あの日夢見ていたぼくたちは死んだ

海鍬形

しゅうすけ編

第1話

ぼくがぼくとしてのはっきりとした意識を持ったのは、小学4年生の、本当になんでもない朝のことでした。


 ぼくはぼく自身が目覚め、脳みその中を意識やらなにやらが駆け回っていることに気がついて、なんだかいい気持ちになりました。


 リビングから、ママの起きなさいという声が聞こえてきた時、ぼくは初めてママという言葉の意味を理解したような気がしました。


 いつもとは違って、ぼくがリズムよく、目をこすらずに階段を降りてきたことが分かったママは、元から丸い目をさらにまんまるにして、「あら、ずいぶん寝覚めがいいのね」なんてことを言いました。


 ぼくは新しい自分になったことで、すっかりご機嫌だったのですが、ダイニングの椅子に座って、朝ごはんの目玉焼きを突っついているうちに、だんだん学校が憂鬱になってきました。学校が嫌いなわけじゃありません。友達だっています。ただ、わけもなくそういう気分なのです。


 朝ごはんの後、ぼくは着替えの前でしばらく、どうやって学校を休んでやろうかと頭を捻っていました。しかし、そんな抵抗もむなしく、ママに半ばむりやり外につまみ出されたぼくは、仕方もないのでおとなしく学校に行くことにしました。とは言っても、登校はひとりじゃありません。中学生の兄ちゃんとは違って、ぼくはまだ小学生だから、近所の小学生と一緒に登校しなくちゃいけないのです。6年生のりゅーやくんが班長で、5年生のかなでちゃんが副班長です。1~4年生のぼくたちは、この二人に挟まれて、一列になって学校に行くのです。先生は危険から守るためだと言いますが、ぼくが大きな大きなトラックを想像したら、小学生が何人いても敵いませんでした。


 でも、この班が嫌いなわけじゃありません。あいちゃんと喋れるからです。あいちゃんとは家も近くて、幼稚園のころからよく遊んでいたのですが、どうにもぼくは“しゃい”な性格で、だんだん年をとってくると、こういう時じゃないと上手く喋れないのです。


 あいちゃんは髪の毛もさらさらで、てつぼうも上手で、勉強も得意です。将来の夢はアイドルになることだって言ってました。ぼくはあいちゃんのことを可愛いと思っているので、いつも、きっとなれると言ってました。そしたらあいちゃんはいつも、へへへ、と笑います。その可愛いこと! どうやらぼくはあいちゃんのことが大好きだったらしいのです。


 ぼくはそのことに今日気づいてしまって、いつもよりも“しゃい”になってしまいました。おはようと挨拶をして、向こうからおはようと返ってくると、ぼくの胸はどきんどきんと言うのです。静かにしろい、と思いながらあいちゃんと喋っていると、いつの間にか学校に着いていました。


 かなしいことに、その日の学校は、算数がぜんぜん分からなかったこと以外、とくべつ何もありませんでした。


 でも放課後になると最高です。ぼくはぐちゃぐちゃの字で算数プリントと漢字ドリルを終わらせて家を飛びだしました。今日はケンちゃんと、しょうすけと、りょうちんと、まーくんと、ぼくで、はなグラに集合して遊ぶ約束をしています。はなグラは「花山なんたらグラウンド」という名前だったから、みんなにそう呼ばれているのです。


 ぼくがはなグラに着いた時、しょうすけ以外のみんなは既にそこにいました。いつもならぼくは、まーくんの次の二番目に着くのですが、今日の算数はとびきりちんぷんかんぷんだったので、いつもより遅くなってしまいました。


 「遅いぞー」とケンちゃんはサッカーボールを蹴りながらぼくに言いました。ケンちゃんはフットサルクラブに通っていて、将来はサッカーの日本代表になると言っていました。


 キーパーをしていたまーくんは、ケンちゃんにシュートを決められながら、「しゅうすけは今日も遅いなー」と言います。


 まーくんの言う通りで、しゅうすけはいつも集合もビリっけつです。そしていつも全員で家まで迎えに行きます。今日ももちろん、そうすることになりました。川沿いをずーっと下っていけば、しゅうすけの住んでいるアパートが見えてきます。「あいつ、アホだからなー」ケンちゃんがリフティングをしながら言います。しゅうすけは勉強が苦手で、前の夏休みの時も学校に呼び出されて“ほしゅう”を受けさせられていました。その期間中ぼくたちは、学校の門の前で、“ほしゅう”が終わったしゅうすけが出てくるのを待ち伏せするのです。そしてしゅうすけを捕まえて、そのまま夕方まで遊んでいました。


 川沿いを歩いていくと、しゅうすけの住んでいるアパートが姿を見せました。ぼくはこの辺の場所が、なんだかどんよりしていて、気持ち悪くてあんまり好きじゃありませんでした。


 ぼくたちはアパートのさびた階段をのぼって、せーのでベルを押しました。キンコンという音が奥の方で聞こえ、その後少しの間、どたんだとだと、という音が響いてきました。ぼくはこの音が好きでした。ぼくにとってこの音は、遊びが近づいてくる音だからです。でも、今日は違いました。ぶ厚い扉を押しあけて出てきたしゅうすけのほっぺたには、大きくて黒っぽい青たんができていました。「ごめん、宿題まだおわってないから、あそべない」その青たんは腫れていて、しゅうすけは喋りにくそうでした。なんだか生ぬるい風が、扉としゅうすけの隙間からねっとりと、ぼくたちの方にまとわりついてきたような気がしました。


 しゅうすけがあんまり真剣にかなしそうな顔をするので、ぼくたちは青たんにつっこんだりすることができないまま、扉が閉まっていくのを、ぼうぜんと眺めていました。扉がバッターンと大仰な音を立てて、続けざまにガチャガチャン、と鍵がかかった時、ようやくぼくたちは顔を見合わせることができました。


 ぼくたちはさっき下ってきたばかりの川沿いの道を、行きと違ってへんてこな違和感を抱えて上っていきました。なんだかいつもより坂が重たく感じられて、ぼくは、さっきまとわりついてきたあの風が、まだぼくの背中にひっついているのかと思いました。


 その時、今日はやけに静かだったりょうちんが口を開きました。「……あのさ、実は……おれ、今日、しゅうすけが6年生に殴られてるの、見た」


 それを聞いたぼくは、だからあんな大きい青たんができたのか、と納得していましたが、まーくんはそうじゃありませんでした。「なんで? なんで殴られてたの?」


 ぼくはうっかりしていました。そりゃそうです。6年生に殴られるなんてこと、なにか理由があるに決まっているのです。ぼくは、しゅうすけが傘で6年生のベンケイの泣きどころをぶっ叩いたり、カンチョーしたりする様子を想像しました。


 昨日までのぼくならここで、「カンチョー? カンチョーしたんじゃない!」とおどけていたでしょうが、ぼくは今日から新しいぼくです。なんだかあまりふざけたことを言っちゃよくないような気がしたので、静かにりょうちんが何を言うか待つことにしました。


 でも、りょうちんは「分からない」としか言いませんでした。分からないものは分からないので、誰も、それ以上は何も言えませんでした。


「明日訊こうぜ」まーくんがそう言ったのは、はなグラに戻ってきた頃でした。そのころにはケンちゃんもぼくも、いつも通りではなかったものの、さっきよりはいくらか落ち着いていたので、すぐに全員が賛成しました。


 ぼくたちは、なんだか遊ぶような気分にはなれませんでした。サッカーボールを手でコロコロ転がしているのが精いっぱいで、そわそわして、気が気じゃなかったのです。できることなら、しゅうすけの家まで戻って、無理やりにでも話を聞きたかったのですが、全員の耳に、しゅうすけの家の扉、その鍵をかける音がへばりついていました。そのぶっきらぼうな鍵の音が、ぼくたちの気持ちをどんどん暗くしていくような気がしました。


 結局ぼくたちは、それきりサッカーをせず、「明日は帰りの会が終わったらすぐにしゅうすけを捕まえる」ということだけ決めて、それぞれの家に帰りました。


 家に帰ると、兄ちゃんとママがまた喧嘩していました。二人は最近すこぶる仲が悪く、いつも、ぼくからすればひどくどうでもいいことで怒鳴りあっています。ママは帰ってきたぼくをちらっと見て、おかえりとだけ言いました。兄ちゃんはこっちを気にもとめない様子で、ぼくは少し寂しく思いました。2年くらい前までは、ぼくと兄ちゃんが時々ばかなことをして怒られ、パパがママに呆れられるくらいでしたが、最近はどんどん悪くなっているのです。


 兄ちゃんはなぜだかずうっと何かにイライラしているようでした。ぼくは、すぐに怒りだす兄ちゃんもですが、その時に関係のないことまで持ち出して叱るママも悪いと思っています。ママは、お弁当をすぐに洗い物に出さないことで兄ちゃんと揉めた時には、だんだん話を変えていって、ついには兄ちゃんが部活動の大会でマネージャーを邪険にしたことを叱ったのです。しかも、そのことは大会が終わったあとに既に一度叱ったのにです。同じことで叱られるたびに兄ちゃんもムキになって、二人の言い争いはだんだん白熱していきます。


 ここでぼくがだらだらしていると、ぼくまで巻き込まれて叱られることになるので、ぼくはそそくさとお風呂場に逃げ込みました。


 お風呂に入ると、ママと兄ちゃんの声も真っ白な湯気でぼやぼやになってはっきり分からなくなります。家が落ち着く場所だと言うなら、ぼくにとっての家はこの小さなお風呂だと思いました。

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