俺が三歳で幼稚園に行ってた時の選択

 このよでいちばんわるいことはなぁに?

 さつじん? ―――いいえ。

 ぬすみ? ―――いいえ。

 ころし? ―――それは殺人と同じことよ。

 ふたまた? ―――どこで覚えたのそんな言葉!!!

 正解はね―――。


 『クリスチャン』が考える、この世で最も悪いこととは、殺しでも盗みでも浮気でもなく―――。


 ―――神さまを信じないことよ。


 と、いうことらしい。

 俺が産まれたのは、そんな混沌とした時代の、混沌とした姻族の中だったわけだが、実を言うと俺が記憶していないところでは、色々とあったらしい。例えば、お七夜、お食い初め、餅負いなんかは、俺はやっていないらしい。もう永くないから、と、俺の母方の曾祖母は、涙を流して頼んだそうだが、親父は、

「宗教行事はやらない。」

 と、俺を渡さなかったという。曾祖母に救いがあったとすれば、それは俺の七五三の『記念写真』に参加することが出来たことだ。当然、親父の実家とおふくろの実家は、険悪だった。せめて初孫の『俺』だけはまともに育てたい。そういう、三者三様の取り合いっこがあった。

 エホバの証人にしたい親父の実家、普通の日本人として育ってほしいおふくろの実家、―――そして、『より良いものを与えたい』という、おふくろと親父の、親としてごく当たり前の感情。親父はこの期に及んでまだ、自分がおふくろと、幼すぎる俺に何を持って来たのか、自分は何を見過ごし、何から守りきって、何から守れなかったのか、そういうものを見極められないでいた。

 そして幼い俺も、「かみさま」「いえすさま」の違いが分からず、ずっと混乱していた。おふくろが『ここは違う』と、教会をサーフィンすれば、幼い俺は一緒についていかざるを得ない。行く先々で教えられる『かみさま』は、皆大抵同じことを言っていたが、そんな幼稚園児のガキが、難しいお習い事をちゃんぽんしていて、身に付くはずがない。

 幼稚園に入るか入らないかでも、また一悶着あったらしい。そうだろうな、としか思わなかった。圧倒的に多数派であるはずのエホバの証人の信仰に、おふくろは反発し、親父は無関心だった。せっかく生まれた初孫に、早くエホバのことを教えなくては。―――一九九九年になる前に!

 おふくろはというと、『それだけは絶対に違う』と思ったことは、必ず質問した。それは、俺の養育に必要なものだったからだ。だがすると、そこの教会の牧師は、必ずおふくろをたたき出したという。破門状という名の熨斗つきで、だ。おふくろは迫りくる一九九九年に怯えながら、幼い俺と教会を渡り歩いた。

 俺は、というと。おふくろとそんなにたくさんの旅行をしたという記憶はあまりない。ただ、おふくろとお出かけをすると、うまいメシや珍しいメシにありつけたという記憶しかないのだから、子供は正直だ。だから尚の事、そう、尚の事。そういった楽しい記憶が、俺の苦しい胸のうちと繋がっているとは、気づかなかったのだ。いや、確かに俺は地頭が悪い。こういう選択をして、そういう生き方をしたからな。だが、だからと言って、他の三歳児が同じように出来るのかというと、正直………。………いや、待てよ最近の日本の教育事情なんて知らねえぞ。まあいいや。俺が責任持てるのは、俺が日本を見限った二〇一一年までだ。

 話を戻そう。俺には悩みがあった。俺は子供ながらに活発な子供だった。多分幼稚園にも、俺のような境遇の園児はいたんだと思う。ただ、そいつらは俺よりも、いい意味で頭が悪かった。教会で教わったこと、親から教わったこと、それ全てを受け止めて、自分で使えるように咀嚼を繰り返す、ということをしなかったらしい。俺なんて、休日はおふくろと、うまいメシを食いに行くし、その予定の方がずっと楽しいということを、もう先んじて知ってしまっていたから、幼稚園の『パーティ』のチャチさや、時々幼稚園が終わった後に行く友達の家での『パーティ』の小規模さと言ったら、いつも食ってる料理が少し豪華になっただけときた。

 当たり前だ。いくら社交的な子供であったとしても、高が知れている。ごちそうだって、こういう言い方は、結局機会を逃した俺から言うと色々誤解がありそうだが、一介の、ありふれた主婦による、ありったけの愛情がこもったごちそうで、うまいにはうまいが、珍しいか、わくわくするか、というと、また少し違う。パーティのメンツも、幼稚園でいつも見る顔ばかりだ。代り映えはしない。

 自然と俺の興味は、おふくろが連れていく、種々の教会に移っていった。この時の様々な食文化との触れ合いは、俺が日本から脱出した後に、大分役に立ってくれた。飯のまずさは、黒人がどうのこうの、というよりも、そいつの育った環境次第、と、なんでも食えた俺は、何のかんのと変なイエローモンキーだったんだろう。…おお、さぶ。やっぱりアメコミみてぇなハジけたジョークばかりは、あいつらからも教わることはなかったな。

 で、まあ。悩みというのは、他でもない。話題についてだ。

 さっきも言ったが、俺は活発な子供だった。だからと言って、子供には無限の体力があるわけじゃない。大人のいないところで、会話して休憩したりもしている。そんな時、やれ、ゲームだなんだと話をしているのだ。それでもやっぱり、限界はある。自然と話はルーティンし、そしてこうなるのだ。

「きみんちは?」

「………。とくにない。」

「ふーん、じゃ、かずきんちは?」

 俺はいつも、この話題を振られるのが苦手だった。何が苦手かって、俺は『たいせつなおともだち』に、神のことを話すべきか、物凄く、子供心に虫唾がちぎれんばかりに息が詰まった。苦しくて、苦しくて、苦しくて、それが余計に、俺を教会へと運んだのかもしれない。よくできたおまじないだ。ものの見事に、してやられた。

 要するに、だ。

 『殺人よりも悪いこと』とは、『神を信じないこと』だと教わった俺だが、彼らが教科書として使っている聖書には、文句は正確には忘れたが、『神を信じない者は、神を信じる者によって聖くなる。』と、書いてあるのである。だが同時に、『神よりも妻や友人を愛する者は、神の道にふさわしくない』、つまりは、救いようがない、クリスチャンを名乗る資格も素質もないということだ。そのような連中はどうなるのかというと、広い門と歩きやすい道の先に、地獄の炎に突っ込んで滅ぼされる。

 死ぬのではない。

 滅びるのだ。

 再会はもちろん、思い出にも残らない、永遠の滅び。葬式も出てない幼稚園児が理解するものじゃない。だからこそ、それが通じなかった時、聖書を暗唱して説得できなかった時、自分すらも滅ぼされると分かっていたから、どうしても勇気が出なかった。いや、ここで勇気を出した奴らの方が悲惨なのは後で知ったんだが、とりあえず言っている意味が分からないだろうから説明するぞ。

 まあ、永遠の滅びというものがある、と。で、それを理由に、教会に来るように誘うとする。面白そうだ、と、言ってくれるなら、まだいい方だ。拒否されたなら、教会に行って、『あのこのこころがかたくなでなくなりますように』と、クッソ大きなお世話な祈りをして、しつこく付きまとってコミュニティから追い出されればいい。―――ああ、『かたくな』って何かって話か? まあ、分かりやすく言うと、聖書に出てくる言葉で、『神に従わない心』を意味するもんだ。俺は日本語に訳された聖書しか読まされなかったからな。新世界訳だの、新改訳だの、共同訳だの、他にもいろいろ、『うちの教会に来たからにはこれを使いなさい!』って言って、増えたんだっけな。夏休みの宿題なんかでは、重石として存分に働いてくれたともよ。

 んで、まあ、拒否された場合も、大丈夫なんだ。寧ろ俺は褒められる。よくやった、ってな。

 問題は、子供あるあるである、あのワード。そう、

「なんで?」

 疑問形だ。ここで即座に聖書の暗唱をし、根拠を示して納得させ、同意させなければ、俺はそれを諦めた途端に、地獄行きが確定しちまう。それは、神について十分に知らないということだ。つまりそれは、神を愛していないという根拠になり、しかるにそのような輩は、神を愛していないのだからクリスチャンではなく、信者の資格も特権も奪われ、地獄行きだ。

 ちなみに、この問答に応えられるだけの教育は、実は教会で教えているんだよ、恐ろしいことにな。三歳だろうが三年生だろうが三回生だろうが関係ねえ。どんな『クリスチャン』も、これが出来なければならない。そして、この発言により、相手は『神』の存在を知るわけだ。神を知らない者が、そのまま死んだなら、死後の裁きは受けない。だが、神を知っている者が神を選ばなければ、滅ぼされる。

 ………。そういや、今話してて思い出したけど。

 あいつら、『死後、滅ぼされる』とは言ってないんだよな。『死後の救いはない』とか『裁く、裁かれる』、『魂をも滅ぼすお方』…いろんなところに『滅び』っていう意味は、出てくるのに、『死後』に、滅ぼされるっていうことはないんだ。じゃあいつ滅ぼすのかって、『今』だよ。

 今、生きているこの瞬間、失敗したその瞬間、神は『滅ぼす』んだ。

 だから、大切な友達と、死後の楽園で遊ぶには、神の話をしちゃいけないというのがベスト・アンサーな訳だが、それでは神は『喜ばない』。喜ばせない者を、神は救おうとはしない。

 いま並べ立てただけで、四つくらいのジレンマ? パラドックス? が、あんのかな? こんなん毎日毎日考えながら、毎週毎週、同じところで同じ教育を受けてみろ。現代日本でやってけるわけがねえんだよ。

 結局、俺は幼稚園ではその手の話題はしなかった、と、思う。小学校になって、ある程度ボキャブラリーが増えてきて、子供同士の衝突が増えてくると、それもまた、酷く『理不尽』だと思うようになった。

 何が理不尽かって、相手は言いたいことを全部言えるのに、俺は言えない、ということだ。

 子どもの喧嘩なんて、怒鳴って叫んで掴みかかって転がって、っていうのが当たり前だ。そうやって手加減っていうものを覚えていくし、どれだけ相手が傷つくのか、どういう風に痛くなるのか、そうやって学習する。…あー、今の時代、そういうのないだっけ? まいいや。俺が子供のころはそういう考えだったのよ。

 んで、まあ、子供ながらに悔しくてもさ。聖書に書かれた『やっちゃいけない行動』は、ゼッタイしないわけ。理由はもう言わなくても分かるな? …あん、分からない? ああ、そっか。…そっか。

 ああ、悪ィ悪ィ、ちょっと私怨が混ざったな。

 まあ、あれよ。要するに、前の話を聞いてて、大分ダブスタだなーって思ってくれてりゃいいいんだけど、こんなめちゃくちゃなことを言うんだからさ、もっとめちゃくちゃなことを要求してても珍しくないっていう話だ。神は、もっと上の段階として、『兄弟にばかという者は滅ぼされる』とか……。ん? あ、あれ。

 あー、ちょっと待ってくれよ、ええと、あの聖句は………。………。………。

 だー! 悪ィ! 何分、覚えていなきゃ滅ぼされるってものが多すぎてよ! とにかくこの頃は、


 ぼくはお前をも滅ぼされないように、こんなに悔しい気持ちで堪えているのに、どうしてお前はそんなに好き放題言ってるんだよ!

 ここで俺が、お前の為に立ち止まってんだぞ!? 入ってくんなよ! なんで止まんねえんだよ!


 こういう心境な訳ヨ。この考え方、ただの『他人のことを考えない』とか『自己中心』じゃないの、分かるか? わかんねえか。わかんねえかもなあ。そうだよなあ、自分で自分に長期間洗脳をかけるなんて、普通の子供はやんないだってな。いや、なんかの被害者だってんなら、あるんだろうけどさ。

 俺が日本にいた時代って、俺の方は自己責任なんだよな。だって、そんな親と出かけてメシや友達に会うのって自分の選択だろ? いやなら行きたくないって言えばいいだろ?

 そうはならないんだよなあ、これが。俺が幼稚園の時の思考回路、話しただろ? あれがループしちまってるからよ、基準、もとい、多種多様な社会って、そういう異常な考え方をする教会の方なんだよな。だってヨ、学校なんてせいぜい近所の同じ年の子どもしか集まらねえ。でも教会は、時に国籍も人種も違う、いろんな年齢層の子供やジジババ、時には赤んぼだってやってくる。

 社会人になったり、バイトなりなんなりしてみたら分かるだろ?

 『捨てるべきこの世的な短い付き合い』は、どちらなのか、さ。

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