第44話キスで足腰立たなくなるだなんて初めてだ



「せっかくだから、お茶とお菓子を食べにいきましょう。外でお茶を飲むって、あまり経験がないの。カグラ様もベリツナ歓楽街から滅多にでないって言っていたし、思いっきり楽しまないと」


 ティアの提案は突然だった。


 ユシャとアリアは顔を見合わせたが、女主人に逆らう権利はない。よっぽどのことがない限りは、ティアのお望みのままである。


 アリアは一生懸命になって、この場に相応しい喫茶店はどこにあるかを思い出そうとする。


 貴族御用達の店というのはあるが、暗黙の了解としてのドレスコードがある。庶民の普段着姿であるカグラは、間違いなく門前払いされるであろう。


 そうなれば、貴族ではない富裕層を相手にしている店が良いに決まっている。だが、そのような店は少ないのだ。


 王都にある店の情報を必死に思い出したアリアは、目的地にまで馬車に走ってもらった。


 たどり着いたのは、広々とした喫茶店である。アンティークの小物でそろえた落ち着く内装で、金持ち御用達の店でもある。高貴とは言えないが質の良い服を身にまとった紳士淑女が談笑する姿に、アリアはほっとしていた。


 この店ならば、ティアが入店しても問題はないだろう。


「素敵なお店ね。あら、コーヒーって何かしら」


 ティアは、メニュー表にあるコーヒーの一文に悩んでいる。コーヒーを好むのは主に男性で、貴族には男女共に忌避されている飲み物だ。


 労働者階級から広がった飲み物という経歴が嫌われている理由である。伯爵令嬢ともなれば、名前さえも知らないぐらいだ。


「男性に好まれる苦みが強い飲み物です。その……あまりお勧めはできません」


 ティアにとっては珍しい飲み物だろうが、苦みの強い味は飲む人を選ぶ。男性でも好きではないという人間もいるし、アリアも美味しいとは思えない。


「でも、この機会を逃したら飲めないかもしれないわ。ケーキと一緒に頼んでみる」


 未知の味に、ティアは意気込んで見せた。


 そうなると従者であるユシャは、別なものを頼みにくい。恐る恐るコーヒーを選択し、カグラもメニュー表を指さしてコーヒーを注文した。


 アリアは、自分はどうするかを迷った。


 使用人としては、主人の目の前で座るわけにはいかない。だが、店のなかに使用人を連れてきているような客は他にはおらず、アリアが立ったままではティアたちが目立ってしまう。さらに言えば、注文もせずに立っているだけの客など店からしては迷惑なだけだ。


「アリアも座って。一緒に食べましょうよ」


 ティアの許しが出たので、アリアは席に座る。全員がコーヒーを頼んでいたので、アリアもコーヒーを注文した。それぞれの好みのケーキも注文して、しばしの歓談の時間を楽しむ。


 周囲の視線が痛いのは、間違いなく珍妙な一同だからだろう。洋服店でも感じた視線は、身分制度を超越した集団というのが理由だ。


 アリアは、出来る限り気にしないようにする。


 ちなみに、他の面々は視線などないかのように振舞っている。肝が据わっている女性陣である。一人だけ男が混ざっていたが。


「こちらは、当店からのサービスです」


 テーブルに置かれたのは、フルーツの盛り合わせだった。


 豪華とは言えないが可愛らしくウサギの形に切られたリンゴなどが皿に乗せられていて、目を楽しませる工夫が凝らされている。そして、ウェイターの視線は憐れにもカグラに注がれていた。


 若くて純情な男の心を狂わせたカグラは、フルーツのほとんどをティアとユシャに譲っていた。ウェイターは目に見えて落胆しており、アリアは心の中だけで手を合わせる。


 一瞬にして彼の心を奪ってしまった美貌は男のもので、ついでにいうと食べ物を女性に譲るという紳士の精神も持ち合わせている。


「これがコーヒーなのね。本当に真っ黒」


 運ばれてきたコーヒーとケーキを見て、ティアは喜んでいた。


 共に頼んだケーキはシンプルなチョコレートケーキで、伯爵家にいればもっと豪勢なものをいくらでも食べることが出来るだろう。だが、家のものと外食は違うらしい。


「こういう堅苦しくないお出かけなんて、本当に久々よ。王子の婚約者時代は、堅苦しいばかりで……。ふふ、いただきます」


 自由を満喫するティアは、コーヒーに口をつけた。ユシャとカグラもそれに続く。


「……苦い」


 ティアとユシャは、地獄を見たような顔をしていた。カグラは平気な顔をしていて、コーヒーの味に衝撃を受けている女性陣に砂糖とミルクを差し出す。二人は競うように砂糖をたっぷりとコーヒーに入れていた。


「これは……なかなか経験できない味だったわ。これが平気だなんて、カグラ様は凄いのね」


 ティアは関心しているが、カグラはどこ吹く風といった顔をしてケーキを食べている。彼が注文したのは生クリームがたっぷりと乗ったショートケーキだったが、こちらの方にむしろ難色を示している。


 カグラが普段食べているものは、ほとんど油を使わない東洋の料理だ。桜妓楼の娼婦たちは、バターが入っているからという理由でパンにさえ胸やけを起こしたりする。


 彼らが食べたがるのは米という自国の作物だが、当然のごとく手に入りにくい。そのため、桜妓楼では麦を蒸したものを主食にしているらしい。


 それだけでも驚きなのだが、おかずとして食べるのも魚を汁物にしたり焼いたりしたものや野菜を塩漬けにしたものが主だ。肉類は滅多に口にせず、それすら脂っこいや獣臭いといって塩茹でにされて出されたりする。


 醤油や味噌が欲しいと娼婦たちは嘆くが、異国の調味料はあまりに高価すぎる。そのため、塩やハーブで頑張って味付けしているらしい。他の娼館であったら、食事の貧しさで暴動が起きていることだろう。


 なお、客に出すものは普通の料理だ。バターも肉もたっぷり使っており、アリアは食べたことはないが美味しいらしい。



 だというのに娼婦やカグラは客に出すようなものは食べないので、生クリームのようなこってりとしたものは彼の口に合わなかったのだろう。だからと言って残すわけにはいかず、難しい顔をしてケーキを口に放り込んでいく。


 アリアとしては人目がなければいくらか引き受けても良かったが、主人たちと共にいるというのに食事のマナーを破るわけにはいかない。


 カグラは一定の間隔でフォークを動かしていたが、やがて手が止まってしまった。まだ半分もケーキは残っている。


「あら?」


 あろうことか、カグラはティアの眼前にフォークに刺さったケーキを差し出していた。ティアは楽しそうに、カグラのケーキにかじりつく。


 恋人同士でしか見せない気安い戯れ合いに店内はざわめいた。階級の垣根と性別を超えた恋人同士に見えなくもないところが、アリアとしてはとても恐い。


「カグラ、何をやって……」


 注意が終わる前に、カグラはアリアの口にケーキの残りを全て押し込んだ。大きすぎるケーキの欠片に乗っていた生クリームが、べったりとアリアの口まわりに付いてしまう。


 それを見たユシャが、声を殺して笑っていた。ティアも似たような表情だ。


 アリアは、よくもやってくれたなとカグラを睨みつける。


 喫茶店とはいえど上品な店で見せるような行いではない。そして、それが分からないカグラではない。普段なら見せないような行動は、彼なりに今の状況を楽しんでいるからなのかもしれない。


 ベリツナ歓楽街から出て変装までしているカグラは、普段なら背負っている責任から開放されている。だから、マナー違反までしてアリアをからかおうとするのだ。


 それが分かれば手加減などしない。アリアは「失礼します」と言って、自分のナプキンで汚れていないカグラの口元を拭う。


 使用人に口元を拭われるだなんて、子供扱いされているのと同じだ。予想した通り、アリアはむくれていた。


 人をからかうからだと考えながら、そのナプキンでアリアは自分の口元を拭いた。ささやかすぎる仕返しだが、何もしないよりも気分が良い。


「あの……」


 ユシャが顔を赤くしながら、遠慮しがちに自分の口元を指差す。アリアとカグラは顔を見合わせて、自分たちの行動が布を介しての口付けであったと理解する。


 といってもアリアとカグラは男同士で、間接キスだなんて気にしない。そのような事を気にするような産まれや育ちではないからだ。


 しかし、令嬢として育ったティアとユシャは違う。二人は頬を染めながら、顔をうつむかせていた。


 悪いことをしてしまったとアリアは考えたが、カグラは気にもしていない。彼の仕事を考えれば、女性二人が赤面している理由すら理解できないかもしれない。


「えっと……仲が良くって何よりね。ちょっとうらやましいぐらいよ」


 ティアは赤くなった顔を手で扇ぎながらも微笑んでいた。


「次は……そうだ。香水を見に行きましょう」


 今日一日を楽しく過ごすつもりのティアは、新たな行き先を決める。


 男性も香水は使用するが、カグラは東洋のお香というものを使っていた。煙を使って衣服に匂いをつけるので、普通の香水よりも香りは淡い。けれども香水にはないエキゾチックな香りが楽しめるのだ。


 だから、カグラは香水を使わない。ティアはそれを知っているだろうから、香水に関しては自分用も買い物だろう。


 アリアは馬車の用意と支払いのために、一足先にウェイターに声をかけた。支払いを手早くすませたアリアは、ティアたちを残して店を出て行こうとする。しかし、そんなアリアの肩をウェイターは力強く掴んだ。


「あの黒髪の女性を紹介してくれ!」


 鼻息を荒くしたウェイターの姿に、アリアの笑みが引きつる。ウェイターの恋は結構だが、相手が悪すぎた。


「あれは、性悪だから止めとけ。本当に止めとけよ。骨までしゃぶりつくされるだけだからな」


 ウェイターに忠告してから、アリアは馬車を準備する。その間にも、めげないウェイターは店を出ようとしていたカグラたちに声をかけていた。


 ティアとユシャは熱心なウェイターに戸惑っていたが、ガグラは興味がないという顔をしている。


 客として桜妓楼に行けばカグラは淑やかな笑顔で出迎えてくれるので、それを考えれば考えるほどにアリアはウェイターが不憫でならない。


 カグラは馬車の用意が整ったことを店内から確認し、営業用と思しき可憐な笑顔でウェイターを黙らせる。百戦錬磨の男娼の笑顔にウェイターは言葉につまるほど見惚れてしまって、カグラたちが店を出る隙を作ってしまった。


 先にティアとユシャを馬車に乗せたカグラは、控えていたアリアに近づく。アリアは嫌な予感しかしなかった。


 アリアの了承も取らずに、カグラは目の前の男の首に手をまわす。そして、自分からアリアの唇に吸い付いた。


 しかも、薄い舌を潜り込ませて、わざとらしいほどに水音までたて始めたのだ。日中の屋外で仕掛けるには大胆すぎる口付けは、間違いなくウェイターに見せつけるためのものだろう。


 一人の男の恋心を壊すことに熱心なカグラは、手加減などしてくれなかった。


 アリアの上顎をなぞり、逃げる舌を器用に捕まえてくすぐる。息苦しくなって離れようとする躰すらも首にまわした手で許さず、自分が満足するまで十分な時間をかけて貪った。


 唇同士が離れたときのカグラは、カナリアを食べた猫のような顔をしていた。そして、その場に崩れ落ちてしまったアリアを尻目に、悠々と馬車に乗り込んだのである。


 アリアが数分間も座り込んでいた理由は、もたらされた快感に足を震えて動かなくなったからだ。この手管で、どれだけの男たちを虜にしたのか。想像するだけで恐ろしい。



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