第3話 水場

 再度、水に映る自身の姿を確認し、溜息を吐く。

 意識はともかく、身体は性別すら変化し、置かれている環境も日本の都市生活から、見知らぬ森の中へと激変している。

 今ある現実を、受け入れきれない。

 知らず知らずの内に、オレは体に巻き付かせた蔦の間に手を入れて、自分の乳房を揉んでいた。

 問題の解決には一切役立たない行為だとは思うが、逃避行動としての精神安定には繋がるような気もしないではない。女体化に伴う、セルフおっぱいセラピー。専攻でも何でもないが、大学の論文はコレで行けるのではないか?

 というか、大学を含めて元の世界に戻れるのだろうか?

 当然だが、オレの胸は答えてくれない。

 この森もすでに夜の中だ。太陽は完璧に沈んだのだろう。

 ただ、本当に夜目が効くようで、真昼のようにとはいかないまでも、移動するのに不安がないほどにはよく見える。

 文明グッバイな絶望の中にも、このように一筋の救いはあった。

 意識を切り替えよう。

 最後にもう一度だけ手で水を掬い飲み干すと、脇に置いた木の棒に蔦の束を掴んで、今夜の寝場所を探すべくその場を移動しようとした。

 が、視界に入った苔の上に、何か大きな足と爪痕がある事に気付き、硬直する。

「フッ…」と緊張の為か、肺の中の空気が口から瞬時に抜けた。

 ここは、開けた水場だ。

 他の動物も利用するだろう。

 その中には、勿論、凶暴でデカい動物もいますよね。ですよね。すでに狼に睨まれてビビっていた事をすっかり失念していましたよね。

 急いで周囲を見渡す。

 右ヨシ! 左ヨシ! 後ろもヨシ!

 何かが来ない事を願いつつ、可能な限りの速度で小川を離れる。

 ただ、川から遠ざかり過ぎても、今後の生活に困る。常に水の傍にいなければ、支障が確実に出るだろう。水場から近すぎず、さりとて遠すぎもしない常緑樹に当たりを付けて、木登りをしてみる。

 そこでも驚いたが、このエルフボディは猿のように木に登るのが上手い。…いや、猿になったこともないから、例えなんだけど。子供の頃はともかく、元の世界の大学生だったオレは木に登れなかったと思う。

 この眼といい、前の肉体よりも強くて便利なのかもしれない。

 木の上からは、小川も見えた。そこでホッとした途端、尿意が込み上げてきた。

 どうしよう?

 木の根元にすればいいのか? それで害獣除けになればいいけど、むしろ「獲物がいる」と凶悪な動物が寄って来る破目になったら?

 しばらく樹上で悩んだが、面倒になってきたので、枝の間から放尿する事にした。

なんか、下りるの怖いし。

「はぁ…」

 小便をした時の脱力感と、自然の中での解放感。日本ではしようとも思わなかった、未知の体験だった。他人の目があれば確実に変質者だしね。

 恐怖! 木の上から放尿女!

 そんな馬鹿な事を数秒間だけ考えつつ、今度は寝る場所を作る。

 オレの体重でも折れなそうなY字の枝の間に、持ってきた蔦を、落下防止用に三本ほど張る。夜の暗さでも、眼のおかげで蔦を結ぶような作業をするのに問題はない。素人工作だから不安はあるけれども。

 さらには、身体に巻き付けてある太い方の蔦も使って、木の枝に自分自身を結びつける。これなら寝ている間に落ちる可能性は、さらに低くなるような気がしないでもない。

 咄嗟には逃げられなくなるが、落下死はゴメンだった。

 木の上ではなく、土の上で寝るというのも、狼が徘徊しているような土地ではさらに御免ですし。

 将来的には、ツリーハウスでも作った方がいいのかもしれない。まぁ、どうやればいいのかも知らないし、明日、何か食べれるかの当てもないのだが。

 ホント、どうしてこんな事になってしまったんだろう…。

 何度も思うが、これはマジで現実なんだろうか?

 そりゃ、こんな所に突然飛ばされれば、おそらく誰もがこう考えるだろう。如何に日本で転生モノ作品が溢れていても、実際に自分の身に起こってしまうとは思わないだろう。

 そんなの、破滅後の世界に備えるプレッパーと呼ばれる人たちくらいではなかろうか? そういった連中だって、長年溜め込んできた備蓄もない異世界に行ったら途方に暮れるんじゃないか?

 オレなんて生存方法の知識もほとんどないんだぜ? 目の前にある、この木の葉っぱとか、食えるかどうか教えて欲しいんだぜ? 女エルフになったけど、生理とかきたら、どうすればいいんだぜ?

 せめて、唯一の武器を強く抱きしめる。頼りにしてるぜ、木の棒シャーリーン

 展望がまるでない中で、いつしかオレは寝てしまっていた。


「んご」

 寝ていた木の枝から、左足が滑り落ちた感覚で目覚める。

 全身は、縛り付けた蔦のおかげで落ちる事もなかったが、思わず反応した事で恐怖心は湧き上がった。付け加えれば、節々も痛い。

 こんな場所で寝た経験もないからな。この世界は、不必要な初体験尽くしだ。

 しかし、かなり寒い。

 出来るだけ身を縮こませ、少しは温まるかと露出した肌を手で摩る。よく眠れたものだと思う。もっと寒くなったら、凍死するのではないか、コレ?

 辺りは朝靄に包まれていて、何となくだが夜明けが近いように感じる。その場でゆっくりと見回した森は、思いのほか荘厳だった。己が置かれた状況を無視すれば、それは美しい景色が広がっている。

 昇って来る日の光と共にゆっくりと夜が払われて、生命溢れる森の息吹が静かに満ちていくような、幻想的ですらある朝の始まり。

 意識してみれば、鳥の鳴き声と思われるのも数多く聞こえていた。

 身を侵す寒気もしばし忘れ、オレはその光景に目を奪われていた。

 得も言われぬ感動が、涙となって頬を伝う。

 これは祝福だ、この異世界からの。

 元の世界を含めた今までの人生で気付かなかった、いや、見過ごしてきたであろう事象の一片を感じ取れたに過ぎないのだとしても、多分、オレは“生きる”という事に初めて向き合えたのが、今、この瞬間なんじゃないかとすら感じた。

 それほどの情景だった。

 言葉もなく、それをただ感じ入っていた。

 しばらくして、流れるままにしていた涙を拭う。

 今日の始まりもそうだが、未来にも生き続ける為には、こなさねばならない課題が山積みなのだから。しっかりと前を向かなければならない。

 先ずは、身の回りの点検と確認からかな。

 と、抱いていた木の棒がない。探してみると、真下にあった。寝ている間に落としてしまったのだろう。

 自分と木を結び付けていた蔦を取り、再度、身体に巻き付けなおし、棒を取りに降りようとする。

 その時、視界の隅で何かが動いた。

 瞬時にオレは動きを止め、息を潜める。

 すると、木々の合間を縫って、ソイツが現れた。白、黒、灰色の斑模様で、やたらとでかい図体なのに、四足で機敏に動いている。

 熊だった。

 多分、立ち上がっても、今いる場所にはギリギリ届かないだろうが、実家で熊取りのおっちゃんが見せてくれたツキノワグマよりもずっと大きい。

 しかも、それに二頭の子熊が続く。

 異世界ではどうか知らんが、子連れの親熊は、超が付くほど危険ではなかったか?    

あと、木も登れなかったクマ?

 ヤバい。終わった。さよなら世界、バッドモーニングワールド。

 極度の緊張と吹き出る汗を鎮めるべく、意識的に息をゆっくり静かにする。絶対に気付かれてはならない、一人スパイミッション24時。

 幸いというか、予想の範囲内だったというか、熊共の向かう先は小川だ。喉も潤えば、どこか別の場所に行くだろう。そうだよネ?!

 というか、オレのいる時間内には来ないでいただきたい! 野生動物の皆さんは、我が生活圏から出て行ってもらいたい!

 やはり、人類にとって自然は滅ぼさねばならない相手なのだ。早朝の感動、アレは一時の気の迷いだったのよ。巨神兵を使ってでも、森は焼き払うべきなのだ。

 今は雌伏の時だが、文明の利器を持って森林の闇を切り開こうと決意する。

 そんなオレの想いとは無関係に、子熊はじゃれ合いながら親熊の後を追う。親熊は、時折子供らの様子を見つつ水場へと向かい、スッとこちらを見上げた。

 一瞬の出来事であった。

 お互いの目で見つめ合う。

 オレは、夜の内に膀胱に溜まっていた小便を、その場に垂れ流していた。

 巨大な熊が、鼻をひくつかせ「ふごっ」と鳴らすのも目にしつつ、木の上で竦んだまま動けなかった。

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