俺の嫁が子供を産んだ時の人生の選択
あれは忘れもしない。二〇一一年の四月だった。何となく、『スる?』って流れになって、『うん。』ってなって、先の堅実な誓いはどこへやら、特にタイミングも何もなく、結婚しちゃったんだよね。そしたら俺、そこに来て、また『ズレ』で動けなくなっちまった。
ああ、別に婚前交渉はキリスト教的にうんちゃらかんちゃら、とか、そういうんじゃないんだよ。さっきから俺、聖書の解釈を、文字通り受け取った話をしてんの。だから、多分普通のクリスチャンとか、こういう感覚ないと思うんだけど。
まあ、聖書の中にはその後の性倫理を左右するような、強烈な教えが、両極端に並べられてんだよね。理由はシラネ。ただ、俺は自己洗脳が完璧すぎて、いつの間にか、特に理屈を考えるまでもなく、対極…と、いうより、散った蜘蛛の子みたいなのをさ。砂鉄みたいに俺の中に横たわった『聖書キメラ』に組み込んじゃうんだよね。
とにかくその時俺を襲ったのは、物凄い後悔だったダブリューさんを罪人にして、更に滅びる方にしてしまった。身体全体が滅びるよりも、罪を犯したところだけを切り落とした方がいいっていう聖句があるんだけど、あれを実践しようとしたわけ。でも、俺のちんこ切ってもさ、彼女は傷つけられないわけよ。犯罪云々とかじゃなくてさ、好きな人が苦しむ姿なんて見たくないじゃん。常識として。
苦しんでる姿なんて望んでないんだよ、誰も。
みんな、自分なり相手を大切にしようとしてんだ。
失敗し、沢山傷つけることも勿論あるし、そういうのはきちんと罰するなり指導するなりすべきだ。
…人間ていうのはな。………人間ていうのはなァ!!
みんなみんな、幸せになるために産まれてくるんだ!! 不幸になるために産まれてくるんじゃねえ! 誰だって、『ズレる』ためにしつけた訳じゃねえんだよ!!
あああ、ワカコ、ワカコワカコワカコ! ごめんなあ、ごめんなあ! 俺なんかに貰われちまってよぉ!! 俺がその時初めて話したんだ。エホバの証人のババアで全部狂った一族に嫁いできた母さんから産まれたのが俺なんだって、お前を肝心なところで抱かなかったのは、お前の身体を気にしてじゃない、俺自身が怖かったんだ。俺は信者じゃない。でも一般社会にも紛れ込めない。だからと言って信仰心なんて、持てるはずもないのに、教会が受け入れてくれるか? 今更今更今更、教会の信者の異性との付き合い方しか分からないって。信者同士の異性交流の仕方しか教わってないって。教会の外の子を好きになったなら、教会に何とかして入れないといけなかったんだよ!! そういう風にしないと、俺は日本社会に手本がない! 手習いがないんだ! 学習するための本が、どうしてもどうしてもどうしても、バタ臭くて抹香臭くて! それでもワカコは真剣に話を聞いてくれて、バカにしたりもしなかった。ああ、もったいねえ、もったいねえ! あんないい女を幸せにしてくれる男はいくらでもいたのに! よりにもよってこんな、一憶二千万分の〇.一パーセントみてえな、どこに行ってもほっぽり出されるような男に惚れられてよぉ!
愛してたんだ。いや、今でも愛してる。忘れるものか、お前が博論を書いている時に妊娠が分かって、でも母体優先をしつつ博論を書くっていうのは、本当に本当に孤独で、席とか入れてる暇なくってなあ! 普通に名前で呼んでたから、別にいっかって。何年もうちのアパートで暮らしてたし、彼女婆さんの家をそのまま譲ってもらってて、家賃とかいらなかったし!
ちゃんと、ちゃんと二人で、大事にしようって………。俺とワカコが、『ズレて』育ったから。俺達は『ズレた』ままだけど、この子はせめて、より焦点を定めてあげようって、そうやって話し合ってさ。そしたら、ハハハ、うわさを聞き付けたエホバの証人のダチ連中が、渋い顔しつつも祝いに来てくれてよぉ。ババアが来た頃には、腹も膨らんでて。従弟たちも叔父叔母みんな、そのことそのものについては祝ってくれたんだよ。入籍だけしてないって言って、従弟たちなんかは事実婚のこととか、頭柔らかく考えてくれて、書類の話だからって他の親戚宥めてくれてさ。親父とおふくろなんて、ようやく息子が結婚するって言って。曾孫が見れる、天国の婆ちゃんも喜んでる、って、ばっちゃんもじっちゃんも、車いすの上で喜んでくれて、本当に、本当に、籍だけだったんだ。籍だけが、俺達を繋いでなかった。安定期を過ぎて、臨月になって、名づけ用の半紙とか朱墨とか買ってきてやんの。
俺達、『そういう』理由で出会ったのに! どうして忘れてたんだ! 難産家系の男女の子供が、どうして安産だって、そう思ってたんだ!
俺、知ってたはずなのに! 薬品開発の為に、妊婦や出産の危険について勉強したはずなのに! 陣痛が来てよ、三日三晩文字通り苦しんで、ようやく頭が出始めたかと思ったら、酸欠だのなんだの、母子ともに危険です、どっちを取りますかとか、ふざけんなよどっちもに決まってんだろ。あああ、違う違う違う、それでも選ばなきゃいけないんだ。でもババアが言いやがった。
エ ホ バ に 助 け て い た だ け な い 命 な ら、 出 来 方 か ら し て 間 違 っ て る。
知ってたんだよ知ってたんだよ、知ってたんだよ俺はよォ!! 爺さんが突然車にはねられた時、自分達と勉強してたからって、輸血しなくていい病院探して探して、訴えないっていう同意書下げてたから、それを何度も見せて、家族全員の意思ってことにして、結果的に後遺症が残っちまった! 輸血しないで助かってよかったって? どこが良かったんだよ! 生命維持装置で呼吸してるように見えるだけ、スイッチ一つで酸欠で脳が死んでいく、そんな身体のどこに尊厳があるんだよ!
どうしてあの時俺は、おふくろ達が加勢してくれたのに、全員追い出せなかったんだ!? あんな状況で友情もへったくれもあるもんか! やっと現れてくれたんだ! やっと俺の前に来てくれたんだ! おっかない十字架の死体じゃなくて、人生を一緒に歩む姿になって俺の前に来てくれた、大事な嫁だったのに!
なあ、ワカコ、お前、『大丈夫』って、言いながら三日間苦しんで、『いってきます』って言って分娩室に入って、そんですごい血だったけど、小さい声だったけど、ちゃんとカズキは産まれたよな? 息してたよな? 俺の呼びかけに、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、顔傾けてくれたよな? カズキって呼んだら、くんって身体が伸びて、それで心電図が叫びだして、医者たちと親戚が書類もみくちゃにしてる時に、俺、聞いたんだ。聞いちまったんだよ。よりによって本人に、選択肢のない『母親』って生き物に!
「ワカコ! 俺はどっちも大事だ、選べない! せめてお前の意思を聞かせてくれ!」
「サインはこの方の保護者ですからこの青年です! この人の夫じゃないのか!? 赤ちゃんの父親じゃないのか!?」
「うるせえ俺の女の声が聞こえねえだろ!! ワカコ、ワカコ、もう一度言ってくれ!」
「 。」
「なに? なに? 聞こえない!!」
あなたのすきなように。
「ご主人退いてください! ワカコさん、ワカコさん! 聞こえますか、聞こえますか!!」
「貴方がご主人ですね!? 大量輸血を伴う手術の同意書に―――。」
「駄目よ!! ハルマゲドンが来るのよ、その証拠に日本に大地震も津波もきて、原発も爆発したじゃない!!! 世界が終わる前触れだって、聖書に書いてある通りのことが起こってるの、神の国の約束は適うのよ、明日にでも、いえ、一時間後にでも!!」
「お母さん落ち着いて! 息子さんにちゃんと考えさせてあげてください、外に出て、出て!」
「だから駄目よ、これがサタンからの誘惑なの、負けないで、負けちゃダメ! この世の命に縋りつかないで、永遠の命を生きるのよ、それが貴方達の永遠の幸福なの!!」
「よし、よし! ありがとう! さあ、お父さんになるんだ、しっかり待っててあげてください、これより緊急手術に入ります、退いてどいて! 出てって―――出てけっつってんだろがァァァ!!!」
ハァ………。ハァ………。
「どうしたの? サイン、しちゃったの!?」
「ふん………っ。まあ、いいわ。あ な た の 好 き な よ う に なさい!」
「…! うわあああああああああ!!!! ワカコの、ワカコの声を打ち消すなあああああ!!!!」
俺は、信者なんかじゃ、なかった。
確かに、信者なんかじゃ、なかったんだ。
でも、ババアの言葉が、とても威厳があるように聞こえて―――。
あの時ばかりは、確かにあの場に、『神』がいたんだ。エホバだかイエスだか、そんなのはどうだっていい。『絶対的なもの』が、いたんだ。有無を言わさぬ何かが―――あの場を、支配していた。
親父は俺をババアから守ってくれていたけど、俺の意見を尊重する、ということだけ言っていた。
おふくろは、泣きながら………。残りの年金を一括で貰って、全部墓代に使いなさいって………。偶像崇拝になるからどうのこうのって、ババアや外野の声が、今でも、聞こえてくる………。
何もかも、嫌になった。
俺の全てだった。普通の細胞だったのに、がん細胞の傍に生まれたばかりに、丸ごと切除された俺達が、出会って、それで、知らない間にお互いを喰っていた良性腫瘍………。でも、俺の細胞はもう、生まれながらにダメになっていて。医者が余計な場所を切るわけがないのに。俺を取ったのは、間違いなんかじゃなかった。俺は、俺の考え方は、俺自身さえも、幸せにしなかった。
誰か悪いのか………?
なあ、誰か悪かったのか………?
答えはきっと、『ズレ』た奴にしか分からない。おふくろ、親父。アンタたちは一度も俺に敵対したことはなかったのに、こんな裏切り方してごめん。じっちゃん、ばっちゃん、それからバァバ、気にしないでくれ。観音様にお祈りが足りなかったんじゃないんだ。
どうかそのワカコの形見を、カズキのベビーグッズを、俺と思って、大切にしてくれ。財産は全部現金にして、皆の口座に分けていれておいた。
片方だけ空欄になった結婚届は、死亡届を出すときに捨ててきた。だから、彼女をこう呼ぶのは、俺だけだ。
さようなら、
―――俺は、神を穢しに行く。『神』を冒涜しにいく。鞍替えして、命を蹂躙し、地球を破壊するテロリストになる。目指すはトルコはカルカムシュ。俺は―――イスラム国のテロリストになる。
別に、仏教のテロリストでも神道のテロリストでもよかったんだ。だから連中の大義名分も信仰も目的もどうでもいい。理解しようとも思わない。そもそも神へ報復したいだけだし。
あの頃はイスラム国の悪逆非道の数々が有名で、イスラム教徒へのヘイトも溜まって行っていた。あの頃はまだ、日本で適切な訳がなかったらしいな。現地で実は違いがあるって知って、びっくりしたもんさ。その所属も特に決めてなかったから、答えた。
「とにかくいっぱいいっぱい、殺してぶっ壊したいです!」
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