第一章 ②

「ふーん、そういえばそんな家があったな」

 夕食が終わったあとのひととき――リビングのソファで、瑛人は言った。

 滅多にない定時で瑛人が帰宅したおかげで、久しぶりに家族三人がそろっての夕食となった。夕食の前に入浴を済ませた瑛人は、すでにくつろいでいる。彼があえてテレビを点けないのは、美代の話に付き合うためらしい。たったそれだけのことが、美代にはうれしかった。

 幸太は歯を磨くと自室に入ってしまった。瑛人に買ってもらったばかりの恐竜図鑑に夢中になっているのだ。

「あなたはあっちのほうに行く機会が少ないものね」

 美代は言うと、テーブルにトレイを載せ、瑛人の向かいに腰を下ろした。そしてトレイの上からホットミルクのマグカップを取り、それを瑛人の前に置く。続けて、自分のぶんのマグカップを持ち、手に伝わる温かさを味わった。

「なんだか嫌みにも聞こえるなあ」

 苦笑した瑛人が、マグカップを手にしてそれに口をつけた。

「嫌みなんて言うわけないでしょう」

 そう返して眉を寄せてみたものの、美代はすぐに失笑した。

「それにしても」瑛人はマグカップをテーブルに置いた。「目の前にごみ屋敷があるなんて、相田さんも散々だな」

「そうなんだけど……あなた、相田さんと面識ってあったっけ?」

「奥さんはわからないけど、旦那さんとならいつも顔を合わせているよ。相田さんの旦那さんは集団登校の集合場所に娘さんを連れてくるからな。でも彼はバスに乗らないから、短い世間話を交わす程度だけど」

「そうか、集合場所で会うんだよね」美代は頷いた。「相田さんのご主人、勤め先の工場が近くだから、歩いて行くんだってね。確か……製造部の部長だった」

 美代が言うと瑛人は目を丸くした。

「ええっ……あの旦那さんって、そんなに偉い人だったの? おれとたいして変わらない年のようだけど」

「向こうのほうがあなたより二歳くらい上のはずよ」

「でも二歳しか違わないんだろう?」

「まあ、そうね」

 瑛人は知らないようだが、そもそも瑛人と相田――それぞれの勤める企業の規模が異なるのだ。瑛人が勤めるのは大手IT企業であるのに対し、相田が勤めるのは中堅製造会社である。もっとも、夫婦の会話とはいえ、差別とも取れるそれをわざわざ口にするのは、やはりはばかられた。

「それはそうと」美代は話題を元に戻す。「相田さんのご主人は、ごみ屋敷について何か言っていなかった?」

「ごみ屋敷について……」

 考え込むように、瑛人は首をひねった。

「男同士だと、そんな話題にはならないの?」

「うーん、そういうわけでもないけど……」と言いさした瑛人が、思い出したように美代を見た。

 期待して、美代は身を乗り出す。

「前に言っていたな……たまににおうんだとか」

「たまににおう……って、それだけ?」

 拍子抜けした美代は、ソファに腰を落ち着かせ、ホットミルクをさらに一口飲んだ。

「うーん……夏になると蠅がごみ屋敷のほうから紛れ込んでくる、とも言っていたけど、うちも夏に蠅をたまに見かけるし、それとたいして変わらないようだった。あと、生ごみを狙ってか、野良猫がごみ屋敷の周辺をうろついていることがあるらしいね……希望台のほうには入ってこないようだけど。それ以外は、あんまり気にしていなかったな」

 野良猫をごみ屋敷の周辺で見かける、という話は、美代もすでに耳にしていた。恵理もたまに目にするらしいが、希望台の住人――特に主婦の何割かがそれを目にしているという。いずれにせよ、悪臭が自宅に届くことも遠くに野良猫の姿を見るのもこりごりである、と恵理は美代に告げたのだ。

「奥さんの恵理さんは、もうたまらない、っていう感じでいるわよ。実際に、きょうは相田さんの家の前まで悪臭が届いていたし」

「ああ、歩いて買い物に行ったんだったね」瑛人は言った。「相田さんの旦那さんも、におうときは結構まいっているらしい。でも、それ以外は特に……みたいな」

「いつもじゃないから、そんなに気にしなくてもいい、っていう感じなの?」

「うん、そうだね」

 ならば美代にも得心はいく。自分が自治会の会長になるまでは我慢するような旨を恵理は言っていたが、そんな程度なのかもしれない。

 ふと、疑問が湧いた。

「あそこのごみ屋敷の住人は、なんという人なんだっけ? わたしは、独り暮らしの高齢の男性、ということしか知らない」

「陣営の陣に内部の内、と書いてじんない……そう説明してもらったな」

「相田さんのご主人が言っていたの?」

「うん」瑛人は頷いた。「前に市の職員がごみ屋敷を訪ねただろう。帰りがけのその職員に、希望台に住む誰かが声をかけて訊いてみたらしい。でも、市の職員が個人情報を漏らすわけにはいかない。名字を教えてくれただけだった。相田さんの旦那さんは又聞きらしいよ。だから、相田さんの旦那もそれ以外のことはよくわからないんだよ」

「わからなくて当然よね。ごみ屋敷の住人……陣内さんって、希望台の住人とは接点がなさそうだもん」

 ため息を落とし、美代はホットミルクをすすった。そして「陣内ねえ……」とささやきつつ、マグカップをテーブルに置いた。

 自宅の周囲にごみの山を築くくらいならば、まともな人物ではないはずだ。ゆえに市の職員の話など聞かないのだろう。

「ここがそのごみ屋敷から離れていてよかったよ」

 安堵の様子で瑛人は言った。相田家の者たちには聞かせられない言葉だが、それが現実なのだ。しかし――。

「幸太があの辺で遊ばないとは限らないし、手放しで安心するわけにはいかないわ」

 美代がそう告げると、瑛人は「それはそうだけど」と返し、自分のマグカップを手にした。しかしそれには口をつけず、じっとテーブルを見つめている。

「あなた?」

「その陣内っていう人、何があってごみなんかをためるようになったんだろう?」

 美代に尋ねたのではなく、自問したらしい。

 それでも美代は話を繫げるべく、「本当よねえ」と口にした。

 瑛人が美代に暗い視線を向けた。

「それに、姿を見たことがない」

「わたしも見たことがないわ。恵理さんもまだ見ていないって」

「相田さんの旦那さんもそうらしい。もっとも、相田さんによれば、表に出たところを見かけた人はいるらしいよ。希望台の人ではなくて、市道の向こう側……ごみ屋敷のほうのどこかのお宅、ということだったな。それと、あの家を訪ねた市の職員も対面したに違いないけど。家の中がどうなっているかも気になるね……やっぱりごみだらけなのかな?」

「陣内さんって、結構、謎が多いよね」

 住人の姿もごみ屋敷の内部も見たいわけではないが、謎だらけでは不安にもなる。

「とにかく」瑛人は言った。「へたにかかわらないほうがいい」

 もちろんそうしたいが、無視できない状況に置かれる可能性も考えられるのだ。安穏な暮らしの片隅に小さな黒い靄が湧いた気がして、美代は小さなため息を落とした。


 電車を降りたおおぞのあけは、夜の街を急ぎ足でアパートへと向かっていた。雲に覆われ夜空が街明かりを受けて灰色に染まっている。連日の残業で疲れきった身なのだから星の一つでも拝ませてほしいところだが、たとえ晴れていたとしても街明かりが星空を遮ってしまい、今のこの空と変わらぬ様相をなすのだ。

 希望台の北沿いに延びる市道に至り、左側の歩道を西へと歩いた。忌避すべき家は、市道の右側にある。

 人通りはなかった。ときおり車が車道を行き交う程度だ。

 市道を挟んでその家――ごみ屋敷の正面を通り過ぎようとしたときだった。

 とてつもない悪臭が朱實の鼻腔を犯した。生ごみのにおいだ。

 歩を止めずに、横目で市道の反対側を見た。

 黒いごみ袋はどれもが満杯であり、それらが無数に積み上げられ、その家を取り囲んでいた。家の左右と背後は空き地であり、家と同じように手入れがされず、雑草に覆われている。結果、ごみ屋敷は正面以外を雑草に囲まれ、その貫禄を倍増させているのだ。一階の一部の窓から照明が漏れているのは、夕方以降のいつもの光景だ。廊下とおぼしき箇所は、昼夜を問わず雨戸が閉じてある。二階に明かりが点いていないのも、いつもと変わらない。

 この日は一カ月に一度か二度ある「強烈な日」だった。そのタイミングに当たると、道を隔ててもにおうために躱しようがない。こらえて通り過ぎる以外に手立てはないのだ。

 朱實はイベント企画会社の社員だ。去年の春に大学新卒で入社したが、志望企業はことごとく不採用であり、四番目の面接でようやく採用となったのだ。とはいえ、二流の企業であり、給料も二流だ。親元からは離れたものの、贅沢はできず、日々、節約を意識している。

 駅から徒歩で十五分の距離に朱實の住むそのアパートはあった。バスならば五分だが、待ち時間を考慮すれば乗車賃が無駄に思えるがゆえの、日々の徒歩だった。パンツスーツであり、荷物は右肩にかけたショルダーバッグのみであるため、歩くのに支障はない。

 朱實の住むアパートは、ショッピングモールと希望台との間――古くさい家々が並ぶその一角にたたずむ、これもまた年季の入った集合住宅だった。最寄りの停留所はごみ屋敷から東へ三十メートルほどだ。駅行きの停留所はごみ屋敷の並びであり、帰りの停留所はその向かい――希望台側にある。ゆえに、バスを利用すればおのずとごみ屋敷の近くを通ることになり、とりわけ、朝はごみ屋敷のすぐ前を通らねばならない。バスを利用しないとしても、せいぜいごみ屋敷側を避けて希望台側の歩道を通る程度だ。それ以外の迂回路はどんなに小回りでも五分も余計にかかってしまう。

 ――そういえば、今朝もにおいがきつかったっけ。

 とはいえ、においの強弱は日付によって変わるものではない。夜から強まって翌日の昼頃に弱くなることもある。

 ごみ屋敷の正面の延長線上を通過し、車の往来のないことを確認して、信号のない横断歩道を小走りで渡った。横断歩道を渡りきれば、この行程では最もごみ屋敷に接近する場面である。

 向かって右のごみ屋敷を横目で一瞥し、北へと延びる路地へと入った。もっとも、朱實とごみ屋敷とを遮るものは何もない。空き地の雑草が鬱蒼と群れているだけだ。

 間もなくして視界の右にブロック塀が入った。そして、その内側にある家屋がごみ屋敷を遮蔽する、というときに、朱實の耳にそれは届いた。

「んがーんぐ……あいい……」

 あえぐような声だった。男の声か女の声か判別できない。しばらく続いて弱々しく消えていったその声は、ごみ屋敷のほうから聞こえていた。

 意図せず足を止めていた。

 道の先に正面を向けたまま、目だけをそちらに向けるが、市道の街灯に照らされた空き地が視野の隅にあるだけで、ごみ屋敷の裏側――やはり無数のごみ袋が積み重なっているだろうそこは、ここからは見えない。

「にゃあ」と不意に猫が右から左へと足元を走りすぎた。

 瞬時に呪縛から解放された朱實は、その場から走り去った。

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