第27話一つの愛の答え
だが、レイハードの手は娼婦に届くことはなかった。
彼の手の甲は、黒い扇で叩かれる。
レイハードが顔を上げる前に、彼の喉元には畳まれた扇が突きつけられた。その冷やかな感触は、明らかに木製のものではない。
扇は鉄で作られており、本来ならば紙が貼りつけられる箇所は薄く削られている。カグラが愛用する扇は、その気になれば人の皮膚を切り裂くことが出来る武器だ。そこに毒まで塗られているのだから、傷つけられた者としてはたまったものはない。
「遅れて失礼した。御初に御目にかかる。『桜妓楼』の主のカグラだ」
闇から抜け出してきたようなカグラの美麗な立ち姿に、レイハードが束の間だけ目を奪われた。しかし、すぐに本題を思い出したらしく「リシエという娼婦を買った男を探しているだけだ!」と吠えた。
レイハードの言葉に、五人衆たちは呆れ返る。一人の娼婦について調べるだけだというのに、レイハードは兵を引き連れてやってきたのである。
「感心できないわ。それだけで、娼館を一軒燃やすだなんて……」
パダンは眼鏡の位置を直し、かつかつとヒールの音を響かせてレイハードに近付いた。その気迫に、レイハードがものを言えなくなってしまった。そして、パダンは書類をレイハードの胸に押しつけた。
「これは迷惑料と燃やした娼館に支払うべき弁償代。怪我人が出ていたら、その分も後日に請求。踏み倒そうとしたら、どこまでも追いかけます。お金にだらしないお客様は、ただの盗人。盗人の内臓まで引き抜いて、お金に変えるのが私のお仕事」
高級娼館の蝶の店主パダンは、金勘定にうるさい。店ではツケなどは許さないし、料金を踏み倒そうものならばどこまでも追いかけてくる。そして、時には客に身内まで売って金を用意させるのだ。
「王家の人間から金を取るつもりなのか!」
レイハードの足元に、セリアサの鞭が飛んできた。
「悪いことをしたのだから、反省と罰則はあたりまえじゃ。身分でなんとかなると思ったら、大間違いじゃからな」
バラ鞭を使いこなすセリアサは、戦闘面でこそ役に立たない。だが、一対一で向き合ったときには鞭の恐怖が相手を脅す道具になる。
「リシエ……。聞き覚えはある。僕と同じようにベリツナ歓楽街のなかで育てられた娼婦だと聞いていた。誰かに買われていたのか」
カグラの呟きを聞いたレイハードは、弾かれたように彼に飛びかかった。さすがに王子の首を跳ねるわけにはいかないとカグラは判断し、レイハードの喉から扇をずらす。
自分を止めるものはなくなったとばかりに、レイハードは力任せカグラを地面に抑えつけた。細い躰が砂埃に塗れて、薄い胸が「ごほっ」と咳をするために上下する。
「リシエが誰に買われたのかを教えるんだ!」
カグラはレイハードを押しのけようとするが、東洋人の華奢さを受け継いでしまった細腕では成人男性を引き剥がせない。足をバタつかせて藻掻くカグラに向かって、レイハードは「教えるんだ!リシエを買った男を教えろ!!」と大声で叫ぶ。
レイハードの眼には狂気が宿り、カグラの「知らない」という返答も聞こえていないようだった。レイハードの拳が降り上がった瞬間に、アリアは乱暴に王子をカグラから引き剥がした。
それだけでは、アリアの気が収まらなかった。ここまでの怒りを覚えるのは、久しぶりのことだ。
アリアが戦う手段を教わったのは、ソリシナ伯爵家に仕えるようになってからだ。他の家でも働いていたアリアは、子供とは思えないほど早くに仕事を覚えた。
その様子を見ていたのは、サーリスの父に仕えていた使用人だった。彼は、今のアリアのようにソリシナ伯爵家の暗部を担っていた。
そして、老いた彼は自分の後継者を探していたのである。
アリアは、その後継者に選ばれた。
先代の使用人は、アリアに技術の全てを教え込んだ。そのなかには、暴力を伴うものも多く含まれていた。戦いの技術を教わっている時には、先代の使用人はいつも言っていた。
拳や武器を振るうときには、怒りを忘れなければならない。
感情は判断力を鈍らせて、目的遂行の邪魔をする。目的の遂行が不可能になることは、使用人にとって一番恐れるべきことだった。最大の失態だった。
だからこそアリアは怒りを抱かないように生活していたというのに、今は感情の抑えがきかなかった。いいや、自分が怒っているという自覚すらなかった。
他の考えが浮かばなくなるほどの衝動が頭を真っ白にさせて、後先を考えずに拳を振り上げた。そして、渾身の力を込めてレイハード王子の顔面を殴った。倒れたレイハード王子の顔には、拳の痕がくっきりと刻まれている。
「……やってしまった」
王子を殴ってから、アリアは正気に戻った。
目撃者が山ほどいるなかで、王子を殴ったという不敬罪を犯してしまった。死刑と言われても納得するしかない状況下に、アリアは血の気が引いていく。
「王子が……王子が、王に殴られたことを言えば、娼館に火をつけたことも言わないといけなくなる。……たぶん、王子は言わないはずだ」
土埃を吸い込んだせいで咳が止まらなくなったカグラは、アリアをすがって立ち上がった。よろめいているカグラの話を信じようとアリアは決意する。
カグラの予想が違っていたらアリアの首と胴体が永遠の別れをしてしまうのだが、今は王子が後ろめたさで王への進言を躊躇うことを祈ることしか出来ない。とても悲しいことなのだが。
「……リシエを買った人間は知らない。知っていたとしても、客の個人情報は漏らさない。それはベリツナ歓楽街の娼館だったら、どこでも順守することだ」
息を整えたカグラは、レイハード王子を睨みつけた。アリアに殴られた王子は、悔しそうに顔を歪める。五人衆やアリアに痛めつけられたことで、ベリツナ歓楽街で情報を得るのは無理だと分かったのだろう。
「くそっ。リシエを買った黒幕を倒して、ティアともう一度婚約をするんだ。そうやって、アセニシア伯爵家に取り入って……」
レイハードの言葉は、あまりにも自分勝手だった。
王子の身に何があったのかは、アリアたちは知らない。しかし、一度は婚約を破棄した人間と再び縁を結ぼうとするなど聞いたこともない話である。
こんな馬鹿らしい話を王家が考え付くはずがないし、娼館に火をつけてまでリシエの情報を得ようとするとは考えにくい。だとすれば、今回のことはレイハード王子が全て単独で起こしたことである。
「首と胴体のお別れは、まだ先になりそうだな」
カグラは、ぼそりと呟いた。
一応は、アリアのことも心配してくれていたらしい。
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