第5話 5日目 金曜日
……翌日朝のベッドにいる自分を見つける。
分かっていた通りだ。
少なくとも、ここは自分の知っていた「現実」の世界ではない事は確かだ。
夢か、夢に似た別種の世界のようだ。
辻褄も常識も合わない睡眠中の夢に比べると、定まったルールに沿って、それ以上の逸脱が訪れないこのホテルの中はまだ現実に近いところにありそうだ。
完全に「外」の無い限られた空間の中、「ホテルの客室と廊下」のみが存在する、舞台演劇の書き割りに取り残されている。
……いや舞台演劇というよりも、ビデオゲームだ。
モニタの画面に映る廊下を左に移動していき画面の左端から出ると右端からそのまま出てくる。
最低限度の場面しか用意されてない中で、一体自分は何故ここにいるというのだろう。
ベッドから降りて部屋の中央に立つ。
昨日探索したように、外の廊下は実質、直線一本が円環状に繰り返され、並んでいる客室のドアも開けて出入りできるものはこの部屋のみだ。
他のドアは開けられないし、そもそも向こう側があるのかも怪しい。
このフロアの外に出る経路は存在していないか、見つからない。
例えば並んだドアの一つに隠されている可能性を考えてみる。
普通に開かないドアを打ち破るのに緊急用の斧が無いかと探したが見つからない。
引き出しの聖書の時のように、頭で考えた後にそれが現れるようなことがないかと試したが、応じられることはなかった。
例えば、この窓……高層の部屋らしく、開けられないようにしてあるが仮にこれを突き破ったとしたら……。
外に出るならば身投げになるだろう、「夢」の中とは言えそれは避けておきたい。
それよりも窓硝子を破って、そのことでフロントから弁償なり立ち退きなり言い渡しがあってここを追い出されるならば渡りに船だ……。
暫く逡巡してから部屋を見渡した。
窓硝子を手頃に突き破れそうなものは……。
持ち上げられて、それなりに重さのあるもの。
ひと抱えのある置きラジオが目についた。
月曜日に音を出して以来、ずっと受信する様子のないラジオだ。
両手で持つとそれなりに重量感がある。
肩に担いで窓辺に立ち、構えてから勢いをつけて窓にラジオを投げつけた。
粉々になるのを予想して身構えたが硝子は破られず、ぶつけられたラジオは跳ね返され床に落ちた。
手を当てて確かめたが、硝子は少しも変化なく、落ちたラジオの方は筐体にわずかに歪みと凹みが出来ていた。
もう一度手に持ち少し助走をつけてラジオを投げつけたが、やはりダメージはラジオの方ばかりで硝子の方はまるで変化がない。
向こう側にうっすらと外の眺めが見えるが、本当のものか怪しい……この客室と廊下以外に作られていない世界では、壁を突き破ることさえできないのではないか。
突然、かすれた音がしてきた。
床のラジオを見ると、スピーカーから音が漏れてくる。
突然、電波を拾ったかのように。
床に跪いてスピーカーに片耳をを近づけた。
ノイズに紛れて女の声がする。
呪文を唱えるかのように独特のリズムで何かを言っている。
これは歌っているのか。
『美しさに抗えず 片耳を断ち切った者もいる』
何かを思い出させる章句だ。
それよりもこの声に覚えがある。
……妻の声だ。
何故妻の声が流れてくるのか、何を伝えようとしてるのか。
さっきの断片を口の中で転がすと、それはアカペラで歌っていたことに気がついた。
そして気がつくと同時にラジオからは歌そのものが流れた。
そうだXTCの『悦楽の園』。
お気に入りの『Oranges & Lemons』、結婚後も繰り返し聴いていた一枚だ。
家に帰りたいのだが、この「夢」が醒めない。
目覚める方法を見つけ出さなければならないのだが、そもそもあるのだろうか。
無意識に自分の顔に手を当ててふと思った。
何日も髭を剃っていない。
それからもう一度手を当てると、思い出したように掌に無精髭の感触が伝わった。
バスルームに入り洗面台の鏡と対面する。
映る顔は自分の顔だ、覚えているというよりも、単に違和感を感じないだけの顔。
だが名前は相変わらず思い浮かばない。
台の端に小さなバスケットがあり使い切りのアメニティが盛られていた。
シェービングクリームの小袋を取り封を切り、口から頰、顎に塗りつけた。
T字カミソリを当てて髭を剃っていく。
多分、ここでは気にしなければ髭も生え忘れられていた筈だ、気がついたから生えていた。
剃り終えて、鏡の中の自分の顔をじっくり見たが、やはり名前が思い浮かばない。
もしかしたら他人の名前は思い出せるかもしれないのに、自分の名前だけがせき止められている。
激しい苛立ちが噴き上り、鏡の中の自分の顔に足元にあったゴミ入れを叩きつけた。
乾いた音がして鏡が割れた。
板硝子の鏡が破片になって洗面台の内側に落ちていた。
窓硝子は壊れなかったというのに、こちらは壊れるのか……。
外を隔てる「壁」は破れないが、モノは壊れる。
目を閉じて開けるが、依然として鏡は割れたままだった。
洗面台から一片の鏡を摘み上げた。
鏡の中の自分の眼と見つめあってから、不意に首筋に破片を当ててみた。
「これ」はどうなるのだろう?
深い考えもなく、首筋に当てた鏡の破片を勢いをつけて横に引いた。
激痛とともに肩から胸に生暖かい感触が広がった。
自分の上半身が暗く赤い血に染められた。
首筋を片手で押さえ、台の端にあるタオルを掴みとり、切り口に押し当てた。
膝から力が抜けそこに座り込んだ。
バスルームの中にしゃがんでいると、部屋の方で電話の呼び出し音が鳴っているのが分かった。
誰だろう、なんでこんなタイミングで。
何かの手がかりになるかもしれないのに、よりによって。
電話を取ろうにも立ち上がることが出来なくなっていた。
電話の呼び出し音が止まない。
取りに行かなければ……
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