4月某日

 あの日――。

 思えば、あの日が私の逆境の始まりだった。

 それまでは、ささやかながら幸せに過ごしていたんだ。

 天国と地獄を同時に味わった、あの日までは。


 アキラさんは、毎日十三時頃にコーヒーを買いに来る。

 たぶん、上のオフィスビルのどこかで働いているんだと思う。注文はモバイルオーダーで、スマホだけ持って受け取りにくるから。

 私は十三時が近くなるとソワソワして、机を拭きに行ったり、ゴミ箱の掃除をしたりする。アキラさんの注文が入ったとき、レジで接客なんかしていたら目も当てられない。

 モバイルオーダーの音が鳴ると、素知らぬ顔でカウンターに戻り注文をチェックする。この時、他の客からの注文だと殺意が湧く。確認した私が対応しなければならないからだ。ドリンクを作っている間にアキラさんのオーダーが入ったらどうしてくれる。

 無事アキラさんの注文をゲットできた時は頬がゆるみそうになる。ポーカーフェイスを決め込んで、私はドリンクを作る。と言っても、アキラさんの注文はほとんどドリップコーヒーのトールサイズで、夏場はそれがコールドブリューコーヒーになるだけだから、いずれにせよ紙コップにコーヒーを注いでおしまいだ。だけど私はゆっくり、丁寧にそれを注ぐ。

 蓋を取り付けたころ、店の扉が開く。一瞬外の雑音が大きくなって、私は目を上げる。


 すらりと背の高い、涼しげな、美しい人。チノパンに無地のTシャツという凡庸ぼんような服装なのに、モデルみたいにかっこいい。


 左手のスマホに落とされていた視線が上がるか上がらないかというタイミングで、私はその人を呼ぶ。

「モバイルオーダーでお待ちのアキラ様」

 目が、合った。

 アキラさんは軽く手を挙げると、カツカツとこちらに向かって歩いてくる。端正な顔がよく見えて、もっと見たいのに、恥ずかしくなって目を逸らす。

 スリーブに貼ったラベルに印刷されている「アキラ 様」の文字を見ていると、細い長い指がそれを覆った。綺麗な人は指や爪の形まで綺麗なんだなと思う。

 カップが持ち上げられる瞬間、勇気を振り絞って、言った。

「あの、いつもありがとうございます!」

 大丈夫だろうか、声はひっくり返らなかったか? 少し震えていたかもしれない。変に思われたかも。

 恐る恐る顔を上げると、アキラさんはにっこりと微笑んでいた。

「こちらこそ、いつもありがとうございます」

 形の良い唇が、そう、私に告げた。


 その日はそのあと、ずっとふわふわして、どう仕事を終えたのかも覚えていない。

 ――いつもありがとうございます

 ――いつも

 アキラさんは確かにそう言った。

 私のこと、覚えてくれてたんだ!

 本当に嬉しかった。明日からは少し雑談なんかもしてくれるかもしれない。

 そんなことを考えながら駅に向かう途中、私はアキラさんを見た。

 心臓が跳ねた。

 店以外で会えたから? 違う。


 アキラさんは、誰かと手を繋いでいた。


 相手はアキラさんより背の低い、パッとしない、どこにでも居そうな普通の奴。

 そんな冴えない奴と手を繋いで、アキラさんは、嬉しそうに笑っていた。

 私は固まってしまって、不釣り合いな二人の背中を見送るしかなかった。


 ああ――まただ。

 いつもそうだ。私のささやかな恋心はいつも実らない。

 どうして私のことを相手にしてくれないの――

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