第2話 ファーストコンタクト
音のした方向に、ゆっくりと視線を向ける。
木々の間、朽ちかけた倒木、シダ類の群生地の端から覗く顔がある。
こちらに向けて微動だにしない吻、射貫くような右目と、何かの病気なのか周りの毛が抜け落ち、片目は潰れているようにも見える顔の左半分。
青味がかった灰色の体毛。
犬、ではなく、狼だろう。
ヤバい。
今まで生きてきた日常の中で、野生の動物と面と向かって対峙した経験など一度としてなかった。
…いや、モニターから出て来た口に食われたり、知らぬ間に女になっていた事も未体験ではあったが、その流れで更なる命の危機が訪れるとか、冗談でもやめて欲しい。
狼は視線を外さない。
こちらも目を逸らせなかった。
野生動物と出くわした時、どのように対処するかなども全く知識にない。どうしよう。今、この瞬間、何をすべきなんだ!? 現状、ワンアクションで出来る事は、自分自身の胸を、添えられた両手で揉みしだくくらいだ。
相手との距離は、25メートルもなさそうに見えるが、こうも近いと攻撃にせよ防御にせよ、構えようと動いた時には噛みつかれてしまうのではなかろうか?
数秒前の自分を呪い殺したい。
特に、自分の乳をガッと掴んでいるような格好で死にたくはなかった。
吹き出る焦燥感に耐えていると、狼の方が顔を逸らし、オレとは別の方へとぎこちない足取りで去って行った。
あの狼、顔も病気っぽかったが、後ろ脚も片方怪我している様子だった。
何はともあれ、奴はいなくなった。
安堵の為か、極度の緊張のせいか、全身が汗で湿っていた。落ち着こうと、深呼吸を繰り返す。
とにかく、こんな状況にポツンと置かれ、狼との不意の遭遇で判明したが、オレの置かれている状況は非常に危険だ、という事だ。
また襲ってきそうな動物がいないかと辺りを見回しながら、地面に落ちていた割かし太目の木の棒を拾う。これで安心するというわけではないが、少なくとも、無手でいたくはなかった。
周囲には動物の姿はなさそうである事を確認すると、次に気になるのは自身の身体を守るにはどうするかだ。なにせ全裸のままは怖い。
「着る物と、何か足に履ける物か?」
もし尖った木の枝で足に怪我をしたら、破傷風とかいうのになるのではないか?
そう考えると、移動するのも怖くなってきた。拾った棒で草を払い、地面を探りながらゆっくりと移動するのが、出来る精一杯だろうか? それとも、そんな事をしている物音で、他の肉食獣を呼び寄せたりはしないか?
気にすればきりがないが、先ずは目の前に大量にあるシダ類の葉を集めた。
それを折ったり、重ねたり、編み込んだり、白詰草で花冠を作るような要領で、不器用ながらシダ葉の前掛けに、スカートに、草履のような物を急造する。
植物で何かを作ったのは、実に小学四年生の頃以来かもしれない。実家にある高原での自然教室。草木を使って遊びましょうとか、そんなだった記憶はある。
そこには狼なんていなかったけどな。
故に、必死に思い出せ、オレ。
何せ襲ってくるような動物も怖いが、じっとしていて時間が経てば、夜が来る。
火は?
飲み水は?
食べる物は?
休める場所は?
それらを出来る範囲でとはいえ、用意しなければ明日を迎えられずに終わる可能性がグッと高くなるように思う。まぁ、一切の道具もなく火を熾すやり方なんて知らないが。
過去のゲームで、アニメのキャラが遭難した無人島で生活することになる作品をやったりもしたが、眼鏡と水と太陽光で着火したり、砂浜でビニールを用いて真水を作ったりと、この場にはありもしない道具を使っていた。
自然教室でも、こんな極限で生き抜く為の方法は教えてはくれなかったな。
しかし、すぐに火をつけられるかはともかく、将来的に燃やせる枝や薪は大量に必要になるはずだ。
第一目標を水として、邪魔な草は棒で打ち払いつつ、拾える枝は左手で抱える事にして、この辺りを探索する事に決めた。
「あ」
だが、三十歩も進まぬ内に、葉のスカートはずり落ち、なんちゃって草履はほどけはじめる。
葉っぱ装備の結び目を心持ち強く結びつけては移動し、ずれては直すを5回繰り返した所で、オレは目的を変えた。
これじゃ、ぜんぜん進めん。縛れるような、蔓とか蔦なんかの植物を探そう。
森を見渡せば、蔓が絡まっている木がすぐにもいくつか見つかった。
その数は三種類。
一つ目、引っ張ればすぐに取れるが、柔らかいながら小さな棘がびっしりとあり、肌には着けたくないもの。
二つ目、力を込めれば手でも千切ることができ、細くて柔軟なので、葉は毟り取り、草履にスカートと前掛けに使っていた葉も重ね合わせ、蔓を使って縛り付けて補強した。コイツは使えそうなので、他にも巻いて束にした。
三つ目、かなり頑丈で手や棒では切れなかったので、拳大の石を拾ってきて打ち付けた。長さもかなりあったから、身体に巻き付けて服兼ロープ素材として葉を残したまま着て持ち歩く事にする。
しかし、原始時代の人類でも、もっとマシなのを身に着けていたのではないだろうか? 蔦そのものだぞ?
見る者とていない、こんな森の中ではあるが。
「靴や服を作れる人は偉いよな」
ぼやく。
この蔓や蔦を編み込めば、網くらいにはなるかもしれない。…となると今度は、その網を纏うのか?
鎖帷子ならぬ、網帷子。
狼がいるのだから、毛皮の服の方がよさそうだ。倒せればね。
皮算用から現実に戻るため、補強した草履で二度、三度と足を踏みしめてみる。さっきよりは丈夫になっただろう。
天を仰げば、先ほどよりも暗くなっている。日が沈むのが近付いているのかもしれない。
「行こう」
時間に間に合いそうもない焚き火は諦めた。
せめて水が見つかるといいな、と願いながら歩き出す。
山では尾根を目指すといい、みたいな話は聞いた事があるが、この森は今の所デコボコな地形が続いているようだ。この場合は、登りか降り、どちらに向かうのが正しいのだろう?
降って行った方が、川などに当る確率は高いのだろうか?
そこで、ふと気付いた。
森は日没が近いのだろう、どんどんとその闇を深めていく。それは分かる。ところが、暗くなっている事は判断できるのに、別に見え難くはなっていないのだ。
なんだろう、女性になると目も良くなるのだろうか? 聞いた事はないが。
更には、どこかで水の流れる音が聞こえたような気がして、耳をすませながら手を添えた時、何か触れる物があった。
その触れた物とは、オレ自身の耳なのだが、以前のオレのと比べて異様に長く、先っぽも尖っていたのだ。まるで、オレのアバターである森っ娘エルエルのように。つまりは、西洋のファンタジー作品に出てくるエルフの如く。
まさかとは思いつつも、先ずは水音の聞こえる方へと向かう。
やがて、少し開けた苔生した岩場の中ほどに、水の流れる小川を確認できた。
「おぉし! よぅし!」
小声ではあるが、ガッツポーズまでもとってしまう。
安全かどうかはともかく、これで大事な水にはありつける。トンデモ生活初日にしては、上出来の成果だろう。
水の確保を、やり遂げたのだ。
…ただ本当は、生水は怖い。
鉱毒とか、細菌や生物的な汚損とか、見た目では分からない場合もあるだろうし、せめても一度お湯にしてから飲みたいが、火も器も薬缶なんかもないんだよな。
手ですくってみれば、冷たく澄んではいる。
両手と顔を洗えば、それだけでスッキリとする心地良さがあった。
覚悟を決めて飲んでみる。
美味い。
知らぬ間に疲れ切っていたのだろう身体にも沁みる。飲料水としての安全性は今後の課題ではあろうが、今はどうしようもないと割り切る。
そして、もう一つ。
流動する水だが、自分の姿を映してみた。体は見れても、顔は見えなかったけれども、水面に揺れ動くのは紛れもなく女であろう。
もう一度、顔を洗った。
この世界に突然やってきたが、また一つ確認できた事がある。
オレは今、女エルフになっているんだ。
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