第2話


 一心に祈るとはこの人のことを言い表すのではなかろうか。

 

 そう思わせるほどに真摯な祈りの姿に思わず私は感銘を受けた。

 朱塗りの社殿よりは赤い西洋色のロングコート、黒い革手袋、セミフレアパンツにはしっかりとした折り目がついていて、細身の足を凛々しく際立たせている。ショートヘアの黒髪は烏の濡れ羽色のように素晴らしい艶と色をしていた。

 思わず見入ってしまうほどに美しい、そしてなお、姿勢を正し合掌をして祈る姿が合わさると、一枚のポートレートのようにも錯覚してしまう。

 数秒見惚れたのちに、我に帰った私はポケットの小銭入れから賽銭の100円2枚を取り出すと賽銭箱へと柔らかく投げ入れる。なぜ2枚なのか、これは高校大学と合格祈願の際に寺社へ参拝のおり100円2枚を入れて見事に合格を果たしたことによるゲン担ぎのようなもので、それから癖ついたようなものとなっていた。

 賽銭箱の木組みにあたり跳ねた賽銭が、互いにぶつかり合うと鈴のように澄んだ音を奏でる。その音に反応したのかは分からないが、一心に祈っていた女性が合掌を解くと深々と一礼をした。その姿さえも優美であった。

 私も気を取り直して2礼2拍手1礼を行い、神様へご挨拶と素晴らしい富士山を見ることができたことに、いや、拝謁できたことに感謝を申し上げて祈りを終えた。

 どうにも気になった彼女の姿は参道の先にあり、駐車場方向へと向かっている。無論、女性として気になるから声をかけるとか、綺麗だったからと言う気持ちも無いわけではないが、それ以上に気になってしまったのは、彼女の祈りの内に、そこはかとない詫びと影が垣間見えたような気がしたからである。有終のとでも言い表せば良いのだろうか、私にはその後ろ姿がそう思えてならなかった。


「気のせいだといいけど・・・」


 そんなことを呟きながら、深く一礼した後に私は右側にある社務所の脇へと歩みを進めてゆく、やがて数段の下り階段を降りきると眼前には富士の湧水の湧き出す池、湧玉池が見えた。旅番組でも紹介されていた湧水、その透明度を見た途端に驚きを隠せなかったのだ。論より証拠、百聞は一見にしかずとも言うべきか、4Kだ8Kだと言っても、やはり現実には叶わない、透明度は間近で手を見るように遠くまで澄んでいて池底の石の形や艶が湖面全体を見渡せるほどである。これほど素晴らしい眺めはないだろう。光の濃淡のコントラストは透明度が高いが故に水草の生える緑と石の各色によって、ふと高解像度のCGグラフィックスかと錯覚さえしてしまいそうだ。


「綺麗だ…」


 池のほとりに思わず立ち尽くし、私は実に陳腐な感想を漏らした。いや、単純な言葉こそが最高の褒め言葉だと思う。


「綺麗でしょう」


 不意に隣から声が掛かった。


「え!?」


 心底驚いてそちらへ振り向くと、いつのまにかあの赤いロングコートの女性がこちらを鋭い視線で睨んでいた。

 

「私を見てましたよね」


 顔の左半分を髪で隠すようにした彼女が、そう言って私をじっと見つめている。


「えっと…」


 こう詰問されると一般的な男性ならば返答に窮するだろう。私もご多分に漏れず、返す言葉を失っていた。


「こんな姿でも、同じように思えますか?」


 そう言って彼女が左半分の髪を左手で避ける。やがて見えてきたのは一本の線だった。

 前頭、つまり、おでこから下顎までを何かに切られたような線がケロイドと共に盛り上がるようにして走っていた。開いた左目は白く混濁していて見えてはいないだろう。

 きっと彼女は私が引き下がるか逃げるかを想像したに違いないが、私は顔を見た途端にあいにくと別のことに気をとられたのだった。


「失礼」


 そう断って私は顔を近づける。とたんに面食らった彼女が驚いて一歩後退りをしたのでさらに一歩踏み出して近づく。

 そして真珠のイアリングが光る左耳の耳垂れ端に小さな3つの黒子を見間違えることなく、しっかりと見つけたのだった。


「な、なんなんですか…さ、叫びますよ!」


 先程までの冷たい威勢はどこへやらと言うほどに、彼女は怯えたような抗議の声を上げる。じっと見合っていると頬が紅色に染まっていくのがよく分かる。やがて彼女はしばらくすると首を縮める仕草をするだろうと私は考えた。


「あ、あの…」


 案の定、首を縮めながら彼女が声を上げようとして、私はその名前を呼ぶことにした。


「りっちゃん」


「え…」


 唖然とした顔に幼い頃の驚きの表情が重なる。


「忘れちゃったかな?」


 そう私が言うと驚いて固まったままの彼女が小さく首を振った。そして湧玉池の清らかな水のように涙が湧き上がるさまが見え、潤んだ瞳に溜まった涙が、目尻から両頬を流れてゆく。


「いっくん…なの…?」


「うん、一橋一郎、いっくんだよ」


 私は笑みを湛えながら彼女にそう返事をすると、それを涙目で見ていた彼女の涙腺は崩れて、やがて、小さく嗚咽を漏らしながら泣き始めた。

 足元の砂利に涙の滲みが降り始めの雨粒のように垂れてゆく。私はその姿に言葉をかけることが出来ず、そのまま泣き止むのを待っていたが、徐々に池を見にきた観光客が私たちの姿を見て、ヒソヒソとなにかを囁き始めた頃、彼女は私の右手を両手で掴み、胸元へと引き寄せた。


「ごめん、こっちきて…」


 引っ張られるままに私はついて歩みを進めていく、池から一段下にあるもう1つの池のほとりに3本松が生えていて、その脇のコンクリートでできた古めかしいベンチへと案内された。


「お願いだから、座って」


「いいよ」


 腕を解かれた私は返事をして頷くとベンチへと腰を下ろした。隣に彼女が腰を下ろして座ると、涙をハンカチで拭きながら、時折、鼻を啜る音が聞こえてくる。私はそれが治まり彼女が落ち着くまでを、透き通る水面を泳ぐ水鳥と富士山を見つめながら時を待った。


「ごめんなさい…」


 落ち着いた彼女が開口一番に詫びる。


「謝るようなことしてないよ?」


 やんわりとそう伝えて左側に腰掛けた彼女を見る。面影は失われておらず、可愛らしかった口元と目元は大人になってもなお、優しく残っていた。


「いっくんなんて思わなかった…」


 俯いた彼女が搾り出すような声でそう言った。確かに少々、老け込み過ぎた感は否めないかもしれない。


「私もりっちゃんだなんて思わなかったよ」


 そう言って互いに愛想笑いを浮かべて見合う。でも、しばらくすると年甲斐もなく恥ずかしくなって互いに本当に笑いあった。


「本当に久しぶりだね。18年ぶりくらいかな?」


「そうだね…それくらいぶりだよね。最後に見送りのいっくんと別れてからだから、それくらいだね。」


 駅のホームで互いに涙しながら別れを惜しんだ記憶が脳裏に蘇る。あの時も同じように彼女は涙を浮かべていた。


「まさか、会えるなんて思わなかった…」


 そう言って懐かしそうにこちらに振り向く彼女を見て私も頷く。そして膝の上に置かれた両手の親指が互いを撫であっていることにも視線が向いた。


「癖は変わってないね。困ってるんでしょ」


 驚いた表情を再び見せて、そののちに深く彼女は頷いた。


「うん…。終われなくなっちゃったな」


「やっぱりか…」


 あの有終のに思えた姿は間違いなかったようだ。それと共に彼女が声をかけてきてくれたことを神様に感謝する。いくら離れていた幼い頃の友人をすれ違って失うことは辛い、それを知らぬままに失ったのなら、それは余りにも酷いだろう。


「いっくんはわかったの?」


「いや、りっちゃんだとは分からなかったけど、拝んでいる姿と、参道を変える後ろ姿が、どことなく雰囲気が気になったんだよね」


「私も同じだよ。見てる人がいるって気にはなっていて怖くなったから逃げたんだけど、でも、最後なのだし、そんなのに負けてられない、文句の一つでも、なんでもして、一言言ってやってから死んでやろうと思って声をかけたんだ…」


「なんか…ごめん」


 私はそう言って彼女へ微笑んで謝った。

 悔やんだような、なんとも言えない表情をした彼女は、やがて俯いて表情を落とした。


 沈黙が流れた。

 

 池の水鳥達の羽音や流るる水音が聞こえてくる、池を隔てた先にある道路からの車の音が響いては消えていく。視線を上げれば富士の山がどっしりと聳えて美しい姿を見せていて、私はその音を聞きながら、彼女が沈黙を終えるまでを待った。


「なにがあったか、聞かないんだね」


 ぽつりと彼女が漏らした。


「言いたければ聞くよ。でも、言いたくないなら言わなくていい。無理に話して、余計につらくなることは無いと思うんだよね」


 話したければ話してくれる。それに再開したばかりなのだから、成長した彼女を私は知らない、過去のみから想像して語ることほど愚かなことは無い。

 

「そうだ。折角再開できたんだし、何処かで珈琲でもどうかな?」


 私は富士山を見たままそう彼女の問いへ答えた。


「私が不気味に見えない?」


 呟くように彼女が言った。


「なにが?」


「さっき見たでしょ、私の顔の傷、どう、不気味じゃない?」


「確かに見たね」


「なら分かるよね…」


 親指の撫でる回数が増えてゆく、両手が小刻みに震えていることに、彼女に視線を移した私は気が付いた。


「気になるんだったら逃げてるよ。それにね、私とっては、りっちゃんはりっちゃんなんだし、せっかくの再会したんだ。さ、行こう」


 私は立ち上がると彼女の震える手を取った。俯いた彼女が驚いて顔を上げる。


「こうやって連れ出すのも懐かしいね」


「そ、そうだね…」


 誤魔化すように笑みを見せたりっちゃんに年甲斐もなく思わずドキリと心が揺れる。

 

 出会った時もこうだった。

 

 転校してきて引っ込み思案な女の子の、その手を取って外へと遊びに連れ出したのは私だった。




 

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