体育倉庫の出来事

かいばつれい

体育倉庫の出来事

 体育倉庫の鉄扉を開けると、中から、埃やカビの臭いと、ボールが放つゴム臭が入り混じった独特の臭いが広がり、二人の男の鼻をついた。

 「体育倉庫ってのはどこもこういう臭いがするもんだな」一人が言った。

 「ああ。でも公衆便所の臭いよりはマシだけどな」と、もう一人が言った。

 二人はこの小学校からの依頼を受け、体育倉庫にある古くなった得点板を回収するためにやってきた業者である。

 「この得点板だ。キャスターが壊れてるから持ち上げて運ぶぞ」

 「あいよ。それにしても、ずいぶん立派な得点板だな。まだ使えそうだ」

 「電子得点板に買い替えるから捨てるんだとさ。ハイテクなこった」

 「そんなにハイテクか?俺の時にはあったぞ。バスケットボールぶつけて壊して体育の教師にこっぴどく叱られた」

 「いい思い出じゃないか。よっぽど高い代物だったんだろうな。おや?」

 彼の足下にバレーボールが転がっていた。彼は得点板から手を離して拾い上げ、ボールをじっと見つめた。

 「そこのモルテンの籠から落ちたらしいな。綺麗なボールだ」

 「こんなもの!」

 彼は乱暴にバレーボールを籠に投げ入れた。

 「おい、どうかしたのか?」

 同僚が慌てる。

 「いや別に。さっさと運び出して退散しよう」

 それから彼は作業の間、ずっと無言だった。

 

 その帰り道、トラックを運転する同僚の横で彼は黙ったまま、ドアガラスのほうに顔を向けていた。

 「なあ、今日は奥さん夜勤なんだろ。その辺でラーメンでも食っていかないか」

 同僚が彼に言った。

 「・・・いいね。寄ろう」

 振り向かずに応えたその返事は、どこか寂しげな、静かな声だった。

 「おまえ、今日はなんか変だぞ。具合でも悪いのか?」

 「いや、なんともないが」

 「なんともないわけあるか。バレーボール拾った時から様子が変だぞ」

 同僚のその言葉を聞くと、彼はズボンのポケットから煙草とライターを取り出し、火をつけ、深く吸った。煙を吐き出し、車内の煙が消えて無くなるまで、目で追ってから彼は口を開いた。

 「さっきはすまない。確かにおまえの言う通り、なんともないわけじゃないんだ。ちょっとガキの頃を思い出してね」

 「何があった?」

 彼はもう一度煙草を吸い、煙を吐き出し切ってからゆっくりと語り始めた。

 「あれは小五の時のことだ──」

 

 

 ぼくにとって、体育倉庫の掃除はトイレ掃除よりも嫌いな仕事だ。

 なんか臭いし、ゴキブリやムカデは出るし、電気をつけても薄暗くてお化けが出そうだし、とにかく嫌なことこの上ない。

 掃除の班はぼくと青木と蛭野の三人。でもまだ二人は姿を現していない。きっと、どこかでサボっているんだろう。これはいつものことだ。校舎裏でボールけりをして掃除の時間が終わる頃に、腹が痛くてトイレに行っていたとか適当な嘘を言って現れる。あの二人はいつもそのような嘘をついては掃除をサボっていた。先生に言ったところで、そのあとで、二人がぼくをチクリ魔と呼んでからかうのは目に見えているから、ぼくは一度も先生に二人のことを言わなかった。それに、自分で問題を解決せずに先生に相談するのは、なんだか格好悪い気がする。体育倉庫の掃除くらいぼく一人でだってできる。仮にあいつらが時間通りに来たとしても、真面目にやるとは思えない。それなら、一人で全部やったほうが気が楽だ。早く終わらせて教室に戻り、五時間目の準備をしよう。

 ぼくは二人のことを忘れて掃除に取り掛かった。

 跳び箱や得点板、それにボール籠など、キャスターがついていて動かせるものを倉庫から出し、入口の横に置いてから床をほうきがけし、雑巾をかけた。あっという間に掃除が完了した。あとは出したものを片付けるだけだ。

 ぼくはまず、バレーボールがたくさん入っていて重たくなっているボール籠を中へ入れようとした。その時、青木と蛭野が血相を変えて走ってきた。

 「やばい。やばい。教頭に見つかっちまった。掃除してるふりしないと」

 「おい、粟飯川、おれたちは最初からここにいたぞ。いいな」

 二人は息を切らしながら言った。全速力で逃げてきたようだ。

 「無茶苦茶言うな。もう終わっちゃったよ」

 ぼくは二人に構わず、片付けを続けた。

 「それじゃ困るんだよ。このボール籠は俺がしまう。寄こせ」

 青木が、ぼくが運ぼうとしていたボール籠を強引に奪おうとした。

 「何すんだ。これはぼくがしまうから、おまえらはそこに突っ立ってろよ」

 「ふざけんな。息切らして突っ立ってたら怪しまれるだろうが。いいからそいつを寄こせ」

 「嫌だ。離せ」

 ぼくと青木はボール籠の取り合いになった。

 「やめろ粟飯川。青木の言う通りにしろ!おれたちが怒られちまう」

 青木に加勢した蛭野がぼくに向かって叫ぶ。

 「そんなの知るか。サボってたおまえらが悪いんだろ」

 ぼくは二人に籠を奪われまいとして必死に抵抗した。

 「優等生ぶりやがって。寄こせ、寄こせったら」

 「離せ。そんなに引っ張ったら危ないぞ」

 「この野郎。おとなしく渡しゃいいんだ」

 「やめろってば」

 二対一では流石に分が悪く、ぼくはだんだん籠を掴む力が弱まっていた。

 「危ないからやめろ。手を離せ」

 「おまえが渡すまで離すもんか」

 青木と蛭野は尚も籠から手を離そうとしない。もう限界だ。

 「だ、だめだ。もう、手が・・・、あっ」

 堪えきれず、ぼくは手を離してしまった。

 籠は二人に向かって勢いよく動き出した。

 「うわー!!」

 蛭野は咄嗟に横に逃げて籠を躱したが、逃げ遅れた青木は動けず、もろに籠のキャスターが彼の右足の上に乗っかってしまった。

 「ぎゃああっ」

 青木が激痛で悲鳴を上げた。

 「なんだ今の悲鳴は。一体どうしたんだ!」

 二人を追いかけてきた教頭が青木の悲鳴を聞いて駆け寄り、籠を青木から離した。

 「痛い。痛いよう」

 青木が右足をおさえる。

 「大丈夫か?見せてみろ」

 教頭は、青木の上履きを脱がし、靴下の上から足を触った。

 「痛い。痛い。痛い」

 「いかん。足の指が折れてるかもしれん。保健室、いや救急車だ!!」

 教頭は青木を抱えて体育倉庫から出ていった。

 蛭野とぼくもそれに続き、倉庫を出た。

 

 病院に搬送された青木は教頭が言った通り、右足の中指から小指までの三本が完全に骨折していた。折れた指の骨にワイヤーを入れて繋げなければならないほどの大怪我で、早くて全治二ヶ月ということだった。その間、青木は家で安静にしなければならなくなり、完治するまで学校を休むことになった。

 ぼくはというと、あれから、蛭野と共に職員室に呼び出され、先生たちに事の経緯を説明させられた。

 掃除に来なかった二人が悪いが、怪我をさせてしまったことは別だと担任の先生はぼくに言い、放課後、ぼくと蛭野は反省文を書かされた。そして、その日の夜には、母さんが青木の家に謝罪の電話を掛けた。

 週末にぼくは母さんに付き添われ、果物を持って青木の家へ赴いた。

 青木の家に入る前、母さんはぼくの両肩を掴み、ぼくの目を見ていい聞かせるように言った。

 「よく聞きなさい。あなたは、二人が掃除をしなかったことを一切忘れなさい。青木くんに怪我をさせてしまったことだけを考えて、誠意を持って謝るのよ」

 「はい」とだけぼくは答えた。

 青木の母親は、泣いて謝る母さんに、ウチのバカ息子が悪いんですよと言ったが、母さんは、謝ることをやめなかった。

 母さんはぼくに、二階に上がって青木に謝って来るように言ったので、ぼくは渋々、階段へと足を運んだ。

 階段を上がる一歩一歩が辛かった。心臓がどくんどくんと動いていた。

 夜中にこっそり見たテレビで、死刑囚が絞首台に続く階段を少しずつ上っていく場面を見たのを思い出したぼくは、あの死刑囚はきっと、今のぼくのように胸が張り裂けるような気持ちで上っていったのだろうと思った。階段を上りきれば、どのような結果が待っているかわかっているのに、上らなければならないという現実。上りきった先にある終末。

 ようやく二階にたどり着いたぼくは、青木の部屋のドアを小さくノックし、青木の入れという返事でゆっくりと部屋に入った。

 「おまえか」

 ただ一言、ベッドの上の青木はそう言って、手元のDSに目を落とした。包帯にくるまれた右足が痛々しい。それを見たぼくは、心臓が益々苦しくなった。

 「あの、ええと、右足は大丈夫?」

 おそるおそるぼくは訊ねた。しかし、青木からは返事は帰ってこなかった。

 「そ、その、右足のこと、ごめんなさい」

 ぼくは深く頭を下げて謝った。それでも青木は何も言わない。DSの画面をタッチペンで小突くだけだ。

 「あれだけボールが入ってれば痛いよね。その足・・・」

 そこで青木がぴたりと手を止めてぼくを見た。

 いきなり顔を上げたので、ぼくはぎょっとした。

 「そうか。やっぱりおまえはわかってたんだな。あのボール籠が重たかったことを。あんなもの、いきなり手を離せば危ないってことを」

 彼はぼくを睨んで言った。

 「ま、待って。ぼくはあの時、危ないから離せと言ったじゃないか。それを君が聞かなかったから──」

 「謝ってる時よりもよく喋るじゃないか。おまえの腹は言ってることと違うようだな。おまえはそういうやつということか」

 「ち、違う、ぼくは」

 「だまれ。結局おまえは、おれのことより自分のことしか考えてないんだよな。先生や親の前ではおとなしくしておいて、いざ、おれの前に立てば自分を正当化しようとする。そんなやつの謝罪なんて所詮、平謝りだ。おまえの顔なんか見たくもないし、声も聞きたくない。おれの部屋から出て行け」

 青木の言葉を聞いてぼくは、はらわたが煮え繰り返った。元はと言えば、おまえと蛭野が悪いんじゃないか。おまえたちが遊ばずにちゃんと掃除に来ていれば、ぼくは腹を立てることもなく、トラブルも起きなかったんだ。ぼくは自分の言い分を言いたかったが、必死に我慢した。

 今ここで彼に怒れば、先生や母さん、反省文を書いた自分自身を否定してしまうことになる。それだけは絶対にやってはいけない。

 「ごめん。本当にごめんよ」

 ぼくはそれだけ言うと、また学校でと言って青木の部屋を立ち去った。青木は何も返さなかった。

 

 体育倉庫の出来事から、ぼくの周りの世界は変わった。

 クラスの内外では、ぼくが青木を怪我させた話だけが広がり、みんながぼくを遠ざけるようになった。

 クラスの誰かがギャグを言ったのを笑えば、「あんなことしといてよく笑えるな」という誰かの声が聞こえ、掃除をすれば、「足を折られちまうぞ。逃げろ」とからかわれ、先生には「むしゃくしゃすることがあったら、まず先生に相談するんだぞ」と言われ、母さんには、「どうして喧嘩の加減がわからないの。お父さんの映画のDVDを見過ぎたせいだわ」と言われた。

 誰も表面的にしか物事を捉えていなかったのだ。

 ぼくは誰も信じられなくなった。

 そんな苦痛の日々に耐えられなくなったぼくは、ある決断をした。

 

 世の中では、理由はどうであれ、怪我をさせたほうが悪いのだ。

 青木が久々に登校してくるという前の日の夜、ぼくは父さんと母さんが寝静まったのを見て、パジャマ姿で家の車庫に行った。

 車庫は油の臭いと錆びた鉄の臭いがした。

 ぼくは父さんのヴィッツの車止めにしている、コンクリートブロックを見つけて持ち上げてみた。とても重たい。

 もう、こうするしかない。相手を許し、自分を責めるためには。

 ぼくはサンダルを脱ぎ、裸になった両足の上に、そのコンクリートブロックをためらうことなく落とした。

 

 

 「じゃあ、おまえ、両足を?」

 「ああ。指を全本折った上に、両足の甲まで砕けちまった。半年間、学校に行けなかったよ」

 「ワイヤーは入れたのか?」

 「いや、ワイヤーなんて入れたら反則だ。それじゃ、自分の意識を変えられない。おれはワイヤーを入れずに自然治癒に任せることにした。指の骨の形は少し歪んじゃいるが、歩くのに全く支障はないんだ」

 「そいつは苦労だな」

 「そうでもないさ。それから、青木も蛭野も誰も、事件の話をしなくなった。六年になってもそれは変わらなかった。体育倉庫の一件以来、問題はひとつも起きずに卒業できたってわけだ」

 彼が四本目の煙草を吸い終えたところで、トラックがラーメン屋の駐車場に到着した。

 「でも、おまえ、こうは思わなかったのか」

 同僚がトラックのエンジンを止めて言った。

 「うん?」

 「針のむしろのほうが戒めになって、自分の意識を変えられるかもなって」

 彼は灰皿に吸い殻を捨て、答えた。

 「最初はおれもそう思ったさ。でも、片一方が動けずにいるのに、自分はのうのうと普通に生活することが、すごく嫌だったんだ。だから自分で自分の足を壊した」

 「そうか」

 「早く店に入ろうぜ。女房にここの餃子買っていってやろうかな」

 彼は今の今まで、少年時代の話などしていなかったかのように、唐突に話を変えて切り上げた。

 その一件は彼にとっては、未だに過ぎ去りし日の思い出にはなっていないようだ。

 店に入ろうとする彼の背中が僅かに震えていたが、同僚はそれ以上、彼に少年時代の話を聞こうとはしなかった。 

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