マジック・インザ・セツナ

飯田華

マジック・インザ・セツナ

 毎年の恒例行事であるお盆の帰省先は、新幹線で三時間ほどかかる田舎に位置している、父方の祖母の家だった。

 茹だる熱が山際からの緩慢な流れに乗って降りてくる、閉鎖的な盆地。

 都市部特有の籠った熱気とは違い、草花から立ち昇ってくるような自然的な暑さはいつになっても慣れなくて、正直、あまり訪れたくない場所だった。

 普段顔を合わせることのない祖母や親戚と食卓を囲むのもおっくうだった。

 将来どこに就職するのか、彼氏はいるのか、大学は楽しいか、毎日ちゃんとご飯を食べているのか。

 聞かなくてもいいことを場を繋ぐためだけに口にする親戚たちには辟易して、夕食を食べた後はすぐ、庭先に面した縁側へと撤退する。

 居間から聴こえてくる酒盛りの喧騒よりも、申し訳程度に吊るされた風鈴の音色の方に意識が吸い込まれていく、静かな縁側。

 祖母の家に来てから三日間。そこにはいつも、美しい先客が腰を下ろしていた。

 



 彼女は私の姿を認めると、数センチ隣の床をポンポンと叩いて、「座れ」というジャスチャーをしてくる。

 それに従ってストンと腰を据えると、もう私たちの間に交わされるコミュニケーションは終わり。後は時間が過ぎるのを真っ暗闇の夜を眺めながら待って、眠気がじわじわとせり上がって来れば寝室へ移動するだけだった。

 私と彼女の関係は曖昧以前の問題で、互いの名前も知りはしない。

 たまたま居合わせただけの間柄で、数日経てば顔を合わせることもすっかりなくなるだろう。

 交錯しない視線の向く先はそれぞれ、前方に横たわる庭の暗闇と、彼女の横顔。

 どちらの瞳も、美しいものを映し出している。

 庭先の暗闇をまっすぐに見つめている瞳の力強さは左右対称で、いつ見てもこちらを飽きさせない光を放っている。なだらかな曲線をやや上向きに伸ばしている目尻と横顔の輪郭は写実派の画家が線を引いたかのように端正で、ミリ単位の狂いもなく、周りの人間とは隔絶した美しさを帯びていた。

 私と似通った血を引いているとは到底思えない美貌を持つ彼女は、私の母親の姉の娘、長ったらしい説明を抜きにすれば従姉となる人で、私より一個上の大学二年生であるらしい。名前は…………「せ」から始まることだけ覚えている。平仮名三文字であったような気もするし、堅苦しい漢字だったような気もする。

 聞いてみたいな、と内心思ってはいるけれど、未だ彼女に対してまともな声掛けすらできていないのだから、そんなことは到底無理な話だった。

 彼女と一緒にいることは、割と気まずい。会話もないし、数センチほどしか離れていない距離に人がいることにも若干の抵抗感がある。

 それでもめげずに肩を並べているのは……なぜだろう、自分でもよく分からない。

 彼女と何らかのきっかけが欲しい、と明確に思っているわけでもない。

 …………名前すら知らない相手なら、自分の要素を開示する必要がないから?

 ひとまずそれっぽい理由を打ち建ててみたけれど、答え合わせをしてくれる人なんて誰もいないから、思いはふらふらとその場を巡るだけだった。

 ちりんちりんと鳴る鐘の音が、一時の沈黙を埋めていく。

 ちらちらと彼女の方へ目をやると、彼女も手持無沙汰なのか、庭先に投げ出した両足をぷらぷらとさせながらポリポリと頬を掻いていた。

 日中よりも低い温度、それでも許容しがたい熱気を孕む風が彼女の長髪をふわりと浮かび上がらせている。腰まで伸びる黒髪が風によって パラパラと舞う度、髪と髪の隙間がしんとした廊下を細長く切り取っていた。

 何から何まで絵になるなと、つい感心してしまう。

 



「気まずいね」

 そんなことを考えていると、唐突に真横からアルトが滑り込んできた。

 低く、鼓膜の端から端までを入念に震わせてくる声色。

 一瞬、誰が声を紡いだのかが分からなくて、思考が空回る。数秒後、ぽたっと落ちた理解が瞳を突き動かして、隣の彼女へと焦点を定めた。

 彼女は依然として、前を向きながら風に吹かれている。

「ぜんぜん話したことのない人といるのって、割と苦痛だね。何考えていいのか分からなくて、こっちも身構えちゃう」

 苦痛という、手放しでは受け止められない字面が夜闇を伝う。私が急な会話の始まりに心底狼狽してしまって、

「そ、そうですね」としか返せなかった。

 ここから立ち去った方がいいだろうか。

 隣に座れというジェスチャーに促されるままここにいるけれど、本当は「めんどくさいなぁ」くらいには思われていたのかもしれない。というか、私も気まずいと思っていたのだから、お互い様なのは当然のことだった。

 重い腰を上げようとすると、彼女は「あ、違う違う。あっちいけって言いたいわけじゃなくて」と口にしながら手をブンブンと振ってくる。忙しないメトロノームが熱気を切り裂いて、余波がこちらにまで到達してきた。暑い。

 外見と所作が妙に噛み合っていない。見た目だけだと物静かに、それこそ湖畔に建つ屋敷のご令嬢という雰囲気なのに、体の動きを見れば実年齢よりやや幼く感じられるほどだった。

 庭のどこかから聴こえてくる鈴虫たちのさざめきが、間延びしていた鼓膜をしっとりと揺らした。力を入れたままにしていたふくらはぎがだんだんと縮んで、数ミリほど浮かび上がっていた腰を再び床に据える。

「言葉足らずだったね。なんだろう、緊張感があるって言いたかったのかな」

 自身の唇を指さして、さきほどの言動を開発し始める彼女。

 苦痛という言葉を差し向けられ一時怯んでしまったけれど、彼女自身、棘を含む表現をしようとして口を開いたわけではないらしい。

「わたし、言葉の使い方が危なっかしいって人によく言われるんだよね。語気が強い、とも言われるかな。別に意図したわけじゃないのに、言葉を伝える先に必要以上の意味を与えすぎっていうか…………要するに、人と話すの苦手なの」

 唐突に始まった自分語りに一旦区切りをつけた後、彼女は勢いよくこちらに顔を向けた。

「おばあちゃんともバチバチにやりあっちゃって。夕飯の時は外で食べてるの。ここら辺全然食べるところないから、店探し大変だけどね」

 田舎きらーい。

 明け透けな本音が、彼女の口から無遠慮に飛び出す。一瞬、私以外の誰かの耳に入ったことを危惧したけれど、きょろきょろと見渡してみても、この場を搔き乱すあれこれは見つけられなかった。

 代わりに、丁寧に磨かれた鏡のような二つの瞳が、逃れようなく私を捉える。

「あなたは?」

「…………え?」

「あなたはここ、きらい?」

 澄み切った声色で放たれた問いに、じくりと竦む。

 嫌いかどうか。

 閉塞感や威圧感。質問攻めで疲弊する思考と、不躾に私の現状を品定めする視線。

 正直。

「嫌い、かな」

 彼女の鼓膜だけが、たおやかに揺れている気がした。

「大人数に取り囲まれる場所は苦手だし、なんか、面接受けてるみたいだから」

「じゅーちんに囲まれてるって感じ?」

「じゅーちん?」

 一瞬文字の変換ができなくて、数秒後にやっと『じゅーちん』が『重鎮』であることに気づいた。

 重鎮か。確かに、こちらと相手の関係性としてぴったりな呼び名かもしれない。

「じゃあ、私たちは平社員だね」

 思いついたことをそのまま口に出してみると、彼女は堰を切ったような笑い声を立てた。

「あっはっは! そうだね、残念ながら給料はゲットできないけど」

「ふふっ、たしかに」

 いつの間にか取り繕っていた敬語もほどけていて、同年代と接するのに適した言葉遣いになっていた。

「わたしたち、いい友達になれそうだね」

 ほんわかした口調でそう言った彼女がその場で背筋と両腕を伸ばして、再び庭に視線を向ける。

 空を漂っていた雲が身を引いたのか、暗闇はぽつぽつと浮かぶ星々に淡く照らされている。飛び石や、綺麗に枝先を揃えられた低木。どれの輪郭も釈然としないけれど、ただそこにあることだけは感じ取れるか細い光源。

 彼女だけを克明に切り取る演出が、密やかになされていた。

「ねぇ、名前教えてよ」

 彼女の言葉が、柔らかく耳元に散る。熱気を裂く、大気とはまた違った温かさに舌を押された。

「杉村、ちほ」

 たどたどしくフルネームを口にすると、目を満月のように丸くした彼女がこちらを覗き込んでいた。

「苗字、同じじゃん!」

「え…………ああ、うん」

 従妹同士なのだからあり得る話なのでは、と思ったけれど、瞳の多彩な色合いを乱したくはなくて、余計なことは言わないように唇を固く結んだ。

「わたしは杉村せつな。しがない女子大生」

 せつな。

 目に、耳に、肌に、その心地よい響きがしっとりと染み入る。五感がいつもよりも鋭敏となって、一瞬、時が止まったようにすら感じられた。

「いい名前」

 素直に、何のてらいもなくそんな感想を零すと、せつなはほんの少し眉を動かした後、

「そんなこと、人に言われたこと初めて」と、半ば吹き出しながら相好を崩した。




 夏の夜に、二つの笑い声が立ち昇る。

 気乗りしていなかった帰省。

 繋がるはずのなかった関係が、刹那の魔法で結ばれたのだった。

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マジック・インザ・セツナ 飯田華 @karen_ida

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