第46話花嫁は幸福を祝福する



「これ以上ないほど見事に、服に着られているわ」


 ティアは、カグラの正装姿をそのように評価した。花嫁の控室では、様々な宝飾品を身に着けたティアと正装姿のカグラだけがいる。


 今日のための正装が似合っていない自覚は、カグラ自身にもあった。服自体はティアが選んだ最高級のものなのだが、カグラが着慣れていないせいもあって不思議なぐらいに格好がつかないのだ。


 桜妓楼の人間にも手伝ってもらったが、どうにもならなかった。誰もが首を傾げる七不思議を誕生させてしまったカグラは、疲れたようにため息をつく。


 これならば女性の正装を用意すればよかったとティアは考えていた。女性の正装だったならば、カグラは難なく着こなしていただろう。


 なにより、ティア自身が見てみたかった。説得したら着てくれたかもしれないので、勿体ないことをしてしまったかもしれない。


「それにしても……。花嫁を最初に見る人間が、僕で良かったのか?」


 結婚式が始まるまでは、新郎は花嫁を見ないのが通例だ。控室に入って花嫁に声をかけられるのは、花嫁側の家族と親族のみである。


「私は家族との縁が切れたし、カグラ様に最初に見て欲しかったの」


 ティアのドレスはシンプルなものだったが、それは身に着けたアクセサリーを際立たせるためのだ。わずかな婚約期間であったにも関わらず、ティアには沢山のアクサセリーが贈られていた。


 愛の証で飾られたティアは、誰よりも美しい。


「……今日のお前は、僕が見てきた女のなかで一番綺麗だ」


 世辞ではなかった。これほど多くの愛を贈られた娼婦などいないだろうし、カグラは見たこともない。


 ティアは、幸せに生きていけるはずだ。


 この結末は、ティアを最初に助けたいと願った人間が望んだ形ではないかもしれない。それでも、ティアが良い人生を送ることを喜ばない人間ではなかった。むしろ、一番喜んだことだろう。


「ティア、これを持っていってくれ。リリンダ……お前を逃がした使用人が、僕に支払った金の一部だ」


 主人に命じられて、前戯の代わりに何度も自分を抱いた男。その男が一人で桜妓楼にやってきて、カグラと取引をした。金と引き換えに、ティアを匿ってほしいと言ったのだ。


 その時の金は、危険を犯してまで人を匿うほどの金額ではなかった。リリンダは、それでもカグラの元にやってきたのだ。


 自分を頼った時点で、リリンダは死ぬ決意があるのだとカグラは察した。リリンダにとってカグラとの関係は恥ずべきもので、焦がれるティアには知られたくはなかっただろう。


 その危険性を犯してまで、リリンダはカグラを頼ったのである。


 その覚悟を無下にするには、カグラとリリンダは躰を重ねすぎた。


 カグラは、一枚のコインを差し出した。どこにでもあるコインは、他の金がそうであるようにわずかに汚れている。


 これを支払った男がいなければ、ここにティアはいなかった。リリンダは、ティアに遺品を残すことを望んでいないだろう。


 遺品をティアに渡すのは、カグラの我儘だ。


 消耗品とまで言われて一度も主人に顧みられることがなかったリリンダの存在が、店にいる娼婦たちに重なったのだ。ティアには消耗品でもない勇敢な男して、リリンダのことを覚えておいてほしかった。


「リリンダとの付き合いは長いが、遺品と言えるようなものはなくてな」


 ティアは、受け取ったコインを握りしめる。その力の強さは、コインが粉々に壊れてしまいそうなほどだった。そして、彼女の表情には花嫁らしくない陰りが差し込む。


「薄情よね。こんなことになるまで、私は彼の名前も知らなかったのに……」


 使用人の名前をすべて覚えている主人などいない。伯爵家ならば、なおのこと多くの使用人をかかえていただろう。


 けれども、ティアの悲しみや後悔をカグラは慰めない。それが、リリンダへのせめてもの花向けだと思った。


「……カグラ様は、アリアにもらったバレッタを持っているわよね」


 そんなことを尋ねられたカグラは、戸惑いながらもポケットからバレッタを取り出した。


 男の正装で髪飾りなど付けられないし、仕事中にも見るからに安物のバレッタなど身に着けられない。客の前なら尚更だ。


 それなのに、箪笥の肥しにはしておけなかった。自分の元に来なくなった客からの贈り物ならば、埃にまみれることなど考えずに放っておけるというのに。


 おかげで、今日以外は文鎮代わりとして使っている。


「これは、こうすればブローチになると思うから」


 ティアは、バレッタをカグラの胸元に付けた。


 安物のバレッタが、安物のブローチに成り代わる。今日の高価な正装には、まるで似合ってはいない。それに、ブローチに成り代わったところでデザインは女物だ。


「私も愛された証を持ってく。カグラ様も持っていて」


 アリアは礼のつもりで、バレッタを購入しただけだ。仕事のために伸ばしている髪が邪魔だろうと考えて、目についた安物のバレッタを買った。


 それが理由で、それだけが理由でいい。


 それ以上は、男娼には相応しくない。


「愛を偽る仕事をしているからって、本物の愛からは逃げられないわ。アリアの方は、とっくに決めているみたいだし」


 控室のドアが、軽い力で叩かれる。


「ティア様、お時間です。……カグラもいたのか」


 ティアを迎えにきたのは、アリアだった。使用人としての正装をしており、主人を祝福する客人を持て成す準備は出来ている。


 アリアは、カグラの胸元にブローチを見つけた。その視線に気がついてカグラはブローチを隠したくなったが、すでに見つけられているものを隠すのは不自然だ。


 アクセサリーを身に着けてくる理由など一つしかなくて、カグラは唇を噛んだ。ブローチを床に叩きつけられたら良かったが、そんなことも出来ない。


 ティアがアクサセリーではないと言い訳ができるバレッタではなく、ブローチにして胸を飾った時点で外すべきだったのだ。


 こんな失敗は、自分らしくもない。


 客の前だったら失敗しないのにと考えていたら、この場に客など一人もいないことに気が付いた。いるのはベリツナ歓楽街から解放された自分とアリアとティアの三人だけだ。


 相手の望む顔をする必要などない相手ばかりが部屋のなかにいて、その事実にカグラは泣きそうになった。逃げれないと思ったし、逃げたくないと思った。


「仕事があるから絶対に着けないと思ったから、安いのを選んだんだ……。着けるなら、もう少し良いものを選んだよ」


 アリアの声は小さかった。


 けれども、聞こえなかったと言い訳が出来るほどのものではない。


「心配するな。……今日だけだ。何時もは、着けられない」


 夜という時間に、偽りの愛を囁き続ける。


 そんな仕事に浸かって抜け出せない自分が、アリアからアクセサリーなど受け取るべきではなかった。


 それでも、気づかないふりをして受け取りたかったのだ。髪飾りのバレッタならば言い訳が効くと思ってしまったから。


「文鎮としては使っているから、次は重くて良いの買ってこい。僕も……何かを適当なものを選んでおく。だが、本当に良いのか?」


 アリアを拠り所にても許されるだろうか。たった一つの特別な繋がりをひっそりと持っていても良いのだろうか。


 それ以上に大切で守るべきものが、アリアとカグラにはある。それらを手放すことは決して出来ないし、互いよりも大切にすることはないであろう。


「お前とは特別な関係でいたいって言っただろ。心中なんて言い出したのはカグラだから……俺は大人になってからも心中なんて物騒な言葉を使っている」


 アリアは、カグラを見た。


 自分への好意をのらりくらりと躱し、時には気づかないふりさえする。そういう術をもった男娼のカグラが、この場にいなかった。迷子になったみたいに自信なく右往左往して、不安げな顔をしている。


 けれども、腹を決めるのは早かった。


 いつだってそうだった、とアリアは笑う。痛みと屈辱のなかで生きてきたカグラの決心は驚くほど速いし、覚悟は強固なものだ。


 腹を決めてしまえば、カグラ以上に頼りになる人物はこの世にはいないだろう。


 アリアはカグラに近付いて、額に口付ける。


 触れるだけの口付けをされた経験なんてあっただろうか。自分が忘れてしまっただけなのだろうか。そんなことを考えながら、カグラは唖然とした顔でアリアを見つめていた。


「……こういうことについては、お前には絶対に敵わないからな。俺からは、これぐらいで勘弁してくれ」


 腰が立たなくなる経験なんて初めてだったと遠い目をするアリアに、額への口付けは自分が考えているものよりもずっと大切なものだったのかとカグラは気が付いた。


 カグラは、アリアをかき抱く。


 この瞬間だけは仕事には逃げられないようにして、唇を奪ってやった。カグラにしてみれば児戯に等しい口付けだが、それで良かった。なぜならば、自分はすでに相手に篭絡されている。


 ぱちぱち、と拍手が聞こえた。


 カグラがアリアから顔を離せば、にやにやと笑っているティアがいた。これから自分の結婚式だというのに、嬉しそうに他人の幸せを祝福している


「……これが見本だから、本番はしっかり決めてこい」


 そんな言い訳をするカグラに噴き出したのはアリアである。お前は笑うなとカグラは睨みつけた。この場には、カグラの味方はいないらしい。


「それじゃあ、カグラ様。お幸せに!」


 普通の花嫁ならば言わない言葉と共に、ティアは花婿の元に向かう。


 ティアのドレスの裾は、アリアが持ち上げる。彼の顔はすっかり使用人のものに戻っていて、今日一日は忙しくしていることだろう。


「……幸せになるのは、お前だ」


 花嫁の癖に何を言っているだと独り言をいうカグラの顔が清々しいのは、目をかけた女が幸せになる瞬間を見届けたことだけが理由ではなかった。


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