第4話

 ピースを口に咥えたオールドダンディはマッチで火をつけると、煙を深く吸い込み、思案するかのように紫煙を吐き出した。

 私もシガレットケースから、同じ銘柄のアロマロングを口にして、マッチで火をつける。


「味を知ってるね」


 にやりと笑う姿が往年の名俳優を思わせる仕草だった。


「どうでしょう、マネかもしれません」


 近くの灰皿に役目を終えたマッチを捨て、同じように煙を吐いた。オイルライターが悪いとは言わないが、マッチでつけた火は味が良い気がしている。


「理恵ちゃんが左目が見えないことは知ってるかい」


「ええ、ついさっきですけど知りました。」

 

「そうか、君はそれを見てどう思った?」


「驚きはしましたけど…特にはなんとも…」


「そうか…、実はあの子が家族以外の誰かを連れてきたのは初めてなんだよ」


 一口吸って煙を燻らせるように吐き出して、オールドダンディの周りを漂う白い霧のような紫煙が、その渋み続く話の重さを表していた。

 麹町家は3人で転勤があっても仲睦まじく暮らしており、オールドダンディさん一家と彼女の家族は、富士宮に住んでいた頃からの付き合いなのだそうだ、りっちゃんが高校二年生の時に母親が倒れて介護が必要となってからというもの、仕事の忙しかった父親に変わりヤングケアラーとして献身的な介護を続けながら生活をしていたらしい。

 その父親も彼女が卒業し就職した年に不慮の事故で他界してしまった。それ以来、ずっと介護と仕事を一人で続け、半身不随の母親がやがて若年性認知症となってしまって以降、さらに介護はかなりの労力と心労を伴った。それを一言も文句も言わず、献身的にこなしては、息抜きと称して1ヶ月に1度は2人でここまで通って来ていたのだそうだ。

 二人の笑いながら珈琲を飲んでいる姿はとても仲睦まじく、ここにきている時は記憶が割としっかりとしていたらしい。


「でも、取り返しのつかない事故が起こってしまった」


 2年前の冬、富士宮市内に入ってすぐに、二人の乗る車に対向車が突っ込んできた。

 

「飲酒運転で泥酔し、駐車場で少し寝たから良いだろうと、安易な考えでハンドルを握ったバカヤロウにだよ」


 吸い口をギュッと噛み締めてから小さな水鉢の灰皿に投げ込むとジュッと音を立ててタバコの火が消える。


「理恵ちゃんから聞いたのだけどね。事故の瞬間、俺のことや娘のことも分からない母親が、思い出したかのように理恵ちゃんの名前を叫んで出そうだよ、そして守るようにその身を覆い被せたらしい」


 母親は対向車と自車の車体に嵌まれてほぼ即死だったとのことだ。

 対向車が積んでいたのは硝子製品で、砕けて散った破片は全て母親の身体に突き刺さる。ただ、一片のカケラのみがりっちゃんの顔にあの深い傷を負わせてしまった。

 そして、それ以上に彼女の心も深い傷痕を刻みつけた。


「失目で仕事も辞めざるを得なくてね、塞ぎがちになってしまっていたが、ようやく出てきてくれた。大変なお節介かもしれない。でも、君がきてくれた時の理恵ちゃんの表情も仕草も、今まで見たことがないくらい輝いていた」


 オールドダンディ、いや、タケさんが私に向かって深々と頭を下げる。


「再会したばかりというのに、こんな話をするのも変だろうし、きっと迷惑だと思うかもしれないが・・・」


 一本目を灰皿の水鉢に投げ込んだ私は新しい煙草に火をつける。

 数口吸って煙を吐き出してから、頭を上げたタケさんに向けて深く頷く、その仕草で悟ってくれたのだろう、タケさんは同じように頷くと店の中へと戻っていった。

 タバコの先から立ち昇る煙を見つめながらぼんやりと考える。

 りっちゃんが言ったことは本気だったのだろう。過ぎていく時の中で想像を絶するほど散々に色々なことを考えて、悩み、苦しみ、それが蔦のように絡まってその身を縛り続けたことだろう。

 その棘が心も体も蝕むには十分過ぎるほどの月日を過ごし、そして今日を迎えたに違いない。


「いっくん」


「ん?なに?」


 その声色は懐かしかった。思わず何気ない返事を返してしまう。

 りっちゃんが店から出てきて先ほどまでタケさんが立っていたその脇にある椅子へ腰を下ろした。


「ごめんね、席にいなくて、タケさんに聞いたらタバコに連れ出したって言うから、でも、意外だった、いっくんも吸うんだね」


「ああ、そうそう、誘われてね。職場の先輩から悪癖を覚えさせられた感じだよ。ごめんね、苦手だった?」


「ううん、大丈夫、銘柄はピース?」


「うん、分かるの?」


「お父さんと同じ香りがしたから、きっとそうかなって」


 そう言えばりっちゃんの父親も愛煙家だった。自宅に遊びにいくと、ガラスの綺麗な灰皿の脇に煙草ケースとマッチが添えて置かれていた。遊んでバレた時は2人でしっかりと説教されてしまった。


「確かにそうだったね。いつも灰皿とか置いてあったっけ」


「覚えてる?」


「もちろん、覚えてるよ。まぁ、銘柄が重なったのは偶然だけどね」


「ふふ、そうだよね」


「1つだけ、聞いてもいい?」


「なに?」


 笑顔を見せたりっちゃんに聞くのは酷だけれど、これだけは聞かなけばならない。

 この喫茶店での時間は有限で永遠に続くことはないのだから。


「帰るべき場所はある?」


 笑顔が固まった。膝の上に置かれた両手が握り拳となって力が入っていくのが分かる。きっと返事をする事は難しいに違いない。覚悟をした人間が身綺麗にして死ぬことはよくあることだ。突発の死とは違う、悩み抜いた末の死というものは立つ鳥跡を濁さずのように死することがあると大学の講義で習った。


「それは…」


「あのさ、よかったらウチに来ない?暫くだけでも一緒に暮らしてみない?」


「え?」


「馬鹿なこと言ってるとか、同情して言ってるとか、色々考えちゃうんだろうけど、もちろん、滅茶苦茶なことを言っていることも分かる。でも、再会してこれで終わりってのは私は嫌だから、それにもう少しだけ別の土地で別のことをしながら考えてみるのもどうだろう」


「いいよ、そんな無理しなくても…」


「無理で言うならもう少しマシな事言うよ。もちろん、手伝って欲しいこともあるから、できたら、お願いでもあるんだけどね」


「お願い?」


「そう、お願い、とてもゾッとして恐ろしいお願いだけどね」


 私はそう言いながら煙草の火を消して灰皿に捨てる。これを気に禁煙するのもいいかもしれない。

 

「き、聞くだけ聞くよ」


「大学生から長く住んでいる男性の自宅、仕事は早く出て遅く帰る、休日は寝てばかり、と、想像するとどうですか?」


 一瞬にしてりっちゃんが顔を顰めた。ああ、想像できたに違いない。


「お願いというより、助けてくださいというべきかもしれない」


 私はそう言ってダメ出しのように両手を合わせて拝み手をして、懇願するように腰を曲げ頭を下げた。


「変わらないね、そのお願いの仕方」


 クスっと笑い声が漏れたのちにりっちゃんがそう言った。ああ、そういえばあの頃もこんな風にお願いをした気がする。


「部屋の片付けも苦手だったもんね」


「覚えてた?」


「うん、あの部屋は衝撃的だったもの」


 私は言っておくが片付けられない人ではない。どちらかと言えば捨てられない人だ。だから、整理整頓をしてきちんと置いてあっても人によってはゴミとなることがある。収集癖とまではいかないけれど、記念品や思い出の品というものは捨てることができない。あの頃、私の母に頼まれたりっちゃんは片付けを手伝ってくれたことがあり、それを思い出したのだろう。


「別に何かしようって訳じゃないから…」


「そんなこと分かってる。私になんて興味出ないでしょ?」


「そんなことはないよ、興味がなかったら境内でジッとなんてみないでしょ」


「ばか」


 姿勢を戻して私は煙草を加えると再び火をつけた。


「もう一回だけ、ゆっくり考えて見てよ。それとマジで助けて」


「えっと…、いっくん、一本ちょうだい」


「ん?どうぞ」


 シガレットケースから一本取り出したのを手渡すと、りっちゃんは煙草を咥えた。私はマッチを擦って差し出すと手慣れたように煙草へと火を灯し、そしてゆっくりと吸うと紫煙をゆっくりと吐き出していった。


「いいよ、昔のよしみで手伝ってあげる」


「そりゃどうも、実にありがたい」


「片付けの期限はいつまで?」


「いつまでも、片付くまでゆっくりどうぞ、ちなみに、そう簡単に片付くとは思わないでね」


「じゃぁ、お言葉に甘えます、その代わり片付けは厳しくするからね、いい歳なんだからきちんとしないと駄目だよ」


 一口だけ吸った煙草の火を消してりっちゃんは灰皿へと捨てる。私も同じように火を消して灰皿へと落とした。


「吸わないって決めてたんだけどな…。もう考える事もないと思ってたから…」


 悩みながら煙草を吸うのは喫煙者ならよくある癖だ、もちろん、この世の中であまり褒められたことではないけれど。


「まぁ、吸わないに越したことはないけどね。まぁ、私も今後は吸うのを控えようかな」


「どうして?」


「だって、話し相手ができるんだからね」


 私がそう言って笑うとりっちゃんもまた同じように笑う。外見なんて関係ない、あの頃の素敵な笑顔が垣間見えた気がして、私たちは暫く笑い合っていた。


 


 

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