第17話 交渉戦
モニカが
その間には暗殺者からの接触、襲撃というものがなく、またアンコロールに「今後の百夜会からの暗殺予定はないのか」と聞いても「自分以外のことは知らないよ、個別契約なんさ……」と答えるばかりだった。
うっすらと神経を
ここまでの空白は準備期間だったのだと、順三たちに知らしめる出来事が起きた。
「大使館へ来るようにと?」
「そのように仰せつかりました、順三様ともども、だそうです」
封書を紙切り刃で開きながら、モニカは静かに言った。
港にある大使館は外交の場だ。ここへ呼び出しを受けるということは、相応の出来事が起きようとしている証左である。
書面に目を通しながら、彼女はつづけた。
「外務省越しの交渉のご様子ですね。のらりくらりと呼び出しのご事情には触れない文章ではありますが……およその内容はつかめております。焚きつけたのがどなたかも」
「もしや、
「おそらくは。つながりを絶たれるよう先日立ち回りましたが、なにかしらの旨味を省に提示して一度だけ機会を得たというところでしょう」
「申し訳ない……うちの実家が、最後まで敵に回ってしまって」
「そんなお顔なさらないでください。妾は、あなたと出会えたことを僥倖だったと感じております。ゆえに須川の家にも、その点だけは感謝しているのですから」
ともあれ敵対する以上は容赦しませんが、と冷ややかに言い、策謀家の面を見せる表情でモニカはきびすを返した。
窓辺に寄って、沈む夕日のかなたに見える港へ目を凝らす。
この日ノ本の土地の果て。そこが次なる戦いの場となる。
「いよいよ大詰めに至るようですね。妾への妨害もこれがもっとも大きなものとなることでしょう」
「御身は、俺が守ります」
言えば、モニカは笑わずに受け止めた。
「ありがとうございます。信頼しております」
「はい……でも俺、政治的な部分はよくわからないんですよね。いったいどのような用件で向こうは俺たちを呼び出すのでしょう」
「それについては順三様も触れていらっしゃいましたよ」
「え?」
思い返すが記憶になく、順三は首をかしげた。
モニカは自分、順三、と交互に指を差してから、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「この國の法は、妾たちの婚姻を許さないということです」
#
法は法である。日ノ本において満十五歳を下回れば婚姻は許されない。
それを建前に呼び出し、逃れ得ないようにして追い詰める。そのような算段だろう──とモニカは言った。
翌日。
二人は港の大使館に居た。
待ち受けていた外務省の職員はやはり、会話の端々から須川の息がかかっていることを感じさせた。
モニカがそれとなく「
実際、理は向こうに傾いている。そもそもがモニカは大使であり、ここへの滞在許可こそ出ているものの婚姻だのといった大きな契約にまつわることまでの許可は出ているとは言い難い。
開港から五十年が過ぎたとはいえ、ながらく鎖国体制だった日ノ本は他国との差異・他国との領域のちがいといった法整備がまったく追いついていなかった。
だがそれによっていま不利益を──命を狙われるという最悪の不利益を被ろうとしているのは、モニカだ。
これを理解していて冷徹に突き付けてくる。そんな、『政治』の場面に出くわしたことは順三のなかにまた大きな価値観の揺れをもたらしていた。
「……大丈夫ですか?」
数時間に及ぶ聴取と婚姻解消に向けての説明、およびそれが成されれば順三が引きはがされる流れの講義。淡々と繰り返される、彼らによる「モニカを個人でなく立場におかれたモノ」としか見ない語り。
あまりにも人の道に外れたその行いに、やっと得た休憩のあいだ順三は気分の悪さを隠し切れなかった。そしてモニカに心配をさせていた。
「申し訳ありません。ふがいない様を見せて。……重ねて申し訳ありません。日ノ本の人間が、あなたにあのような態度をとって」
「仕方のないことです。政治ですもの」
もし、ここで婚姻解消となったなら。
すぐさま順三は刀を取り上げられ、捕縛される。いまこのときはモニカの庇護下にありかつ彼女が「刀などどこにありますか? そのようなもの見ていません」との態度をとっているから、かろうじて成立している状況なのだ。
そんな屁理屈に、屁理屈を返されたかたち。
順三は、己が無思考に受け入れていた法や正しさというものの無慈悲さと不寛容に、ただただ不快感を抱いていた。
だが気分を害してうずくまっている場合じゃない。
「もう、
地面についていた仕込み杖の鞘をぎゅっと握りしめながら、順三は言う。
モニカは微笑み、反撃を告げた。
「ええ。先方の話はおうかがいしましたし、先ほど向こうから『おおまかな説明は以上です』との言質もとりました。……あちらも長時間の語りで疲弊したのでしょうね。ぼろを出してくださって大変助かります」
すうっと裏手の出口にやってきたモニカは、白レヱスの手套をはめた手で扉を押した。
「参りましょう順三様。ここからは籠城戦です」
#
「……奴らが消えた? どぉいうことだ」
同じく大使館、その外周部にて。
坂東の手の者による
これにより外務省の人間を引っ張ってくることに成功した太一郎は、そちらから彼らに法的根拠を理由に婚姻解消を求めるよう働きかけてもらうことにした。
あとは順三が政府筋の者に引き離され得物を奪われた瞬間を狙い、太一郎と坂東をはじめとする百夜会の残りの猛者で血祭にあげる。その後にゆっくりと、異世界の姫の身柄を捉えて遊ばせてもらえばいい。
そのように考えていたのだが。大使館内部に潜ませていた間者は、モニカと順三が姿をくらましたと太一郎に伝えてきた。
太一郎は表面的にはにこやかにふるまいながら、片手で相手の顔面を鷲掴みにする。もう片方の手で素早く腰の杖を抜き、相手の腹部に突き付けた。
「どこに消えたァ? そもそもまだ尋問の最中だろぉが」
「そっそれが……ひと段落したところで、忽然と」
「ちっ、俺たちの存在に気付かれたか? だがよ、もしそうだとしたら。間者としてやつらにもっとも接近してたテメエの落ち度だとは思わねェか」
「いっいやっ、そそそんなこと言われてもっ、」
「言われたことも満足にできねェようじゃ聞き取る部分も要らんだろ」
鷲掴みにしていた右手を素早くずらし、左耳をつかむ。
同時に杖先は右耳に向けて【断風】。そして左耳は握力でちぎり取る。
あああああ、と叫ぶ間者だがもう自分の声もまともには聞こえまい。いらつきながら、太一郎は耳を放り捨て歩き出した。行く先は港の密会所、いつも坂東たちと落ち合うところだ。
「奴らはどこに行きゃぁがった……おい坂東、港はテメエらの庭だろう」
「そのはずだがな。お前の愚弟、視線をくれてやるとすぐに気づきよるわ。アレではなかなか近づけん」
「ナニあのバカを褒めてくれちゃってんの? 相対的にテメエらが無能晒してるってことだぞしっかりしろや」
「フ。案ずるな、捉えられなかったなら網のない場所を抜けたということ。もう行先は割り出せている」
「どこだよ」
「船着き場だ。とはいえ、出航できるものは割り印状を持つ船舶に限られておる。いまそうした船が無いことは確認できておるでな、もはや袋のネズミよ」
坂東はすでに包囲網を狭めつつあるらしく、あとは待てばよいと考えている様子だった。
しかし太一郎にはひっかかるものがある。
逃げ隠れするのであれば、そもそも呼び出しに従わずに船舶を用意して逃れるなどほかに手があったように思われた。それを、わざわざ話だけ聞きに来て、なぜいまになって逃げる?
話は聞いたという体を取りたかったのか?
それによってできることはなにか、あるのか?
考えをめぐらし、ふいに、太一郎は思いつく。
「おい。まだ奴らは船に乗り込んでねェのか」
「そのようだが、どうしたのだ」
「いますぐ奴らを止めろ! 船はマズい!!」
坂東の襟元につかみかかる太一郎だが、このときすでに遅かったと知るのはそれから小一時間ほどあとのことである。
#
「遅滞も戦術のひとつです」
客船のなかの一室で、優雅に茶の器を傾けながらモニカは言った。
話は聞いた。向こうから「話は以上です」との言質を取った。
ではあとは、それをこちらが吟味思料する手番だが……吟味、思料するにどれだけの時間をかけるかはとくに伝えていない。
いくら時間をかけてもいいというわけだ。
もちろんそれだけでは向こうがしびれを切らす。盤外戦術には盤外戦術、たとえば食事の供給を「不慮の事故で」断つとか、周囲からモニカとその侍従たちへまた暗殺の圧力をにおわせるとか、根競べをする方法はいくらもある。そも法に触れているのだからと強硬手段に出ることもできる。
だがそれらの手段も結局のところは、「
「日ノ本の民である順三様の前で悪く申し上げるのは少々心苦しいのですが……法整備がいつまでも追いついていないことがこの國の欠点ですね。かたちだけ諸外国や我々の真似をしても、実が伴っておりません」
「急進、革新には相応の代償があった、ということですか」
「領海や領域の概念をもう少し早く決めておくべきでしたね」
鎖国が長かったのでは考える必要もない概念だったのでしょうが、と付け足しながらモニカはカップを机に置いた。
客船のなかの執務室は広かった。モニカが手配したこの船は、彼女の帰還用とはまた別に異世界より呼び寄せた『軍用艦』であるが居住性をかなり重視されているらしい。天蓋付きのベッドが鎮座しており、……必要もないのに枕がまたこの部屋でもふたつあった。
「こほん。あとはここで暮らし、時間切れを待ちましょう」
枕を見てしまっていた順三に咳払いしてみせて、モニカは意識を引き戻してくれた。あわてて彼女に向き直る。
そこへ、侍従長の彼が現れて茶を淹れなおしていった。
そう、侍従たちもすでにこちらへ移っている。モニカが大使館を訪れるあいだに、だ。
いや移っているというよりは──モニカたちの狙いに沿って語るなら、『帰国した』だろうか。
「……この船舶が、異世界の領土というわけですからね」
順三はぼやいた。
窓の外、見やる港町は見慣れた横浜である。
けれどこの船舶上は『
……異世界と日ノ本は陸続きでないが、かといって海続きでもない。境界門を介して偶然につながってしまった隣り合わせの夜霧の向こう側であり、そこに彼我の距離の概念は、どのように設定していいかわからなかった。
だから領海──モニカが語ってくれた、異世界の国々の間での取り決めである経済水域や法の及ぶ範囲の概念──が、日ノ本にはない。鎖国が長かったため他国との間に隔たる海を「どこまでが自国か」と決める必要が、なかったとも言える。
そのことにモニカは付け込んだ。慣習上、船舶でのもめ事にかかわる範囲を決めるために日ノ本では『船上は所属する國の延長にある』としていた。つまり船の上では、属す國の法が適用される。
日ノ本における婚姻の法は、ここでは適用外だった。
「とはいえ、もうひと波乱はあるでしょうね」
「え」
安心しきっていた順三に釘を刺すようにモニカは言い。
実際、三日後にはその通りになる。
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