第29話女は行く末を選ぶ



 桜妓楼の店主の部屋は、今日も東洋風の物たちで囲まれている。店主の趣味というよりは、店の雰囲気に合わせた内装だ。


 その部屋のソファーに座っているのは、桜妓楼の主人だけではなかった。初めての場所だというのに緊張した様子を見せないサーリスと背後に控える使用人のアリア。そして、行方をくらませた日に着ていたドレスの姿のティアだった。


 美しく装ったティアに、サーリスは静かに近づいた。


 そして、その足元に膝をつく。


「ティア嬢、よかった。ご無事だったんですね」


 ティアは、静かに頷いた。


 彼女の表情には、少しばかり強張りがある。桜妓楼に連れてこられてから、顔見知りに会ったのは初めてのことだ。普通ならば安心するのだろうが、今のティアには不安しかなかった。


 サーリスの思いは、すでに聞いている。けれども、彼の言葉を信じ切ることができない。


 彼の心変わりや裏切り。


 そういうものをティアは恐れていた。家族に裏切られてしまっていたことが、ティアに心の傷を残していたのだ。


 サーリスは、ティアの前で膝を折った。


 そして、胸元から宝箱を取り出す。宝箱を開けば、そこに入っていたのは銀と真珠で造られた首飾りだった。その首飾りに、ティアは見覚えがある。


 サーリスの母が、身に着けていたはずのものだ。彼女が亡くなった今となっては、形見となってサーリスの屋敷で眠っているべきものである。


 それが差し出された意味を理解できないティアではない。幼い内からレイハード王子の婚約者に選ばれて、色恋の世界からは遠ざかった。けれども、年頃の女性の嗜みとして愛を捧げる方法は知っている。


「私は、幼い頃からティア嬢を想っていました。どうか、この求婚をお受け取りください」


 自分の愛を求めるサーリスという男を前にして、ティアは厳しい口調で言った。


「今の私は……あなたの善意と愛情にすがるしかない状態です。実家に見捨てられて、レイハード王子との婚約も破棄されて、行き場がないのです」


 自分は何も持っていないのだとティアは言った。


「そんな私が、あなたの求婚を受けたとき……。あなたは、私の本当の気持ちを疑うのではありませんか?」


 ティアの言葉に、サーリスは言葉を失った。そんな彼を見つめていたティアは、儚げに微笑む。


「レイハード様のように愛だけにすがれば、いつかは『騙された』というのではないでしょうか」


 ティアは、とても悲しそうな顔をした。


 彼女は自分の明るい未来を想像できなかった。いつか自分の選択を糾弾されて、サーリスに捨てられる未来だけが見えていた。


「私は、愛だけを理由に結婚はできません」


 ティアは、静かに立ち上がる。彼女の心は決まっていた。


 この決断を後悔しないとティアは思う。裏切られることを恐れながらサーリスと暮らすぐらいならば、一人で生きていたほうがいい。


 そんなことを考えながら、サーリスの前からティアは去ろうとした。だが、その前にサーリスはティアの手をつかまえた。


 ティアが振り向けば、そこには切ない顔をしたサーリスの姿があった。先ほどまでの見せていた自信などなくて、迷子になった子供の雰囲気を発していた。


「死んだ私の父は、あなたのことを気にかけるように言い残しました。けれども、私と叔父はティア嬢の実家の企みを見抜けなかった。だから――私に父の遺言を果たさせてください」


 遺言を果たすという言葉は本気なのか。それとも建前なのか。


 どちらであるかをアリアは知っている。サーリスは心の底からティアを愛しているし、彼女に愛されたいと願っている。


 けれども、全てに裏切られたティアの心を得るには、愛だけでは足りないのだ。だから、亡き父の遺言を持ち出した。ティアのことを思いやり心を砕くのは、父の遺言を果たすためという理由が出来たのだ。


 今のティアは、愛だけの結婚には頷けない。愛に裏切られたティアには、愛以外の理由が必要だったのだ。


「サーリス様……」


 ティアは手の震えを押し殺し、その瞳を閉じた。誰かを信じることが、これほど恐ろしいと思ったことはない。自分を駒のように使って、あっさりと捨てた父の顔がどうしてもよぎるのだ。


 今は愛されているのかもしれないが、その愛はいつか尽きるかもしれない。ティアは裏切られて、また人形のように捨てられるのかもしれない。それが、たまらなく怖かった。


「この方は、僕が最も信用している男の主人だ」


 サーリスに捕まれていたティアの手に、もう一人分の体温が足される。彼女が目を見開けば、ティアの手を包み込んでいたのはカグラの掌だった。


 遠目からは女性的に見えていた指は、ティアのものと重なれば節が目立つ男のものだ。いくら優美な姿をしていようとカグラは男だったのだ。


 ティアは、それを改めて感じる。


 それでも女の自分の心に寄り添うカグラの言葉が、今のティアには染み渡る。女の苦労と苦難を知っているからこそ、カグラの言葉はティアに寄り添うのだ。


「だから、この方ならば僕はお前を託せる。元より、お前は……大切な友人からの預かりものだ。他の人間は許さないが、この方なら」


 ティアの脳裏に、カグラと過ごした日々が蘇る。


 カグラは、出来る限りティアが選べる道を教えてくれた。


 だが、それと同時に一番険しい道を選ぶことを防ごうともしてくれた。


「カグラ様……」


 カグラの手から、ティアから離れる。


 この瞬間が、旅立ちのような気がした。


 本来ならば、それは嫁入りのために実家を離れるときの感情なのだろう。しかし、ティアには旅立つべき実家はない。人生において一番大きな決断を悩んだ桜妓楼こそが、ティアにとっては旅立つべき場所に思われた。


「今まで庇護していただき、ありがとうございます」


 ティアは、カグラに向かって頭を下げた。カグラの側にいたアリアは慌てたが、感謝の気持ちと決意を新たにするためにも礼を言いたかったのだ。


「私は、この道を行きます」


 ティアは、サーリスから首飾りを受け取った。


 銀と真珠の首飾りを身に着けて、男からの想いを身につける。それは、女が男の愛を受け入れた証拠であった。


「サーリス様、私は何も持ってはいない小娘ですが……よろしくお願いします」


 若い恋人たちの誓の儀式は静かに、けれども厳粛に執り行われた。



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