第35話その子供は共に死んでくれと言った(アリア)
ベリツナ歓楽街では下働きに子供を使う店も多いので、幼子の声自体は珍しくない。けれども、その声には男児とも女児とも言えない艶があった。声変わりをすませていないせいなのだろうかとアリアは考える。
好奇心のままに振り返ってみれば、黒い単衣を来た子供がいた。十歳以下の声変わりもすんでいない子供だ。
そのくせ世界の汚濁を見てしまったかのような斜に構えた態度で、伸ばし始めたばかりらしい髪を邪魔そうに掻き上げる。その黒髪に喩えるような美しい言葉をアリアは知らない
頼りないぐらいの細さだったが、女児ではないようだった。けれども夜の気配をまとい始めた彼は、不思議な色香を漂わせ始めている。
「お前のタバコは物珍しいからって客が吸いたがるけど、店の中が煙臭くて敵わなくなる。どうにかしろ」
物珍しい苦情だった。
男児はアリアと同じく、タバコの匂いを良くは思っていないらしい。けれども、この子供の意見を素直に聞き入れるわけにもいかない。
「売れるんだから仕方がないだろ。文句は客に言えって」
アリアとしては、正論をのべたつもりだった。店の中でタバコを吸っている客が悪くて、ひいては客にサービスとしてタバコを提供する店が悪いのである。アリアに悪いところはない。
そこまで考えて、アリアは目の前の男児が娼館に住んでいるのだと改めて実感した。そうでなければ、娼婦たちが買ったタバコの煙に文句など言うはずがない。
男児は何を思ったのか端麗な顔を不遠慮にアリアに近づける。突然の接近にアリアはぎょっとしたが、そんなことを気にせずに男児は犬のように鼻を鳴らした。
「お前からもタバコの臭いがする。おかしなものを吸って、いたずらに寿命を縮めるな」
不機嫌そうな男児は、今にも舌打ちでもしそうだった。けれども、そんなことをしないのは男児が厳しく躾けられているせいであろう。男児の所作は、どことなく品がある。
「女に溺れる大人の男の気持っていうのが、知りたかったんだよ」
格好をつけてみたが、どうにも決まらない。そして、格好をつけたところで悩みが消えることはない。
「まったく……こんな街なんて嫌いだ。この街がなければ、あいつだって淡々とタバコを売り歩くだけの人生だったろうに」
アリアは、大仰にため息をついてみせる。これも格好をつけただけのつもりだったのに、内心に秘めた感情だったせいで実感が伴った情けないものになった。その様子を見た男児は、申し訳なさそうな顔をした。
「身内が破産したのか?」
その問いかけに、アリアは「これからするところ」と応えた。それだけで、男児は何があったのかを悟ったらしい。ベリツナ歓楽街では、男の転落など珍しいことではない。
「問題なのは、俺の食い扶持だよ。子供だけで商売ができたり、満足に生活できるだけの金額で雇ってくれるところなんて珍しいからな。衣食住が保証されていたお屋敷が懐かしい」
アリアの話を聞いて、男児は目を丸くした。そして、何事かを考え始める。その横顔を見つめて、アリアは改めて男児の造形の美しさを実感した。
それだけではない。
肌のきめも細かく、髪の手入れも行き届いている。過剰なほどに美しく保たれた男児は、近い将来は商品になるのだろう。あるいは、もう売り物であるのか。
ベリツナ歓楽街に足を踏み入れてアリアも長くなる。だから、女のように春を売る男が少数だがいることは知っていた。
今までは、彼らを見たこもなかった。しかし、男児は間違いなく男娼の一人であろう。
「娼婦の先輩の客に、使用人を探している人がいる。もっとも、その人は屋敷の主ではなくて執事をやっている人らしい。だから、僕の紹介でも確実に雇ってもらえるとはかぎらない。それでも、口利きをしておくか?」
男児の言葉に、アリアは耳を疑った。とんでもないチャンスだ。
使用人の雇用は主が決めるが、執事の権限は小さくない。話が本当であれば、アリアは高い確率で使用人として雇ってもらえるだろう。
「もっとも女の前で格好をつける男は少なくないから、執事をやっているということは客の嘘かもしれないが」
少年はそう言うが、使用人を探しているなんて言っている時点で本物の可能性は高い。さらに桜妓楼に通えるほど財布の中が温かいのであれば、大きな屋敷の執事なのかもしれない。
高級娼館を銘打つ蝶とは違って、桜妓楼の娼婦たちの値段には幅がある。それでも娼婦の誰もが、そこそこ値の張る商品だった。
「お願いだ。紹介してくれ!!俺が礼として渡せるものなんて、タバコぐらいしかないけど」
アリアは、売り物のタバコを両手いっぱいに差し出した。
男児は、嫌な顔をする。
「いらない。僕としては、その変な臭いのタバコを売って欲しくはないだけだ」
こういうもの営業妨害というのだろうか。
だとしたら、随分と親切な営業妨害である。
「それでも、俺には願ったり叶ったりの話だ。今すぐじゃなくても絶対に礼はするからな」
喜ぶアリアとは反対に、男児はにやりと不気味に笑った。まるで面倒なことを考えましたと言わんばかりだ。
「礼がしたいというのなら、僕が死にたくなったら心中してくれ。難しいことじゃない。躰を紐で繋いで、水のなかに飛び込むだけだ」
心中なんて言葉は、アリアは初めて聞いた。意味も分からずにぽかんとしていると、男児は東洋の国に伝わる自殺の作法だと教えてくれる
自殺に作法などあるのかとアリアは不思議に思った。だが、男児の母親は客とそうやって死んだらしい。母親に先立たれた男児は桜妓楼で育てられ、今夜が初めての商売だという。
「産まれたときから、娼婦の苦労は見てきている。病気を移されたり、躰を壊したり。歳をとって働けなくなったりと散々だ。そうなったら、母のように死んでやろうかと思っている。けど、一人では味気ない」
だから、一緒に死んでくれ。
そんなことを言い出した男児の表情は、人生をあきらめているようだった。未来が怖いのだろうアリアは思った。
幸せなど何一つ保証されていない苦難の道が怖くて、死という保険が男児は欲しかったのだろう。アリアは野垂れ死ぬことを恐れていたのに、男児は生きて苦しみ続けていることを恐れている。
「……分かった。心中相手になってやるけど、本当にギリギリになるまでは死ぬなよ」
アリアの返答が呆気なかったせいだったのだろう。
自分から言い出したくせに、男児は驚きのあまり言葉を失っていた。初対面の相手と共に死ぬ約束をする人間などいるはずがないと高をくくっていたのだろう。あるいは、慌てふためくアリアを笑ってやるつもりでもいたのか。
「遅くなったけど、俺はアリアだ。今は、まだタバコ売りをしている」
アリアが名乗ったことで、ようやく男児は正気に戻る。そして、悔しそうな顔をしてカグラと名乗った。
アリアは、こうしてソリシナ伯爵家使用人見習いとして働くことになった。そして、段々と認められていき、サーリス専用の使用人となったわけだ。
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