう……というか、ごみ屋敷のほうへ、その自転車を押して行ってみたんですって。臭いのを我慢してまでね。そうしたら、ごみ屋敷から声がしていたわけ」

「あああ、とか……ううう、とか……ひいいい、とか?」

 美代はみのりの先の口調をまねてみた。

「そう。あとね、あいい……なんていうのも聞こえたらしいわ」

「それって……」

 さすがに苦笑せざるをえなかった。話題が淫猥な方向へとずれていくような気がしてならない。ただでさえ、那都希が耳にした声、という話なのだ。なおのことインモラルな空気を感じてしまう。

「あ……もしかして、美代さんったら、嫌らしいことを考えたでしょう?」

 みのりは横目で美代を睨んだ。

「それは……その……」

 美代が言葉を詰まらせると、みのりは肩をすくめて失笑した。

「那都希の話によると、なんというか、お経のような感じだったらしいわね」

「じゃあ、ごみ屋敷のご主人が仏壇に向かってぶつぶつとお経を唱えていた、っていうことなんですか?」

 美代の問いにみのりは首を傾げた。

「さあ。あいい、だなんて口にするお経ってあったかしらね?」

「でも、中学生にお経はわからないでしょう。本当はちゃんと唱えていたのかもしれませんよ」

 佐恵子が言った。

「……にしても、外まで聞こえるようにお経を唱えるだなんて、もしお経だとしても、やっぱり、変わっていますよ」

 ごみ屋敷の住人だから――という前提で、美代は吐露した。

「そうよねえ」と首肯したみのりが、西のほうに目をやるなり、すぐに足元に視線を落とした。そして小声で「田所さんの奥さんが来た。そろそろ行こうか」と告げた。

 横目で確認すれば、片手にごみ袋を提げるエプロン姿の女――田所文江が、こちらへ歩いてくるところだった。こちらの三人に気づいているのか否か、それは確認できないが、一心不乱に歩を進めている。

「顔を向けちゃだめよ」

 釘を刺したみのりが、北のほう――己の自宅のほうへと歩き出した。

 美代と佐恵子も、文江には気づかぬそぶりでみのりの背中に続く。

「不自然だったかなあ」

 みのりのそんなつぶやきを耳にした美代は、文江の顔――カマキリのような顔を脳裏に浮かべ、思わず身震いをした。


 急ぎの仕事をどうにか片づけた朱實は、三週間ぶりに定時で職場をあとにし、どこにも寄らずにアパートへと急いだ。食材などを買いたい気持ちはあったものの、とにかく早く体を休めたかった。買い物は次の休日で間に合うはずだ。

 いつものごとくごみ屋敷の近くへと至ったが、二日前のような強烈な悪臭は感じなかった。もっとも、きのうの朝にはすでににおいは弱まっていおり、その夜、今朝――と通るたびに、徐々に薄れていくのがわかった。昨晩は妙な声を耳にすることもなかった。無論、油断は禁物である。強烈な悪臭は数週間ごとに発生するのだ。

 悪臭も妙な声もなく、安穏にこの一角を通過できるはずだった。しかし、朱實はそれを見てしまった。

 日没直後であり、街灯に頼らなくてもどうにか視野が確保できる、という状況だ。市道から路地へと入った直後だった。

 視界の隅に動くものがり、朱實はそちら――右へと目を向けた。いつもであればごみ屋敷と空き地とがあるだけだが、空き地の奥側からごみ屋敷へと向かう人影を認めたのだ。

 息を吞んだ朱實は、不覚にも、またぞろ足を止めてしまった。

 性別は男のようであり、腰が曲がっている様子から、高齢者であると思われた。その一方で、歩調は淡々としている。作業服に作業帽、という出で立ちであり、乱れた白髪が襟元にかかっていた。左手に提げているのは、おそらくは買い物バッグだろう。雑草を踏み倒しながら歩くその人物は、玄関のほうには回らず、裏の勝手口の前に立つとドアの鍵を開け、その中へと入った。玄関の前はごみ袋で塞がれているはずだが、勝手口の前だけは、人が通れる空間がかろうじて確保されていた。施錠しているのだから、こんなありさまの家屋にしていても防犯意識は残っているらしい。もっとも、この家を狙う物取りなどいそうにもないが。

 いずれにせよこれまでは、この家を可能な限り視界に入れまい、としていたために勝手口の存在さえ意識していなかったのだ。知らなくてもよい情報なのだから、見てしまったことを悔いてしまう。

 朱實の脳裏にあの奇声がよみがえった。男の声とも女の声ともつかない、不気味なあえぎだ。

 勝手口のドアが閉じ、その音で朱實は我に返った。

 そよ風が流れた。よりによってごみ屋敷の側からの風だ。わずかだが、生ごみのにおいがした。

 歩き出した朱實は、自分の足の運びが早いことを恥ずかしいとは思わなかった。

 おかげで早々にアパートの前へと至り、朱實は一息をついた。

「あら大園さん、今、帰り? きょうは早かったね」

 朱實が声をかけられたのは、アパートの南の側面にある階段に足をかけようとした直前だった。見れば、佐々木アパートのおおである佐々木せつだった。彼女の右手には回覧板が提げられている。市役所からの回覧板が佐々木家の次に回るのは、佐々木アパートの二階の一番奥である朱實の住戸だ。

 節子は佐々木アパートの北に隣接する二階一戸建てで独り暮らしの六十歳だ。夫には先立たれ、二人いるという娘たちはどちらも嫁いでおり、佐々木アパートの管理を一人で担っている。温厚で世話好きという人柄であり、朱實が信頼を寄せる人物だ。

「はい。急ぎの仕事が落ち着いたので、きょうは定時退勤なんです」

「そうなのね」言いつつも、節子は首を傾げた。「それにしても、なんだか顔色が悪いようだけど、疲れているんじゃない?」

 平静を装ったつもりだったが、表情に表れていたらしい。

「そうですね……きょうは久しぶりにゆっくり休みます」

 無難な言葉で取り繕った。

「それがいいわよ。そうそう、ちょうどよかった。回覧板、お願いね。中身はいつもの、ごみ出しはマナーを守って、っていうやつだから、確認しないでお隣の郵便受けに入れちゃいなさいな」

「はい」と頷いて、朱實は回覧板を受け取った。

「それじゃあね。ゆっくり休んでね」

 ねぎらう言葉を残してきびすを返した節子に、朱實は抑えきれずに声をかける。

「あの、大家さん」

「え?」と節子が足を止めて振り向いた。

「訊きたいことがあるんです。そこのごみ屋敷のことで……」

 訴えた朱實は、問題の家があるほうへ顔を向けた。

「ごみ屋敷……?」

 首を傾げた節子も、そちらに顔を向けた。そして軽く頷き、朱實に向き直る。

「やっぱり、気になるよね?」

「はい……」

「いいわ。ちょっとうちに寄って、お茶でも飲んでいきなさい。ここでの立ち話は疲れるだろうし、それに、ほかの人が気にするだろうから」

 その誘いに一瞬、逡巡するが、朱實は頷いた。

「はい。すみませんが、お邪魔させていただきます。……その前に、これ、お隣に置いてきちゃいますね」

 そう告げて、朱實は回覧板を掲げた。

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