小野菜々子
気がつけばあと1日で20代が終わる。正確にはあと、1時間48分で30歳になってしまうのだ。
気がつけばなりたくない大人になっていた。そう思った途端、さっきまで力強く言ったことが恥ずかしく感じ、無駄に歳をとったと実感する。今を楽しみ大きな声で笑う学生が馬鹿騒ぎしているだけの空っぽな人に見えて苛立ちつつも嘲笑っていた私は嫉妬していただけなのだと後になっていつも自分に嫌悪する。誰から言われたわけじゃなく自分で気がついてしまったから、尚更きまりが悪い。私の悪い癖だ。何かを否定し大人な自分に酔っている。もっと言えば優位に立てた気がしたのだ。昔の私にはなかった優越感。優越感や承認欲求のようなものは麻薬だ。1度覚えれば、なくてはならなくなる。30手前で、まだそんなモノを欲している。結婚をして子供がいる彼らからすると私は酷く惨めに見えるのだろうか。それでも、私は彼の手を取ってしまった。彼に妻子がいると知りながら、拒めなかったのだ。さっきまで抱かれていた体が少し熱を帯び彼の存在を主張する。1週間前「誕生日を一緒に迎えよう」と彼が言ったのだ。なのに、子供が熱を出したとあっさりとホテルを出ていった。頭では分かっている。家庭を蔑ろにしていても、1番大切なのは家族なのだと。私では無いのだと。そう思うと鼻の奥がツンとした。泣いてはダメだ。こんなところで泣きたくない。彼との関係を続けると決めた時、私には泣く資格なんてないのだと覚悟したんだ。鼻の奥が痛いのは寒さのせいだと言い聞かせる。「今日はごめん。」そんなメッセージが心にモヤをかける。彼は本当に私が好きなのだろうか?何故私は彼が好きなのだろうか。自問自答して彼のメッセージを長押しする。何度も見た画面。【佐々木をブロックしますか?】はいと押せない私はどこまでも惨めだ。「子供が熱なら仕方ないよ。お子さん大丈夫だった?」聞き分けのいい女を演じては彼からの好意が少しでも増すことを祈る。既読にならない画面を何度も確認しては気持ちが重くなり沈んでいく。この世界に私しかいないのではないかと疑うほど孤独に苛まれる。目を閉じては何度も妄想する。浮気が奥さんにバレて離婚する彼の不幸な姿。そして私に縋り付き私に執着する彼の姿を。何度もそんなことないと言い聞かせても押し寄せる淡い期待は、言葉にしなくてもケータイを確認してしまう行動として体現される。メッセージ1件の文字に心臓が跳ね上がる。そして肩を落とすのだ。「あなたの不幸を買い取ります。」とかいてあった。イタズラにしてはタチが悪い上に、知らない人からだと思うと気味が悪かった。結局その晩、彼から連絡は来なかったどころか既読にすらならなかった。
沈んだ気持ちのまま朝を迎え仕事に向かう準備をする。30になった1日目は最悪だ。何も変わらない私。そんな私を煽るように日差しが強く刺し、素敵な1日の始まりを演出してくる。電車に体を押し込み、片手でケータイをいじる。見たらガッカリするのは分かっているのに彼のメッセージを開く。いつ見たのか既読が着いているのに送られることの無い返事。彼のメッセージを非表示にして忘れようとする。不意に気になった昨日のイタズラメッセージ。昨日は気分も落ちてたから冒頭だけ見て画面を閉じたが、改めて読んでみた。「貴方の不幸を買い取ります。報酬は1つ10万円~お気軽に貴方の不幸の話を書いてみてください。」不幸を買うとはなんだろうか。メールを書けばいいのだろうか?どんな詐欺なんだろうか?メッセージで送るだけなら個人情報なんて抜き取られないのだろうか?「不幸の買取」「あなたの不幸を買取ります 怪しいメッセージ」思いつく限りの言葉で検索をかけたがそれらしき記事はない。「新宿〜新宿〜」という言葉が聞こえて慌てて体をよじりながら出口に向かう。不幸を買い取りたいという内容が気になり、そんな話があるわけないと思いつつ、頭の中ではどう書こうかと考えてしまう始末。何となく落ち着かない気持ちで何度もメッセージを読み返す。そして、拙い文で私は私の不幸を吐き出す。「私は今妻子がある男性と付き合っています。彼からすると私は本当に遊び相手に過ぎないのかもしれません。そう思いつつも、私は彼との関係を終わらせることが出来ません。不幸になっても彼を手放す事を選べませんでした。幸せになれないと頭では分かっていても彼を選んでしまいました。彼と不幸になるなら喜んで私は不幸を受け入れたのかもしれません。でも、私1人不幸になっている気がします。彼は私の誕生日でも、奥さんと子供のために家に急いで帰るほど、正しい愛を手にしています。こんな話、自業自得と思われるかもしれません。いい歳して愛だの恋だのと、真っ当な道を選択できなかった自分に言い訳でしかないのかもしれません。しかし、私は彼から貰った言葉がどんな素敵な音楽よりも私を満たしてくれるのです。誰からも、親すらも言わなかった言葉〚愛してる〛そう言ってくれた人だから。私を見て微笑む彼の顔が頭にこびりついて離れてはくれないのです。だから、私はこんなに醜く彼にしがみついてしまう。今思うと昔まだ私が幼かった頃、父が知らない女の人と歩いてるを見た事を母に言った時、私の不幸は約束されていたのかもしれません。父は知らない女の人と家を出ていき、母は次第にお酒に溺れ、帰って来なくなりました。父と母に捨てられたと被害者ヅラしていましたが、家族を不幸にした私が幸せになれるわけが無いと今なら受け止められる気がします。長々と自分語りで嫌になるかもしれませんが読んでいただけると幸いです。」
手紙を書いているうちに涙が溢れて止まらなくなった。こんな文誰が読んで買い取ろうと思うのだろうか。でも、誰かに知って欲しい。「貴方は悪くない」そう言って欲しい。そんな言葉を未だ求めてしまう自分が嫌いと思いつつ、少しの期待を込めて送信ボタンを押す。2時間たっても何の音沙汰も無い通知達。普段使わないメールボックスを開いては問い合わせを繰り返す。新着メールの文字を想像しては心臓が激しく脈打つ。まるで今の私は、不幸を買い取りたいと言う見えもしない誰かに恋をしているみたいだ。そんな日が1週間続いたが、まだ連絡は来ない。やっぱりあれは嘘だったんだ。タチの悪いイタズラだ。そう思ってケータイをベッドに投げ捨てた。その途端ケータイが震えた。慌ててケータイを開いてメールを見る。何も届いていない。しかしメッセージが1件来ていることに気がついたら。「菜々子ちゃん?最近連絡来ないけど元気?今日の夜空いてるかな?」彼からのメッセージ。私は肩を落とした。あんなに待ちわびてた彼の連絡が今はそんなに嬉しくない。そうか、私は私を知ってくれるようとする者なら何でも良かったんだ。彼に執着していた理由なんてそんなものだったんだ。つくづく酷く惨めな人間だと自分に落胆する。微かにケータイがまた震えた。『この度は貴方の不幸の御提供ありがとございます。貴方のお手紙を読ませていただき、貴方の不幸の報酬金額が決まりましたのでご連絡させていただきました。』何となくオカルトじみて感じる文字をいざ目の前にすると呼吸が上手くできないほどに緊張する。そして、返信が来た安堵感からなのか、肩の力が一気に抜けた。私はそのメッセージをそっと閉じて削除した。私が私でいるために莫大なお金なんて必要は無いのだ。私の不幸が幾らだったかなんてどうでもいい。この世の中に私の不幸を買い取りたいと思った人がいた。1つの物語として主人のように扱ってくれる人がいた。それだけで充分だと思った。どうして1つの失敗で人生全てを悔いて人格全てを変えないと上手くいかないと思うのか。失敗したのは一部分で、全てでは無いのに。そうだ、私は少しの失敗をしただけだと思い知らされた。まだ経験したことも考えもつかなかった事もこの世の中に沢山あるのだと。それを嬉しい、素晴らしいと喜び誰かに語るほどの熱量も余裕もないが、喉の奥に詰まった湿った何かが剥がれ落ちた気がした。
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