第3話

しゅうすけたちは一体どこへ行ってしまったのでしょうか。ぼくは学校をに見て周りました。中庭にも、図書室にも、校舎裏の畑にも、渡り廊下にもいません。


焦ってよたよたと歩き回っていましたが、しばらくして、しゅうすけが6年生に殴られていた、なんてのが実はぜんぜん大したことじゃなかったから、みんなそそくさと帰ってしまったんじゃないかと思いました。それなら、安心です。何も起こらなかったに越したことはないのです。


ぼくは明日何事もなかったように遊びに集合して、昨日はどこに行ってたのかと訊かれたら、お腹が痛くてトイレに行っていたとでも言えばいいのです。もしかしたら、しばらくの間、あだ名がウンコマンになってしまうかもしれませんが、しゅうすけが6年生に殴られることなんかより、ずっと良いのです。


だって悪いのは約束を忘れていたぼくなんだから。


そうと決まれば帰ろう帰ろう、帰ってしまおう。


なんだか突然に爽やかな気持ちがおこってきました。のどに詰まっていたイワシの小骨を白ごはんでお腹まで流し込んだ後のような、そんな気持ちです。


そうだ! ぼくは唐突にひらめきました。毎朝いつもより早起きしてランニングをすれば良いのです。そしたら足も速くなって、ママも陸上クラブに通うことを許してくれるに違いありません。なあに、簡単なことです。今のぼくならなんだってやれるような気がします。やる気がごうごうと燃えさかっているのです。


ぼくは脚さえ元気だったなら、きっとスキップをしていたでしょう。さっきまでの何倍も軽い足取りで、そのまま学校を出ていこうとしました。


そこ、校門の前に、しゅうすけがいました。しゅうすけは、右手にお札を握っていました。


ぼくは、これは絶対に見てはいけないものだと感じ、咄嗟に曲がり角に身を隠します。どうやら向こうには気づかれていないようで、ぼくは角から顔の半分だけ出して様子を伺うことにしました。


しゅうすけは誰かと喋っています。でも、その相手は門の柱で隠れて見えないし、遠くて何を言っているのかもはっきりしません。


もう少し身を乗り出せば誰と喋っているのかが分かりそうですが、分かってしまうことが妙におそろしく、身動きが取れません。りょうちんが昨日言っていた、「6年生」という言葉が頭の中をぐるぐると回っています。


そしてついに、しゅうすけは右手のお札をその誰かに渡しました。何てこと! ぼくは心の中で叫びました。ぎゅっと結ばれている唇がぷるぷると小刻みに震え、喉からじんわりじわりとムカムカが昇ってくるように感じました。


それは情けないぼく自身に対しての怒りでした。


ぼくが今日より自分をばかだと思った日はないでしょう。友だちとの大切な約束をすっぽかし、愛ちゃんとの陸上クラブのにうつつを抜かし、そして今、ぼくは大切な友だちがされている現場に居合わせながら、何もすることができずに、見ていることしかできずに!


ぼくはモーレツに泣きたい気分でした。大きな声でひきつけを起こして、かんしゃくで手足を空中に放り出したかったのです。でも、もしそれでぼくのことがバレてしまったら、ぼくは「6年生」にどうされてしまうでしょう。そう考えると、泣きたい気持ちに怖さが勝って、自分を抑えることが簡単にできました。その薄情さがまた、どうにも腹立たしいのです。


ぼくの中で凶悪な黒いつむじ風が駆け回っていることなど知らないふうに、時間はそそくさと流れ、は淡々と進んでいきます。こんなにもあっさりと。しゅうすけが6年生にお金を渡すのは、いったい何度目なのでしょうか。2、3回目で、果たしてここまでスムーズにできるものなのでしょうか。ぼくには見当もつきませんでした。


「6年生」。なんて嫌な響きなんでしょうか。ぼくもいずれ6年生になってしまうなんて、考えたくもありません。でも、このままのぼくもまた、この上ないほど嫌だと思いました。


6年生はお札をしばらく見つめていたようでした。顔は隠れて見えませんでしたが、お札をつまんでいる手の様子と、しゅうすけの怯えたような目がそう伝えているのです。


そして、6年生はポケットにぐしゃりとお札を突っ込み、しゅうすけを雑に追っ払いました。「しっしっ」といったような6年生の右手を見たしゅうすけは小走りでどこかへ行ってしまいました。


6年生はしばらくそこに立っていましたが、しゅうすけが見えなくなったのか、ようやくそこから動きました。


門の陰からようやくその顔を見せた6年生は、


りゅーやくんでした。


毎朝登校班の班長として、ぼくやあいちゃんを、言うなれば守っている、あのりゅーやくんが、ぼくの友だちからお金をまきあげていると言うのです。


一瞬、夢を見ているのだと思いました。ぼくはあんまり疲れたから、しゅうすけたちを探している間に、ぼく自身も気づかないうちに倒れてしまったのだと思いました。


でも、足のぴりぴりした痺れや、冷たいようなぬるいような風は、あまりにも本物のようです。夢であってほしいと思うものは、大抵現実なのです。


……たとえ現実だったとして、ぼくが今、何かできるでしょうか。そんなはずがありません。ぼくは友だちが受けているであろう仕打ちに怒りを覚えるでもなく、その友だちのことを心配するでもなく、ただ、目の前で淡々と起こったおそろしいことに動揺して、自分の勇気の無さを悲しんでいるだけなのです。


勇気というものは何もないところから都合よく湧き出てくるものではありません。ぼくは頭の中で言い訳をぐるぐる巡らせながら、りゅーやくんが立ち去ることを待っていました。


ふと空を見上げると、オレンジと水色がグラデーションになって、まだらに白い雲が零れています。その筆で引っ張ったようなタッチがぐおーんと拡がって、夕方を作っているのです。


そして視線を足元に戻すと、黒くて硬いアスファルトが寝そべっています。目をこらすと透明やらグレーやら茶色やらのつぶつぶがめり込んでいて、そのゴツゴツとした平べったさが少しだけ嫌でした。


ぼくはりゅーやくんが見えなくなってしばらく経ったあと、ようやく帰る気になりました。


きっと帰ったら、まだ宿題をやっていないので、ママに「こんな遅くまで何してたの」と問い詰められるでしょう。一刻も早く帰りたかったのですが、りゅーやくんと出くわすわけにはいかなかったので、ふらふらと頼りない足取りで歩いて帰りました。


家に着くと、もう6時半でした。ママは、ぼくが予想したことと全く同じもの言いで叱ってきました。


「宿題もしないで、陸上がどうたら言ったっきり、どこ行ってたの!」


「……走ってた」


もちろん嘘ではありません。ちゃんとボロボロになるまで走りました。


ところが、言葉足らずではありました。


「あんた約束を忘れてたとか学校に戻るとか言ってたじゃない! 遊んでたんでしょ!」


「遊んでない!」


これも本当です。でも、ぼくがどれほど大変な思いで学校に戻っていたのか、ママは知るよしもありません。


「嘘をつくな! 遊んでたに決まってるじゃない!」


ママは悲鳴に近い声で叫びました。家の中の空気がまた一段と濁ったように感じました。こうなるとママはもはや聞く耳を持ちません。ママの中で、ぼくは遊んでいたということに決定したのです。


ぼくの気持ちを理解してくれる人は誰もいません。でも、こんなに惨めなぼくのことなんて知ってほしくないような気もします。ぼくは、困っているという理由それだけでぼくを助けてくれる、アニメのヒーローのような存在を求めていました。


もしヒーローがいないなら、ぼくが戦うしかありません。ぼくは「今から宿題やります」とママに言い、ランドセルを抱えてそそくさと部屋に逃げ込みました。これが、一般人にとって最も賢明な戦い方です。本当は汗でぐしょぐしょだったのでお風呂に入りたかったのですが、ここでお風呂に入るのは悪手だということをぼくは知っていました。お風呂から出るとすっきりするかもしれませんが、肝心の宿題は終わっていないからです。


部屋のドアを閉めてしまえば、もう一安心です。ママはさすがにここまでは来ないし、ぼくが宿題をやっている間にママの怒りが収まれば、それでよいのです。


そうして宿題をやっていると、一つ、気になることが思い浮かんできました。一体、まーくんたちは今日の放課後、何をしていたのでしょうか。今日のぼくはあまりにも呆けていたので、みんなが学校に来ていたかどうかさえ分かりません。


りゅーやくんがをしていたのです。もう誰が何をしていても大概のことは驚かないんじゃないかと思いました。


つまるところ、ぼくはまーくんたちさえも疑い始めたのです。

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