音楽家の幸せ

田中あやと

01

Aはそこそこ人気なロックバンドのヴォーカルである。まだ地上波のテレビ番組には出られていないが、ひとたび都内のライブハウスに出演することを宣伝すれば、あれよあれよと噂は広まり、当日の会場には若い男女がいっぱいになる程度の知名度があった。この事実は、A氏に限らずメンバーをも有頂天にさせていた。

今日もいつも通りにライブをこなしていたが、実は少し前から気になることを抱えていた。

いつ頃からかは覚えていないが、ステージから最も離れた壁際に一人の女性が立つようになった。

ほぼ同い年くらいの見た目だが、特にこれといった特徴のあるファッションをしている訳では無かった。だいたいこのような小さめのライブハウスに来るような女性は、好きなバンドのグッズを身につけていたり、派手なピアスなどをしているものだが、彼女はどちらかというと地味で、お淑やかというべきだった。強いて言うなら、佇まいから和を感じていた。

いつしかAはライブの度に彼女を探すようになった。客が数人でも満員でも、彼女がいるかどうかを気にしながらライブをした。それはどうやら、何も知らない客から見て、好印象を与えるライブだったようで、メンバーからは何もも言われなかった。

共演者達との打ち上げも終わり、帰り支度をしようかしらと、楽屋に向かおうとすると、遂に女性と邂逅した。Aはこの期を逃す訳には行かないと、女性に話しかけた。

「いつも見に来てくれてるよね。今日もありがとう」

「ええ、とてもいいライブでした」

話は弾み、彼女は音楽が好きなこと、Aには将来性を見出していることを聞き出した。

Aは酒に酔っていたこともあり、舞い上がってしまった。そして、若気の至りともいう邪な気持ちがむらむらと湧いてきた。

「よかったら、二人きりになれるところへ行かないかい。あなたのことをとても気に入ってるんだ」

「あら、それは嬉しい。喜んで」

メンバーと次の予定を確認した後、二人は隣町のホテル街へ繰り出した。

よくベッドメイクされた部屋に入り、高揚しているAはすぐさま彼女に飛びかかろうとしていたが、彼女からは特にそういう気が感じ取れなかった。

ここまで来てなんのつもりだ、と少し腹が立ち始めたAに対して、彼女は語り始めた。

「私もね、メンバーを集めて音楽をしようと思っていますの。だからふさわしい人を探していましたのよ」

「そうなんだ、もしかしてそれって俺のことかい」

「その通りですわ。一緒にやってくださる」

「もちろんだぜ」

俺と寝たら……と付け加えようとした瞬間、彼女は微笑み、背中から光を放ち始めた。

「申し遅れました、私は弁財天と呼ばれていますわ。よろしくお願いいたしますわね」

たちまち光は部屋を覆いつくした。消えた頃には、二人の姿はどこにもなかった。

残されたメンバーには気の毒だが、Aは弁財天に見初められた音楽家として、この世界では無いところに行ったのだ。

それは幸せなことなのか、私には分からない。

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