一章
リーピリーの生け贄
「生け……贄?」
そう言われて、絶望という意味の驚きを抱かなかったのは、私が生きたいと願っていないからかもしれない。
何の変哲もない筈だったこの日、村の端に住む祖父に呼ばれた私……アナリー・メルテは、愁いを帯びた表情を隠さない祖父の前で、言われた言葉を反芻した。自分のローズレッドの
目の前では、父も母も、壊れたように泣いている。幼い弟妹は、訳が分からないというように、キョトンと置いてきぼりにされていた。
「嫌、嫌よ。なんでこの子が、あんな野蛮な者たちの犠牲にならなきゃいけないのよ……‼」
「ふざけるな……ふざけるなあぁぁっ‼」
母クララの嗚咽と、父ボリスの咆哮だけが響いた。昔は何でも出来る人たちだと信じて疑わなかったけれど、母の背丈を超えた今、この人たちに出来ないことは山ほどあるのだと理解する。
国の中でも指折りの田舎村、マチレ。此処には毎年『リーピリー』という夜の闇を祝う祭りの日に、生贄を一人差し出すように命じられるという。今年は、私が名指しされたらしい。
【マチレ村にある、決して入ってはならない森、アスレタルト森林。その奥には、黒の装飾で覆われた、一つの鏡がある。
鏡の奥には、封じられた世界がある。繋がることが赦されない、切られた世界。
そこに棲む化け物たちは、私達のような人間を欲して、一人、贄として差し出すよう、要求してくる。
私達人間は、ずっと従ってきた。これ以上、奪われないように__。】
私が知っているのは、これだけ。化け物がどんなものなのかは、知らない。
化け物は必ず、十五歳から二十五歳までの女を贄として選ぶ。私も、それに漏れていない。
自分の娘を贄として差し出さなかった家も、過去にはあったらしい。しかしその娘は、次の日の朝には村からいなくなっていた。そしてその年には、原因不明の村人の連続死が起こったという。結局、その娘の親は、自分の子を失った上に村人から責められ、自らこの地を去ったそうだ。
「そう、なんだ。」
私は、祖父に一言返した。それ以外に何も言うことなんて、無かった。
私は贄として、鏡の奥に行くことになった。恐怖も悲しみも感じなかった。情が動かず、ただ話を理解するだけだった。
信じがたいことではないけれど、心が何処か受け入れずにいた。何も感じなかったのは、そのせいなのかもしれない。
両親と祖父は、凪のような私を見て、これ以上ないくらいの絶望を見せた。
○○○○○○○○○○○○○○○
「私って、いつ行かなければならないの?」
リーピリーの当日。私は日が明るいうちに、幼馴染であるロード・トリエミアの家を訪れていた。
ロードは、開けっ放しの窓からやってきた風に揺れるペッシュの髪を気にも留めず、家の奥にあった書物をロイヤルブルーの瞳で追っていた。
「言うなれば、吸血鬼の朝。吸血鬼は光が弱点だから、昼夜が逆転しているんだ。こちらにとっての夜七時。時間ぴったりに森に入って、鏡に触れなければならない。」
ロードは頭を上げると、色白の儚げな美人顔を、此方に向けた。
化け物の伝説について、こんな話は馬鹿馬鹿しいと、どうせ迷信だろうと、思うかもしれない。けれど、此処の村人は、化け物の存在をもれなく信じている。
なぜ、全ての村人が化け物を信じるのか。
理由は、目の前の、この男にある。
ロードの生家であるトリエミア家は、鏡の奥の化け物を生み出した存在であると云われる“悪魔”に目を付けられた存在。『目を付けられた』がどういうことかは知らないけれど、トリエミア家は、鏡の奥に生きる化け物と、密接な関わりがある。
ロードは、よく鏡の奥へ赴き、化け物退治へと向かう。その際に、化け物の毛だとか、使っていたものだとかを持って帰ってくるので、リーピリーに起こる現象も相まって、化け物の存在を疑う人間はいないのだ。
「吸血、鬼?」
「そう。それが、化け物。毎年、リーピリーで贄として赴く人にしか、化け物の正体は明かさないんだけどね。利己的で傲慢で横暴で、欲のためにしか動かない化け物だ。」
吸血によって生きる、化け物。存在がはっきりと明かされた今、私の脳裏には血に濡れた化け物が浮かぶ。
「……アナリー。」
ロードが、私の手を取った。右手の小指にそっと、華奢なリングを嵌める。
赤黒い錆のような汚れが僅かについているが、それでも鈍い輝きを絶やさない、シルバーのピンキーリング。私の髪色と同じ、ローズレッドの石が煌めいていた。
「……まさか、君を失うことになるなんて思わなかった。」
ロードの綺麗な顔が、歪んだ。私の手に、自分の手を重ねて、そっと熱を置いていく。
「あの化け物を、
私が贄になったと伝えたときにも困ったように笑っていたロードが、怒りに任せて涙を流していた。そのまま、彼は私の手を強く引くと、私の背中に手を回した。
「……絶対、助けに行くから。」
痛いくらいに悲痛な声が、耳に通った。
彼は、私の身を案じて泣いてくれている。私が死ぬことを危惧して、私が犠牲になることを、さも当たり前のように、悪いことだと受け取っている。
……自分の命が自分だけの命であればいいと思った。
「ごめん、ロード。」
私は今、生きたいとも、死にたいとも思っていないのに。純粋で優しい貴方を、こんなにも泣かせてしまっている。
無言の抱擁の中での私と彼との思考は、前にも後にも交わることなく、平行だった。
○○○○○○○○○○○○○○○
時間は、遠慮という概念を知らなかった。瞬く間に、夜になった。日が落ちるのも早くなり、肌寒さが夜に染みる季節。いつもは楽しく聞こえたリーピリーの音楽や賑やかな声が、実は闇色の事実を隠すための大人の空元気だったことを、今更ながらぼうっと考えた。
私の命と引き換えに、今年一年の村の平穏が保たれる。なら、行かない理由なんて、無い。
「行ってくるね。」
私は、森の奥へと歩を進めようとした。
「……
私を捕虜するように力強く、ロードではない男の声がした。それに振り返ると、涙にぬれたライムグリーンの輝きが二つ、見えた。
メイナード・メルテ。私の血縁関係のない弟。人身売買に出されて弱っていたところを、私の家族が引き取ったのだ。今では逞しく成長し、私の背丈も追い越した。
メイナードは、暫く町まで出ていたはずだったのに、私の噂でも耳に挟んで、戻ってきたのだろう。
「メイナード……?」
「リーピリーの夜、義姉さんがアスレタルトに……って、村のアンリ爺さんが言ってたんだ。だから、何もかも切り上げて、帰ってきた。」
メイナードの後ろから、ロードがそっと顔を出した。彼も、私の見送りに来てくれたらしい。
メイナードの瞳は、ひどく怯えているようだった。首元を鎖で繋がれ、地面に叩きつけられていたあの頃の目を思い出させるほどに。
「……義姉さん、行かなくてもいいじゃないか。義姉さんはもう、貴女一人だけの人間じゃないんだ。」
カタカタと震える手で、メイナードは自分の服の裾を握りしめる。ぼそぼそと、言葉を連ねた。
「貴女には遠く及ばないけど、俺は強くなったつもりだよ。貴女の身を守るとは言えなくても、背中くらいは守れるくらいに。何かがあったら、俺が守るから。だから、わざわざ行く必要なんてない。必要、なんて……。」
メイナードが私の前で、耐えきれないというように崩れ落ちた。黒が混じったサファイアブルーの髪が、泣きたくなるくらいに優しく吹く風に流れた。
私は彼の目の前に屈んで、目にかかっている髪を横に流す。それから、メイナードに向かって、笑顔を作って見せた。
「……大きくなったね。まだ粗削りな部分はあるけど、周りから認められるくらいに貴方は大きくなって、そして強くなった。どんな窮地でも、どんな戦場でも、貴方にだったら私の背を預けられる。それは本当よ。……でも。」
私の起立に伴って、メイナードも弱々しく立ち上がる。私は、そんな彼の手を取った。
「これは、私一人が助かればいい問題じゃない。いくら貴方が強くても、物理的な攻撃では化け物を撃退できない。……そうでしょ?ロード。」
メイナードの後ろのロードが、重々しく頷く。
「あいつらに対して、物体用いて挑んだって、目を数秒逸らすことすらできない。」
「そういうこと。一対多で争った場合、例外はあれど、大抵は多数派が勝利する。強い一人より、弱い軍勢の方が力がある。だからこそ、試合は一対一なのよ。」
メイナードは、視線を横にずらす。私は、更に続けた。
「それに……、貴方なら、分かるでしょう?」
その私の声に、彼は全てを察したようだった。今の私が、彼にどう映っているのかは分からないけれど。
「……気にしないと、言った。」
「私が気にするの。……決して、貴方を縛りたいわけではないけれど。でも、私はずっと、取っ掛かりを抱いたままなの。」
メイナードが、私の手を離した。私が揺らがないと悟ったのか、怯えた目に光る恐怖心を、消そうとしているようだった。
「分かった。……義姉さん。」
「……アナリー。」
ロードも、低い声で私の名を呼ぶ。
「気を付けて。」
そんな言葉に、もう意味はないのかもしれないけれど。
私は、最後に口を開く。
「空の上より、貴方達が栄光を抱く日を、楽しみに待っているから。」
こうして私は、抜け落ちた葉の色すら見えないほどに暗い、夜の森に、入った。
蝙蝠の雑音が五月蠅い。自分が葉を踏む音も喧しい。
森は、想像以上に深かった。鏡を見つける前に、蛇や熊に喰われて死ぬのではないかという思いが浮上するほどに。
トリエミア家が時折入っているのだから、少しくらい手を加えているのではないかと思ったけれど、整えられている様子はなく、自然がそのままに生きていた。しかし、そのせいで、ひどく窮屈そうに見えてしまった。
暫く進むと、二十一本の雑木に守られるように、一本の大木があった。そして、その前に、私よりも大きな、黒い装飾に覆われた姿見があった。
「これが、鏡……。」
森は自然のままなのに、鏡だけは埃被らず、何かに守られているかのように、鈍く光を放っていた。人が来たから輝いたわけではなく、初めからずっとそうであったかのように。
手に持っていた懐中時計の針を、見つめる。
三、二、一、零。
躊躇うことすら許されない気がして、私は時間が示すまま、鏡の硝子に触れた。
何かに引かれるように、体が鏡に吸い寄せられる。触れたときの冷たさが血管を通り、体温を一気に奪っていく。
なんとも思っていなかったのに、突然襲ってきた恐怖に、私は強く目を閉じる。
これで、終わりだ。場合によっては、ここで、死ぬ――。
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