第2話

どうやら、ぼくは新しいぼくが目覚めて2日目にして、起きてから学校に行くまでのくり返しに飽き飽きしてきたらしく、ぼくが布団の中にいるらしいことと、外が明るいことが分かった時、ため息をついてしまいました。


ママの、起きなさい、という声を聞いたらますます起き上がるのが面倒になってしまうので、ぼくは布団から転がるように出ました。じんわり暖かくなってきたので、そろそろ毛布はいらないかな、と思いました。


顔を洗うといくらかすっきりします。何をすればいいか分からないけれどそこにある「やるべきこと」の周りについているカムフラージュをはたき落とすようなものです。やたらと大きく見えるやるべきことも、「はっきりしない」というカムフラージュをとっぱらってしまえば意外とシンプルで、こじんまりとしているものです。ぼくは朝ごはんを食べて、学校に行けばいいのです。


それでも、たとえ小さな段差であっても、それは段差に変わりありません。少なからず足をあげなければならないのです。学校に行くというのはそういうもので、やっぱり憂鬱であることには間違いありませんでした。


時間は止まってくれません。ぼくはそのことをようやく理解しつつありました。いつだって時間は、自分に都合の悪い動き方をするのです。あっという間に登校班の集合時間がやってきて、ぼくはまたしてもママにつまみ出されるようにして出動しました。


集合場所に行くと、あいちゃんがこっちを見て、笑顔でおはようと言いました。ぼくはぼくの胸がきゅううと絞まるのを、悲しいみたいに感じました。それでも、今までよりははるかにマシにおはようを返すことができました。


「わたしね、陸上のクラブに通うことにしたの」

学校までの道のりを歩きながら、あいちゃんはそう言いました。


ぼくは、バラエティ番組で元アイドルの女の人が、爆発の炎から走って逃げていたのを思い出して、あいちゃんはずいぶん先のことを見すえていて立派だと考えました。


それで、「アイドルって大変だね」と言うと、あいちゃんは、「ええ〜っ? アイドル関係ないよ〜」と笑いました。


ぼくは、アイドルが関係ないのに陸上のクラブに通う理由がよく分かりませんでしたが、あいちゃんの笑った顔を見て、どうでもいいやと思いました。


ふと、後ろを振り返ると、あいちゃんが目をきらきらと輝かせて、ぼくに何か言いたそうにしていることに気づきました。

「ん? なに?」


するとあいちゃんは待ってましたと言わんばかりにぼくに言うのです。


「一緒に陸上、行かない?」


ぼくは、ほんの一瞬だけ、ぼくの意識が地面に落っこちそうになりました。そのくらいには驚いたのです。ぼくの頭の中では、新幹線みたいな速さで「デート」という言葉がぎゅんぎゅん走り回っていました。「デートなわけないじゃん」とも、一瞬思いましたが、その考えは「デート」という言葉に跳ね飛ばされてしまいました。


一緒に陸上のクラブに行けたら、登校班とは違って、ほかの班員のような邪魔者がいません。そんなの、心臓がもたないかもしれないと思いました。ぼくとあいちゃんの、なんだか楽しげな様子がほわほわと頭に浮かんできます。


ママに訊いてみる、と答えたはいいものの、その後、ぼくはほとんどあいちゃんの話を聞いていませんでした。


授業が始まっても、変わらずそんな感じで、なんだかずっと夢を見ているような気分です。体が軽くて、ホットミルクのお風呂に入ったみたいにふわふわしています。


結局、先生の話をちゃんと聞いていなかったので、2日連続で算数がよく分かりませんでした。


授業時間も、休み時間も、給食の時間も、掃除の時間も、ずうっとそんな調子だったものですから、放課後になってもぼくはまだふわふわしたままでした。


陸上、陸上、陸上、陸上、陸上、陸上……


ぼくはもはや陸上のことしか考えていません。陸上とは言っても、速く走って大会で優勝するとか、毎日練習を頑張るとか、そういうことではありません。とにかく、あいちゃんと一緒にいることばかり考えていたのです。


なので、ぼくはまるでユーレイみたいに、ふらふらと、それでいてまっすぐ家に向かって帰りました。前を向いているようでいて、ほとんど何も見えていませんから、車が来ていたらきっと跳ねられていたでしょう。車が通らなくて本当にラッキーだったと思います。


ママ! 陸上のクラブに行きたい!


心の中でそう叫ぶと、ぼくの心の中に住んでいるママは


もっちろん! 運動したいなんて、えらいわね! と言ってくれました。


ぼくはすっかり勢いづいて、玄関のドアを開けるなり言いました。


「ただいま! ママ! 陸上のクラブに行きたい!」


その時ママは、作りおきしておく用のカボチャを切っていましたが、目をまん丸にしてこっちを見て、右手に包丁を握ったまましばらく固まっていました。


ぼくは想像と違う反応に慌てながら、急いで付け加えます。


「あのね、あいちゃんが陸上のクラブに通うから、一緒に来ないかって誘ってくれたの!」


ママはようやく要領を得たようで、ああ、という反応をしました。そして、短く、それでいて鋭く「ダメ」と言いました。


ぼくは、あまりにも意外な一言に、驚きすぎて上手く理解できませんでした。


「えっ?」


「ダメよ、ウチそんなお金ないし。あんた将来陸上選手になって、走って食ってくの? 無理だし、そんな気もないでしょ、そんなこと。あいちゃんと遊びたいだけでしょ? あんた足遅いんだし。あんたはそこそこ勉強できるんだから、勉強で食っていきなさい」


ぼくは、本当にびっくりしました。細胞一つ一つがぎょっとして、わけも分からず鳥肌がぶわわわっと起こりました。


なんとか食い下がれないか、と考えをめぐらせました。すると、不意に思い出しました。


今日は帰りの会が終わったらすぐにしゅうすけを捕まえて、6年生に殴られるわけをたずねなければならなかったのです。ぼくは、ぼくの鳥肌が鋭くなってぼくの体をぶすぶすと突き刺すような痛みを感じました。陸上も大切ですが、友だちとの約束はもっと大切なのです。


ぼくはママに「約束があるの忘れてたから学校に戻る!」と言い、家を飛び出しました。


帰りの会が終わってから、どれくらいの時間が経ったのでしょう。思えば今日は時計を一度も見ていません。今日のぼくがどれほど呆けていたかを思い知り、心の中で何度も自分を罵倒しました。


ダッシュで学校に戻っていましたが、すぐに息が苦しくなって、走るペースは遅くなります。そのうち、走り続けることも叶わなくなって、ついに歩いてしまいました。ぼくはこんなにも体力がなくて、こんなにも走るのが遅いのか、とがっかりしました。


なんだか泣き出しそうになって、必死にこらえて走ろうとしますが、疲れてへろへろになった両足がそうはさせてくれません。ぼくはみっともなく、民衆に石を投げつけられる王様のように、よたよたと歩くことしかできないのです。


もし、あいちゃんと一緒に陸上のクラブに通って、こんなにぼくが情けないことを知ってしまったら、あいちゃんはぼくを励ましてくれるでしょうか。あいちゃんは優しいけれど、そんな時までも優しいかどうか、ぼくは考えられませんでした。考えたくなかったのです。


時間はいつだって、ぼくに都合が悪いように流れます。朝はあんなに短かった1分が、今はこんなにも長いのです。


でも、どんなにゆっくり時間が流れても、止まることは決してありません。時間は前に進むことしかできないのです。ぼくはようやく、顔中を汗やら何やらでびっしょびしょにしながら、学校に戻ってきました。


ぼくはあんまり自分を責めすぎたので、この時すでに心がほとんど折れかけていました。空はなんだか薄暗く、そろそろ梅雨入りしそうな雰囲気でした。

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